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たそがれ商店街ブルース 第10話 たそがれ商店街

 あちら側の商店街が一歩ずつ近づくのに合わせて、西の空はまた徐々に色彩を取り戻し始めていった。しかし、太陽はもうほとんど沈んでしまっているために、その光はとてもか細くて、まるで最後の一滴まで絞り出されたあとのオレンジのように寂しげだった。
 街灯がいつの間にか点灯している。冬の黄昏時だ。私は早く塔子ちゃんに会いたくなった。

 踏切は遮断機を高く空に掲げ、商店街は私を快く迎え入れてくれた。私は呼吸を整えながら、ゆっくりと踏切を渡っていく。この踏切を渡り切りさえすれば、私は自分のいるべき場所へ戻ることができるのだと思うと、少しだけ体が軽くなってくるような感覚があった。

 私は踏切を渡り切ると、一度立ち止まり、時間をかけてゆっくりと肺に溜まっていた空気を吐き出した。すると、足の裏を伝って、徐々に安心感のようなものが込み上げてくるのを感じた。今、私の目の前には見慣れた商店街が続いている。それは物静かで、人もまばらな、寂れた商店街だ。

 私は踏切を背にして立ち止まったまま、雨宮ドラッグの中を覗き込んだ。すると、ミヤ姉さんはレジカウンターの中で手鏡を持ったまま立ち止まり、口角を上げたり下げたりを繰り返していた。きっと表情筋の運動をしているのだろう。口角を上げた時のミヤ姉さんはとても感じがよく見えたし、それに、とても綺麗だった。しかし、口角を下げるのと同時に、ついつい眉間に皺が寄ってしまうところがなんともミヤ姉さんらしくて、私は思わずほくそ笑んだ。

 商店街を奥へ向かって歩き出すと、あたりはだいぶ暗くなっていた。白熱灯の街灯が商店街を優しく照らしている。夕日のオレンジ色とはまた違う、人工的な淡いオレンジ色の灯り。この灯りはこの商店街にピッタリだと私は思った。空気も風も冷たいけれど、どこかホッとする。そんな温もりのある灯りだ。
 さあ、夕飯の材料を買って、さっさと家へ帰ろう。
 ふつふつと湧いて来る安心感からか、空腹を感じ始めていた私は、お腹をさすりながら原青果店へと向かった。

「白菜と長ネギをください」
 原青果店ではハッピを着たトミさんが、早仕舞いの準備をしていた。
「ああ、山ちゃんかい。はいはい、白菜と長ネギね」
 トミさんは手際よく、4分の1にカットされた白菜と長ネギをビニール袋に詰めてくれた。なにも言わなくても4分の1サイズを選んでくれるところが、とても心地よかった。
「ひょっとして、今日は水川ヒロシの日ですか」
 私がお代を払いながら尋ねると、トミさんは自作した、水川ヒロシの顔写真付き団扇を私に見せて、にっこりと笑った。
 トミさんと斜向かいの青木果物店の奥さんは、演歌界の貴公子、水川ヒロシの大ファンで、月に一度、青木さんの家でライブビデオを見ながらの応援会を催していた。
「本当にお好きなんですね」
 私がそう尋ねると、トミさんは「天国のお父ちゃんよりいい男よ」と言って、団扇に貼られた水川ヒロシのほっぺたに唇を当てた。そして、少し寂しそうな声で「顔はね」と付け加えた。
 私が思わず「顔だけなんですか」と聞き返すと、トミさんはいつになく真面目な顔をして言った。
「当たり前じゃない。そりゃあ、お父ちゃんよりかっこいい男なんて、世の中にはごまんといるわよ。でもね、お父ちゃんよりイケてるハートの持ち主は二度と現れない。だから誰もお父ちゃんには敵わないのよ。ヒロシも、リチャードギアも、デニーロも、ポールニューマンも。なんでもそう。やっぱり中身。目で見えるもんなんてのは、結局そんなもんなんだよ」

 そう言ってしまうと、トミさんはまたいつもの明るい顔に戻り「ところで山ちゃんは好きな人いないのかい」と、興味津々な顔で私の目を覗き込んできた。
 トミさんの急な変わりように戸惑っていると、トミさんは「好きな人の1人や2人いた方がいいんだよ。それだけで人生ハッピーなんだからさ」と後ろを向いて、ハッピの背中一面に縫い付けられた、水川ヒロシの大きな顔写真を私に見せつけた。そして「ひーひひー」と声をあげて笑ってから「早く風邪を治してね」と、ダンボール箱からミカンを1つ取り出して、私の買い物袋に入れてくれた。

 私はその後、石川鮮魚店で鱈の切り身を買い、田中精肉店でぶつ切りの鶏もも肉を買った。
 石川鮮魚店の力さんは、私がぶら下げている買い物袋から長ネギが飛び出しているのを見て「山ちゃん、まさか一人鍋かい」と尋ねた。
 私が「今日はコレで寄せ鍋です」と言って河童のラベルが貼られたカップ酒を見せると、力さんは「そんな寂しいことすんなよ」と頭を掻いて、これから田中んとこの坊主も連れて『ご縁』に行くから、山ちゃんも一緒にどうだと誘ってくれた。
 しかし、私はまだ風邪が治りきっていないのと、予想だにしていなかった今日の出来事で疲れ果ててしまっていたので、「今日のところは遠慮しておきます」と伝えると、力さんは腕を前で組んだまま「たく、寂しいやつだな」と残念そうな顔をしてくれた。
 すると、隣でそのやりとりを見ていた田中さんが、顔をニヤつかせながら体の前で腕を組んで、わざとらしい喋り方で力さんのモノマネをした。
「たくぅ、寂しいやつだなぁ」
 次の瞬間、ゴツンと大きな音が、暗くなった商店街の空に鳴り響いた。私は思わず空を見上げた。しかし、星はまだ1つも出ていなかった。


 その場を後にすると、私は神田酒店に立ち寄った。すると、神田さんはまだ戻って来ていないようで、代わりに神田さんの奥さんが店番をしていた。神田さんの奥さんも、神田さんと同じように髪をずいぶん明るく染めていた。
「あら、山ちゃん。アレになんか用」
 レジカウンターの中で神田さんの奥さんが言った。
 そのレジカウンターの上には底が乾燥したマグカップが置いてあり、その横には読みかけの漫画が伏せた状態でおいてあった。
「特に用というわけではないのですが、さっき神田さんに助けていただいたので、お礼を言おうかと思って」
 神田さんの奥さんは「アレに礼なんかもったいないわよ」と鼻で笑い、リモコンを使いレジカウンターの中にある小型テレビの電源を点けた。すると、今日のゴールデンタイムの特番「冬だけにヒヤヒヤ⁈謎の心霊現象スペシャル」のCMが流れ、黒縁の眼鏡をかけた七三分けのアナウンサーが「アナタは今日、見てはいけないものと遭遇する」と、お決まりのポーズを決めて大袈裟に視聴者を煽っていた。
「ねえ、山ちゃんは幽霊って信じる」
 神田さんの奥さんが気だるそうに私に尋ねた。
「会いたくはないですが、いると思います」
 すると、神田さんの奥さんは「私も」と言って笑った。

 すっかり暗くなった道は思いのほか寒かった。空を見上げてみたけれど、やはり星は1つも出ていなかった。幽霊の話をしたせいで、電信柱の陰がやけに薄気味悪く思えた。

 塔子ちゃんが私を見下ろしている。私は小さな白い息を吐きながら呟いた。
「ただいま」

最終話へ続く

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