2.26事件と5.15事件の根底
2.26事件や5.15事件といった用語。一度は聞いたことあるでしょう。
テストのためだけにこの単語を覚えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
・1932年5月15日 首相・犬養毅暗殺
・1930年11月 濱口雄幸暗殺。
・同時期 血盟団事件 三井財閥番頭、民政党・井上準之助暗殺。
・1936年2月26日 内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎が暗殺
※首相岡田啓介は回避した。
内容をChatGPTくんに教えてもらいましょう。
1930年頃は首相の5人のうち3人が暗殺に遭い、1人が未遂ながら狙われた。完全に政権が狙われていた時期である。では一体誰に狙われていたのでしょうか。
皇道派
この事件を起こしたのは軍部の中の皇道派と呼ばれる人たちである。
要するに天皇のことを第一に考える人たちである。
しかし、結果的に天皇からの命で処罰されることになる。
皇道派の考えとしては
「持たない国」である日本が強い軍隊を持つには、精神力に頼むのが一番である。最も安上がりでそれなりの実入りも望める。そして皇道を信奉し、真面目に国に尽くしてくれる素朴な兵隊の供給源は農村である。
というのがある。
そして皇道派の決起の理由としては前文の最後に出てくる農村の荒廃が挙げられる。
武器など高価なものを買うと国が貧しくなる。であれば、精神力のある兵士が必要である。しかし、政府は日本農民を無視し、過大な負担を強い続け、地方農村を疲弊させる政策が取られ続けている。特に東北の惨状はひどい。傷ついた農村を回復しなければならない。
そう。皇道派の決起理由は最強の兵士の供給源である地方農村の荒廃であったのだ。
衣食足りて礼節を知る
「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。
礼節がなくなれば国家や社会は維持できない。それはつまり衣食がなければ国は滅ぶということである。
これは紀元前200年頃の中国の思想家・韓非氏も同じことを言っている。
そして実際に衣食が足りなくなったのが1917年である。
歴史に詳しい人はこれがなんの年かわかるであろう。
まず第一に第一次世界大戦の最中であるということ。
そしてもう一つはロシア革命(共産主義革命)が起こった年であるというこである。
日本はこの頃、自国の食料を自国だけで賄えなくなっていたようだ。
米だけでみた自給率は90%。10%は輸入していた。
さらにこの頃、西日本では米よりも実入りのいい養蚕に転校する農家が増えた。彼らも米を買うようになる。
さらには第一次対戦中のヨーロッパは輸出ができない。それをみて空白化したアジア市場に日本は乗り込んだ。これにより工業・鉱業は儲かった。これにより都市部に急激に集まった。すなわち農村の人が減ったのである。
更に更に成金がお酒を嗜むようになる。そうなると米は米でも日本酒用の米が作られることになる。
大戦による好景気は、食糧不足を助長したのであった。
1917年の1年で米の収穫量は前年比で7%減っていた。
さらにはロシア革命への対抗策として寺内内閣はシベリア出兵を敢行。これにより商社らが米を買い占めた。
これにより米価はなんと4倍にもなった。
政府の対策
それで政府はどうしたのか?
原敬や井上準之助などは朝鮮での米の生産の拡大を目指した。
朝鮮から輸入することで国内の米不足を解消する。これは貿易赤字の削減にもつながる。そして朝鮮自体の収穫も増え、朝鮮の統治をしやすくする。
朝鮮の田畑は改良の余地があったため、土壌改良などで一気に生産量が増えた。そして品種としては「亀の尾(ササニシキやコシヒカリの前身)」がハマった。とくに現在の北朝鮮の地域で。
結果的にではあるが、日本の米より朝鮮の米の方がおいしくて安い!となった。関東の米の消費の4割が朝鮮産の米であった。
これで原敬や井上準之助の政策がうまくいったように見えた。
しかし、そうではなかった。朝鮮の米が売れすぎたため、なんと80万俵の米が余ってしまったのだ。それも全て東北地方の米であった。
米が余るということは米価の下落を意味する。なんと3年で25%も下がった。さらにそこに追い討ちをかける世界大恐慌。これにより養蚕の価格も半値になり、米価も下がり続けた。
1930年は例年比15%増の大豊作なのも裏目に出た。米価は8月で30円/石だったものが、9月には19円/石に下がった。
そして1934年には凶作が襲った。
結果的に米が大収穫できても食べていけない、取れなくても食べていけないとなった。
これが契機となり、東北の人が都市部や炭鉱に出稼ぎにいくようになる。
労働力の配置転換がおきたのだった。
そしてこれが皇道派が銃の引き金をひくきっかけとなったのであった。この時期に暗殺された人は農業政策に携わっていた人たち(特に朝鮮)であった。
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