誰のために書くのか

読者のためになどと高尚なことを言うつもりはないけれど、誰のために執筆の時間やインプットの時間、言葉や表現、考証を行うのかというのを意識するのは大事だと思う。

先日、nhkの番組で野村萬斎氏が言っていた、「先人の型に自分の思いをのせることで、自分の可能性を広げていく」という考え方は非常に重要だと個人的に思っていて、結局、オリジナリティを出そうとしたところで、他作品で見たような出来になってしまうというのは、言語を扱う文章という表現では誰もが通るような道のような気がしてならない。

僕は常に自分のために、自分が読みたくなった時や過去の自分の努力の過程や妄想をどうしても文章として形に残しておきたいと思いながら筆を取る。しかしながら、僕は最近、ネットの評価—Twitterのいいね、pixivのブクマで—どれくらい評価されたかを気にしがちだ。それ自体は、自分の承認欲求を満たす上でという意味では自分のためといっても差し支えないだろう。だが、真に自分が読みたいがために書いたというのなら、自分の作品が閲覧数のみ増え続け、ブクマが来なくてもよかろうはずなのだ。そう言い聞かせなければ、
小説を書く時に救われないという思いが消えないのはやはりどこか他人に称賛されたいがために書いているのか…と、自分で自分を疑っている。

三島由紀夫が言っていたかもしれないが、人間は物事を成しうる過程でしか幸福感を得られないというのは、執筆している時の気持ちの変動でも、わかる…わかる…と思いながら書いている。

僕は官能小説ばかり書いて来たが故に官能的な描写が入るが、基本的にはそのキャラクターが好きで、どんなことを考え、どんなことを欲し、どういう場面で葛藤するかを考えるのが好きなので、
いわば書いている時ほど、そのキャラクターをじっくり観察しているといっても過言ではない。

だから僕は称賛されないことが多くとも、小説を書くのをやめられないと思っている。
この文章を見て、僕の小説を見ている者は僕とTwitterで繋がっている者が比較的多いと見ている。その上で話すが、だれが称賛を得られてないって?得られているじゃないですか?とpixivを見て思うかもしれない。だが、もし君が僕とTwitterで繋がっているとして、君は、ぼくの小説に関するツイートにいいねを押したか?もしくはpixivでいいねを押してくれたか?…いいや、本当に押してくれたなら感謝感激雨あられだ。素直に謝りたい。しかし、押していないなら、きみは卑怯者だ。だって反応がなきゃわからないのが人間なのだから。数字がなければ、もしくはメッセージでもなければ、評価されているなんて、わかるものか。スピリチュアルじゃあるまいし。
誰かがいいねしているだろうなんて思い込みでいいねを押さないものが、承認欲求に狂っている絵描きや字書きを見て幻滅するならすればいい。
評価をしないものが、評価されたいと狂う者を叩くなと言いたい。

話が逸れてしまったが、要はこのようなことを考えてしまうのは、よくないと思っている。
僕はただ、毎日8時間かそれ以上残業して、あとは生活に回され、残った30分か15分で練りに練った創作でこのような憎悪にまみれたくないだけなのだ。誰のために書くのか、それを意識するのが重要だ。僕は、僕の情緒の安定、生きるために書くのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?