FYFQ的映画評論『パラサイト 半地下の家族』

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今回観た映画は、2019年公開、韓国発の壮絶なブラックコメディスリラー映画、『パラサイト 半地下の家族』です!
監督はポン・ジュノ、主演はソン・ガンホなど。
今作は世界中で大絶賛されて、アカデミー賞を筆頭に本当に数多くの表彰を受けた作品です。日本では2020年度における海外映画のなかでは最高興収を記録したそうです。
韓国映画における最高のビッグネームの一つだと言っていいんじゃないでしょうか。


今作のあらすじとしては、半地下住宅に暮らす一家四人(両親、息子、娘)の、経済的にかなり困窮している家族の話なんですが、
その息子がある豪邸に住む大富豪一家の娘の家庭教師を引き受けたのをきっかけに、他にもいろいろと仕事をもらう名目で、この困窮した主人公一家がその豪邸に通うようになります。
息子は家庭教師、娘は美術のカウンセラー、父は運転手、母は家政婦という感じで、お互い他人になりすましながらその豪邸で働き、その富豪の生活に文字通りパラサイトしていく、寄生していくわけです。
それで、順調に金持ちの空気を吸いながらお金を得ていたのですが、そんな生活はある衝撃的な事実によって大きく掻き乱されていく…。
といったお話ですね。


まずタイトルにある「半地下の家族」という言葉、これは原題には入ってないのですが、この言葉がまず重要で。
日本ではあまり馴染みのない半地下住宅、半地下物件というのは韓国には多くてですね。
というのも1970年代くらいまでは、韓国では住宅建築する際に半地下部屋も一緒に作ることか多くて。
それは倉庫の役割もあったんだけど、一方で、北朝鮮との戦争に備えて防空壕として機能できるから、という理由だったそうなんですね。

で、それから人口増加に伴って、そういった半地下部屋が住居としても使われるようになったと。
もちろんもともと住居用ではないので、実際に住むとなると、場所によるけどかなり劣悪な環境らしくて、たとえば換気ができなくてカビがすごいとか、そんな住居空間になるんです。なのでそのぶん家賃は安いわけですね。
つまりそこに住むのは貧困層なんです。

そんな貧困層の家族が、上流階級の社会のてっぺんみたいな家族、その住まい、その環境にパラサイトしていく。
つまり「半地下の家族」という文言は、文字通り半地下住宅に住んでいる家族を指しているのであり、同時に困窮世帯や貧困層の暗喩でもあるんですね。

似たような話で韓国には屋根部屋と呼ばれるような住居もあって、アパートとか建物の屋上に建てた家というか、要は郊外でよく見られる増築小屋みたいなものがあって、困窮世帯がそこに住むパターンもあると。
まあこれはほかの海外でも見られるやつだと思うんですが、
今作の舞台にそこじゃなくて半地下住宅が選ばれたのは、以前『ジョーカー』を評論したときにも言ったような、上下の世界を対比させる目的が一つあったんだろう、と思います。
金持ちと貧乏を視覚的に表現するにはこの方がわかりやすいですしね。


もう一つ、面白いというか若干引っかかった部分としては、主人公一家のナチュラルかつ強力な家父長制の空気感ですね。
つまり家族のなかでお父さんが権力を持ち、しかもそれを家族全員で無自覚的に受け入れている状況で。
ただ、この家族は全員がほぼ無職のド貧困なので、普通は(普通とかないと思いますが)、そういう状況なら家族間の何らかの軋轢があったり、家父長的というか親子的な権力構造がぜんぜん機能しなかったり、或いはいびつに機能しすぎたりするパターンを僕はよく見かけるんです。

それは例えば親から子に対するあらゆる暴力・ハラスメントとか、去年話題になった「親ガチャ」という言葉が示したような、親に対する慕えなさを子供が自覚したりとか。
そういうやるせない家庭環境を再生産し続ける一因が貧困というものだったりするので、今作の主人公一家にそのやるせなさがほとんど見られなかったことが、僕が気になったところです。
絶望的な状況なのに全く誰も絶望していないというか。

