算命学余話 #U99「家族に期待しない知恵」/バックナンバー
前回の余話では、官星(車騎星・牽牛星)の闘争本能や献身性について深堀りしてみましたが、佐藤優氏の『知の教室』にこんなことが書かれていました。
「ムッソリーニは、人間の本質は闘争本能にあると考えた。闘争心を掻き立てるときに人間は最大限の能力を発揮する。<戦争とは、民族精神の形成の場であると同時に、人間に自己意識を悟らせる試練でもある。それはファシズムの「生の哲学」の中枢である>というのがファシズムの哲学だ。」(p.157)
ムッソリーニといえばヒトラーと並び称されるイタリア・ファシズムの首領として悪人を思い浮かべる日本人がほとんどだと思いますが、ここではファシズムは近代史に登場した一思想形態であり、結果的には軍事と結びついて諸国の破滅を招いたけれども、基本的には自信を失くした国民を鼓舞してやる気を出させる「がんばれ東北、がんばろう日本」と同系列の話であるという流れで扱っています。詳しくは本著を読んで頂くとして、同じような視点に立って評論家の西部邁氏もまた、ナチズムの語源がネイションであることを指摘し、自国民の生活や権利をいかに他国の横暴から守るか、という自衛のための政治思想が根本にあること、その思想自体は間違っておらず、今日のTPPのような関税撤廃で農業などの弱い国内産業が壊滅して他国依存を余儀なくされる事態を断乎阻止するための、当然の帰結としての自衛自立論であるとしています。
歴史の教科書が敗戦国であるドイツやイタリア(日本も)の首領を全面的に悪しざまに描いて定着させていることに気付いていないと、佐藤氏や西部氏の見解を吟味することはできません。歴史は事実の連続にすぎず、そこに教訓はあるけれども、都合のいい善悪論を先に立てて歴史を判断してはならない。なぜなら人間は誰しも悪を悪だと思ってやっているのではなく、他者にとっての悪であっても自らは善だと信じてやっているからです。だから善悪論はあてにならない、というのが算命学の基本姿勢です。
ましてや歴史の捏造など、中国が王朝時代から連綿とやり続けて記録したものを正史と呼び、文字を持たない周辺諸国を全部脇役・悪役・子分役にしてきた実態を思えば、歴史は事実の連続ですらなくなってしまう。捏造の壁に阻まれて、私たちは過去の教訓を得ることができなくなるのでしょうか。有難いことに、捏造もまた事実として残りますから、しばらくはウソがまかり通っても、最終的には真実が勝つ、というのが算命学の考え方です。
その証拠が、世界中で通説となっている今日の中国人の評価です。幸い日本人の評価は世界中で高く、それはウソが極めて少ない国民性(中国人と比べたらゼロに近い)と信頼できる輸出製品のお蔭です。最近はマンション建設の偽装が発覚して騒ぎになっていますが、大いに騒いで再発防止に邁進してほしいです。中国人の建てたインチキマンションと一緒にされては困りますからね。
前回も少し触れましたが、算命学は諸子百家の時代の中国人が考案した思想体系であるにもかかわらず(創始者は鬼谷子とされていますが、一人で大成したとは考えにくい)、現代中国人は福寿禄で価値観が停止し、官と印を概念として知りません。強力な中華思想のあまり、地球の中心(中華)へと引力で掻き集める禄=金銭欲・物欲に囚われたまま、一向に官へと向かう気配がない。仮にあったとしても彼らの官は「面子(メンツ)」という偽りの名誉欲であり、財産という下支えを失えばたちまち地上へと墜落してしまう。
この事実から気付かされることが2つあります。1つは、中国人が歴史的に捏造を繰り返したあまり、禄から先の官・印へと前へ進めずいつまでも足踏みを余儀なくされていること。もう1つは、モンゴルやチベットその他大勢の周辺諸国の文化を「中華文明の亜流・裾野」と呼んでその独自性を認めてこなかった事実から、実は算命学もまた中国人の発明ではなく、周辺民族の発明だったものを中国人が輸入し、漢字に残した時点で中国原産と偽って喧伝した可能性がある、ということです。というのは、今日の周辺諸国の行動様式を考えると、物欲から離れた官や印を上位に置く思想というのは、彼らの先祖の頭からひねり出されたと考えた方が自然だからです。
このように算命学の出自そのものさえ疑う余地はありますし、疑っていいのです。大事なのは何でも鵜呑みにしないこと。算命学には既に確立された理論とそこから生まれた定説定型がいくつもありますが、定型だけをいきなり丸暗記しようとする学習者には強く警告致します。基本理念と理論の積み重ねの先に確かに定型がつながっていると納得できないうちは、その定型をむやみに利用すべきではありません。「そういう理屈だったのか」と得心いってから使うよう心掛けて下さい。どうやったら理屈が辿れるか、そのやり方を開示したものが算命学余話なのです。
今回のテーマは、最近どこの本屋でも売れ筋となっている下重暁子著『家族という病』に触発されて、家族について考えてみます。この本は読んではいないのですが、まずタイトルが衝撃的で、私は思わずガッツポーズしたほど言い得て妙だと感じたものです。当然、私のようにガッツポーズが出た人は、自分の家族について否定的見解をお持ちの方だと推察致します。しかしこのタイトルでベストセラーになるということは、家族に否定的な人が随分いるという証拠です。
算命学の陰陽論からいえば、その数は人口の半数であるはずですが、多すぎるでしょうか。いいえ、いつの世もこれくらいいたのですが、戦後の道徳教育が家族団欒を善としたので、崩壊家庭の子供たちは後ろ指さされないよう口をつぐみ、妻は良妻賢母の枠に無理やり自分をねじ込んで体裁を取り繕っては、心身の病に罹ったりしていたのです。ひと昔前は忍耐していたのは女と子供でしたが、最近は女も子供も言い返したり訴えたりする機会が広がったので、夫や父親もうかうかふんぞり返っているわけにもいかなくなりました。家族に無視されて小さくなっている男性の皆さんも、きっとこの本のタイトルに釘付けになったことでしょう。
著者の下重氏は自分の少女時代を振り返って、敗戦で公職を追放された元軍人の父親が商売に失敗して荒んでしまったことに失望し、そんな夫と厳しい現実から逃れるため娘に過度な期待をかける母親にも嫌悪を覚えたと語っています。その本意については本著を読んで頂くとして、こうした家族の不穏な現実に直面した場合、算命学の思想がどのような解決法を提示してくれるか、という点について考察してみます。今回も鑑定技法の話にはなりませんが、相談内容として家庭問題はよく受けるテーマなので、鑑定の実践には役立つ話かと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?