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曖昧さ、不合理へ

人間の生活世界が徐々に私的になりつつあると感じる。
道を行き交う人々は首を丸めスマートフォンの情報を摂取する。あらゆる事物が発する、存在が、人工的に彩られた記号に覆い尽くされている。人々は目の前の樹木よりも、ソーシャルメディアの切り取られた樹木をスワイプする。もちろん、目の前の午後の心地よい風や朝の小鳥の鳴き声を感受し、自らがその自然一体となることに身を委ねる行為は現に全ての人に多くあるだろう。
しかし、その観想的な時間は徐々に隅に追いやられている。あらゆるものが生産的な価値に転換できる時代において、このような内省や一つのものに集中することは短期的な実利を伴わないからだ。都市においては情報と人々が溢れ、自らの感受性をある程度遮断する必要があるため、より自然の事物を受け取ることが難しくなる。耳にはイヤフォンをつけて、スマートフォンを凝視することは生物的には自殺に近い行為だが、都市に生きる人々にとっては、処理しきれない情報を遮断し、自らの世界に堅牢な壁を築くことによって、外部からの浸透から守るのだ。
このように最適化された人々はより自らの世界の構築に励む。自らが好きなものを、自らの思想に近いものが意思の関与しないプラットフォーマーのアルゴリズムによって供給され続ける。私たちが敵を想定して、そこから守ることをロジックとする二項対立的な言説が多く飛び交う。何々が私たちの利益を無法に得ていることを、誰々の失敗や過失をこれでもかと取り上げ、人格否定に繋げる。ソーシャルメディアがボトムアップ的な、より民主的な政治形成が可能な場であることが期待された初期と違い、今やもはや、ソーシャルメディアは全体主義的な空気を再生産し続ける。立場により、摂取している情報が違いにより、その対立は根深く、相互理解から遠ざかり、分断がより深まるだろう。私がどのように未来を想像し、それに近づけるか、そのための行為が社会に貢献できる行為だと考える。

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