主人公一家は家族全員が普通に仲いいし、特に息子にとってはあのだらしない父親が絶対的な権力者として存在し続けている。父親は母親の尻に敷かれているように見えるけど、基本的には父親にあらゆる決定権や主導権がある。そういう家庭環境なんですね。

ここで映画的に重要なのは、家父長制が家族の中で強力に機能していることによって、どれだけだらしない父親でも、その言葉に重みや説得力が大いに付加されているところです。

例えばいろいろあって追い詰められた状況で、息子に「次の計画ってなんですか」と(敬語なのがまた随分と家父長感ありますよね)聞かれた父親が、「無計画だ」と答えるシーンがあります。
つまり計画なんかするから人は失敗するし、計画さえしてなければ何が起きても関係ないんだ、みたいな理屈なんですけど。

こうやって改めて話すととんでもない屁理屈ですが、それが息子の心に深く刺さって、その後の彼の行動に強く影響されていくんです。
それが成り立つのは、やっぱり父親という存在の強大さがあるからなんですよね。

でもやっぱり、その家族関係が、貧困という状況下でも成り立つということ。そこは今後ほかの韓国映画とか、韓国だけじゃなくていろんな映画を見るにあたって、僕自身ももう少し深追いできたらいいなと思ってます。
単純に設定の問題かもしれませんけどね。意図した設定じゃないかと僕は感じたので、ここはちょっと消化不良でした。勉強します。


今作はそんな一家が大富豪家族に寄生する、身分を偽ってそこに居ようとするという話なので、序盤の、その豪邸で主人公家族のそれぞれの仕事がトントン拍子で決まっていくあたりは、ロビン・ウィリアムズ主演の『ミセス・ダウト』という映画を思い出しながら観てました。
これは家族に会いたいがために家政婦に化けてその家に通うという話で、完全にコメディ映画なんですけど、個人的にはかなり被るところがあるな~と感じました。

なので今作のこのお話自体は、本来、面白い話なんだと思うんです。本来はね。
純度の高いコメディで、どことなくミスタービーンっぽさもある、笑える話だと思うんですね。

今作も序盤は割と軽いというか、コメディタッチなところが多かったんですが、
後半から終盤に向かうにつれて、物語は一気にシリアスな雰囲気になっていって、我々観客は戸惑いと緊張を覚えながら観ていくわけです。

これはもちろん脚本が素晴らしくて、先の読めなすぎる展開、つまりサスペンス性が、純粋に映画体験として強烈だったし、
その一家の状況がめまぐるしく変わっていく様子を見ることで、多彩なメッセージが、いろんな角度から降ってくる感覚がありました。


特にすごかったのが、後半のほう、例の豪邸で主人公一家が揃って晩酌みたいなことをするシーンがあるんです。ようやく俺たちここまできたな~みたいな。実際は寄生してるだけなんですけどね。
まずこの晩酌の様子が、一家四人でテーブルを囲むんじゃなくて、ほぼ横一列みたいな構図で、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』みたいな光景なんです。
ネタバレになるので言えないですけど、これが後の物語展開の重要な布石になってるな、と感じたりしましたけどね。今思えばですが。

その晩酌の場で、一家四人のそれぞれの気持ちが吐露されていきます。
息子が「ここの娘と結婚してこの家の一員になる」と言ったりとか、母親が「私もこんな金持ちだったらもっと優しかった」と言ったりとか、娘が「他人じゃなくて自分たち家族を見てほしい」と強く訴えたりとか、父親はその中で静かに劣等感を高めていったりとか。

わかりますか、この異常さが!
今まで触れることのなかった上流階級の生活に触れてしまったことで、息子は自覚のない結婚詐欺行為を夢見て、母親は社会的なポジションが人格形成に影響することに気づいて自身を嘆き、娘は家族の在り方が変わってしまうことを危惧し(最も冷静な立場だと思います)、父親はこれまで微塵も無かった強烈なルサンチマンを抱くようになる。

