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最近の話 2024/02/16

最近子どもについて書いてなかった。
ここ最近のできごとについて、思い出せるものだけでも、書いていく。

娘について


我が娘は十歳になった。お母さん!お母さん!とはなるものの、多少の精神的な自立がみられる。娘に関しては、そこまで学校のことを把握していない。嫌な先生や苦手な友だちがいること、友だちから誕生日プレゼントをもらったこと、昼休みに鬼ごっこをして遊んだことなどなど、時間があれば色んなことを話してくれる。
一ヶ月ほど前になるが、お風呂に入ってるときに嫌いな先生の話になった。どの児童からも嫌われているらしくて、こそこそと耳元で「あのね、友だちの〇〇ちゃんは、田中先生のこと田中って呼び捨てにしてるんだよ」と話してきたのが可愛かった。ああ、先生を呼び捨てにすることを悪いことだと認識してるのか、その純粋さが可愛かった。

仲の良い友だちも多いらしく、安心する。でも家庭環境のせいか私のせいか、周りをよくみて、人にとても気を遣う。親戚のおじさんに「あの子は神経を使ってるね。気を付けてみた方がいい」と言われるほどに。

たまに、娘が無神経な発言をする。その度に怒ってしまうが、普段気を遣い良い自分であろうとする娘の、ほんの些細な失言までひどく怒ってしまったら、娘の逃げ場がないなと思って反省する。

何にでも関心を示し、アレやりたいとかコレやりたいとか言う娘の要望に応えられないときが多い。我慢させていることも多かろう。

来年度は五年生になる。私が五年生の頃は、母が鬱になり、どうしても家庭のことが気になり、子どもらしくいられなかったように思う。

普通の五年生の子が向ける外への関心が、学校と家庭とどのくらいの比率であるのかわからない。きっと親への関心はどんどん薄くなっていくのだろう。今ある子どもの子どもらしさを親として喜び、これからの成長とそれに伴う親への関心の消失を寂しく思う過程を大切にしていきたい。

息子について

我が息子は八歳になった。二年生から学校でのトラブルは増えたものの、支援に繋がることで最近は少しだけおさまってきたように思う。

息子の発達に関しては、個人のことなのでここまでに留めておく。

息子は本が好きで、自分で読むのも、私が読み聞かせするのも大好きで楽しんでくれる。少し前は、カチカチ山が好きで、よく読んでいた。寝る前に絵本を読むと、娘より息子の方が感情の機微を理解し、より深く物語を楽しんでいるように思う。この人物はなぜこう考えるのか、どうしてその気持ちになったのか、それを言語化するのも上手だ。

物語から読み取る力は、人間関係にも及んでいる。例えば娘は、人の死というものに敏感なのだが、物語や日常の会話の中に『死』の要素が出たときに、娘(息子からしたら姉)が悲しくなっていないか、顔をチラと見て様子を伺っている。

息子も時間があれば、色んな話をしてくれる。主にゲームのことだが、学校であった嫌なことも話してくれる。まだ話し方が幼く、おそらく私が親として味わえる最後のたどたどしさ、支離滅裂さ、純粋さ、無垢さの詰まった話し方なので、ああ可愛いなあといつも思う。

今日は病院に行ったが、待ち時間に息子はゲームをして、私は本を読んでいた。途中でゲーム機のバッテリーが少なくなり、暇そうにしていたので、両手を一本指にしてから戦うゲーム(名前はわからない)をやって遊んだ。数回で飽きるかと思ったが、何回やっても飽きずに一時間くらい遊んでいたと思う。

息子は、私の楽しむアニメを一緒に見てくれるので、できれば一緒の作品を楽しむ時間をこの先長く持ちたい。

娘も息子も、祖父に画数を見てもらい名前を考えた。(画数が大切かというとわけではなく、我が家の習慣だからという理由が大きい)

息子の名前をつけるとき、祖父から「この子は小さいときは大変だけど、大きくなれば大丈夫」だと言われた。そのときはまだ赤ちゃんで、占いめいた予言をよくわからずにいた。画数から人生などわかるものかと考えもあると思うが、こういうものはお守りを燃えるゴミとして捨てられるか、廃棄するご飯を踏めるか、オモチャの鳥居を壊せるか等々の価値観の延長によくあるものなので、正しさとは別なのだと思う。

今思うと、確かに息子の人生は少し大変なものだと思う。同時に、親の欲目かもしれないが、優秀さも持ち合わせているとも思う。

有島武郎の『生まれ出づる悩み』の中に「これは悲しくも私たちの一人一人が肩の上に背負わなければならない不条理だ。」という一節がある。幼いうちから不条理さを背負う息子の人生に、親として何かできることはないかと常に考えている。息子自身の苦しさも感じている。

祖父の名前からみる占いのような予言を、少しだけ希望のようにすがっているが、これらは私と息子の問題なので、不条理さを感じつつも、受け入れなければならない。

娘と息子について

相変わらず二人して遊ぶこともあるが、それぞれゲームをして遊んでいることも多い。娘は精神的な成長の段階にいるので、息子の幼さを疎ましく思うことも増えてきた。お互いを気遣い、友人のように遊び、願わくばこの先の人生も疎ましくも親しき家族として、兄弟として生まれた縁を大切にしてほしいと思う。

私について

2023年の頭に、私はnoteに自分について以下のように書いていた。

> さて、だ。
私は一人が好きで、この先も再婚という道を選ばずに生きていくのだろうと思うのだけど、同時に、私は一生誰かを愛さず、愛されず、愛する云々はなしにしても抱かれることもなく、手を繋ぐこともなく、誰かと会うことや顔を見てときめきを感じることなく生きていくのか。そう思うともったいないことをしているのでは、後悔しないのかと自分自身に問うのだ。

この記事を書いた数ヶ月後に恋人を見事捕まえ(私の認識しないなんらかの力が働いて捕まえたと思っている)、今現在に至る。

私は親として生き、子どもがある程度の大人になったら次は親の介護をして死ぬものかと思っていたが、それ以外の人生もあるのかと思えるようになった。正直、諦めるように生きていたので、とても感謝している。楽しいとか、自分の幸せを追求したいとか、個人の欲を抱ける自分になれたことがこの上なく幸せである。

私は、というか人間は忘れてしまう生き物なので、定期的に私の身の回りにある人たちついて書いていきたい。

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