つまり主人公一家は大富豪家族にパラサイトするのですが、同時に、知らず知らずのうちに人生を狂わされている、主人公一家自身が生き方や人格をパラサイトされているわけです。


では主人公一家にパラサイトしているのは誰か。それは貧困であり格差であり社会であるという、実体のない最強の化け物なんですね。
その化け物には誰も勝てないんです。上流階級のひとたちや権力者ですら抗えない、というか抗うとかいう次元の話ですらないんです。


この映画の登場人物って、観た人はわかると思うのですが、最終的な被害者だけはわかるものの悪者が誰なのかが全然はっきりしないんです。
法的に言えば犯罪者・加害者はいっぱいいますけど、それは、例えばこいつはこんな犯罪を犯したけど、それはあいつがあんなことをしたせいで、いやでもあいつがあんなことをしたのは、更にあいつがやむをえずアレをしたからであって…、みたいな、根源に一生到達できない感じ。これこそ構造性、これこそ社会、て感じなんですよ。

誰がどう悪いのかというロジックがはっきりしない。でも傷ついたり命を落としたりする被害者はいる。それは実はすっごいリアリティのある構図だし、別に韓国だけじゃなくて日本でも世界でも日々発生している事件や揉め事とかの正体だったりするわけです。


この映画の最後のほう、あの衝撃的な展開は、衝動性に身をゆだねた人たちのハチャメチャ展開に見えるんですけど、その背景に目を向けると実はそんなに予測不能なことでもなくて、だからこそ貧困や格差を解消しようとかSDGsとかが叫ばれてると思うんですよ。

こんな目に遭いたくないでしょ?こんな社会は嫌でしょ?このままだと、こんな化け物にパラサイトされて、誰でもちょっとしたきっかけでこんなことになるよ!?という受け取り方もできる。できてしまうわけです。
所詮フィクションだと言い捨てることがなんかできないんです。
だから、本来笑えるはずの話に、これほどまでにシリアス性が増すんです。


今作は、貧困家族と富豪家族を対比させながら物語が進んでいくので、それはやっぱり『ジョーカー』っぽいし、『ジョーカー』っぽいということは、現実と地続きな社会構造がそこにあるということなので、我々がいまどんな社会に暮らしているのかということを再認識させてくれるという意味でもいい映画だと思います。

『ジョーカー』と似てるか似てないかの議論があるみたいですけど、僕の解釈では、「意図せず似てる」。それはつまり、「あらゆる問題の根源は同じ社会構造から生まれている証左である」のだと思います。
こんな世の中でいいんですか!という問いは、世界共通の問題ですから、そりゃ似たような構図に行きつくでしょう、と思うんです。


逆に言えば、この二作が意図せず似たような構図になったということ、そしてどちらも世界的なメガヒットを果たしたということは、この貧困や格差といった問題が、いかに重要な人類共通の課題であるかということ。それがこれらの映画から滲み出る共感性の正体であるということ。ここをもう少し我々は意識したほうがいいのかもしれません。

あと、今作も『ジョーカー』も共通してたのは、上下の世界の境界を示すメタファーとして、階段が使われていたのは、ひとつ面白い点でもありましたね。
上流階級の上の世界と、貧困層の下の世界をつなぐ階段という存在。
その階段を登ったり下りたり、苦しそうに登ったり、楽しそうに下りたり、登ってたら蹴落とされたり、降りることで自分の居場所を得たり。そのすべてに重要な意味があったのだと思います。

こんな感じで、今作も、あらゆる視点であらゆる視覚効果を楽しめますし、重要人物が多すぎるし、言いたいことが本当に多いんですけど、今回の映画評論はこの辺で締めさせていただきます。
ありがとうございました!

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