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たそがれ商店街ブルース 第9話 警察官

 私はいったいどれくらいの間、空中に身を置いていたのだろうか。それは一瞬の出来事のようにも感じられたし、数分間の出来事のようにも感じられた。ただ一つだけ確かなことは、私は裂け目に落ちることもなく、無事にあべこべの神社から戻って来ることができたということだった。その証拠に、私は今、商店街の真っ只中にいる。私の住んでいるアパートがある、あちら側の閑散とした商店街ではなく、少年に扮した河童と並んで歩いていた、あの賑やかな商店街だ。

 まだ冷めやらない高揚感も後押しをして、夕焼け色に染まった商店街はとても幻想的に見えた。商店街を行き交う人たちは皆、細くて長い影を従えていて、それらは他の影とくっついたり離れたりしながら、細胞分裂のように絶え間なくその姿かたちを変形させ続けていた。
 特に、背の高い2つの影に挟まれて歩く小さな影は、あっちの影にくっついたり、こっちの影にくっついたりと、とても忙しそうに動きまわっていた。
 商店街のスピーカーからは、ユニコーンの「雪が降る町」が小さな音で流れていた。影たちはそのリズムに合わせて、夜の闇が訪れる前のダンスを懸命に踊っているようにも見えた。

 そんな幻想的な商店街の姿とは裏腹に、私はマダム御用達ブティックのショーウィンドウに写った自分の姿を見て、一気に現実に引き戻された。
 薄汚れたロングコートを羽織り、毛羽立ったニット帽を眉毛が隠れるほど深く被り、顔のほとんどを覆い隠すようにマスクを着けた私の姿は、どこからどう見てもただの変質者にしか見えなかったのだ。
 ブティックの中では、いかにも上品そうな髪の短いマダムが、同じく上品そうな髪の長いマダムの相手をしていた。髪の短い方のマダムが私の存在に気が付くと、口元を手で覆い隠しながら、髪の長いマダムに向かってなにか耳打ちをした。すると、髪の長いマダムがゆっくりとこちらを振り返り、私と目が合うなりすぐに目線を逸らした。
 2人は首をすくめてひそひそ話をしているような素振りを見せながら、何度も私の方を振り返り、その度にまたひそひそ話へと戻っていった。
 きっとストーカーだのなんだのと言っているのだろう。上品なマダムからしてみたら、私のような男が店の前に立っているだけでも不愉快極まりないのだ。

 私は警察を呼ばれたりしたらたまったものではないと思い、その場を速やかに離れ、我が家のあるあちら側の商店街へと向かって歩き始めた。すると、今さっきまで夕焼け色に染まっていたはずの空はいつの間にか色彩を失い、幻想的に見えていたはずの商店街は、瞬く間に仄暗い場所へと変わってしまっていた。決して陽が沈んでしまったわけではない。その証拠に、太陽はまだ西の空の低い位置にいて、向かいから歩いてくる人たちを、濁った細い光で背後から不気味に照らしていた。逆光で表情はわからない。しかし、その光に照らされてできた長い影たちは、決して私と交わろうとはしなかった。どの影も右へ左へと器用に私をすり抜けていくのだ。
 そんな中、河童危機一髪が置いてあるおもちゃ屋さんの前を通り過ぎようとしたところで、真正面から2つの大きな影が私に向かって近づいてきた。その影は明らかに私と交じり合おうという意思を持っているようで、脇目も振らず、真っ直ぐに私の元へと向かってきた。私はその影から逃れようとしたが、あまりにも大きくて無理だった。

「こんにちは、お兄さん。ちょっとだけいいかな」
 その影の持ち主は、パトロール中の警察官2人組だった。この2人組は双子なのか、制服はもちろんのこと、ぬりかべのように大きな体つきも、ブルドッグのようにたるんだ頬も、私を見る氷のように冷たい目つきまでもがそっくりだった。
「今日はお1人ですか」
 私から見て右側の警察官が質問してきた。その見た目とは裏腹に、声が異様に高かった。
「ええ、まあ、1人ですが」
 私がそう答えると、今度は左側の警察官が質問してきた。
「今おいくつですか」
 左側の警察官もやはり異様に声が高かった。
 私は何もやましいことはしていないということを示すように、あえて冗談混じりに答えた。
「37をいったりきたりです」
 すると、左側の警察官が真面目な顔をして「そうですか、37をいったりきたりですか」と私の冗談を受け流すと、右側の警察官も同じように「37をいったりきたりですね」と、やはり真面目な顔をして私の冗談を受け流した。そして、そもそも私の冗談などというものは初めから存在していなかったとでもいうように、右側の警察官が続けた。
「ちなみに、これからどちらへ行かれる予定ですか」
 私は心底居心地が悪かった。警察官の声も、わざとらしい喋り方も、どこか人を馬鹿にしているような響きがあったからだ。しかもそれでいて、目と耳は私がボロを出すんじゃないかと鋭く見張っている。それも2人がかりで。
 私は何も悪いことはしていないので、ただ胸を張って質問に答えさえすればよかったはずなのに、ポケットの中に河童からもらった怪しい粉が入っているという事実が頭にチラついてしまってからというもの、それが重い鉛のように、私の心を少しずつ沈ませていった。

「夕飯の材料を買って家に帰るところですが、なにかあったんですか」
 左側の警察官は私の質問に答える気などさらさらないといった様子で、表情一つ変えずに続けた。
「お住まいはどちらで」
 私は平静を保つように努めていた。
「向こうの商店街の奥の方です」
 すると警察官2人組は顔を見合わせて、ブルドッグみたいな口元を同時にニヤリと緩ませた。
 私は嫌な予感がした。
「ああ、やっぱりあちら側の方でしたか。見るからにそうだと思ったんですよね。奥の方ってことはあれかな、あのオンボロ鉄塔のある辺りかな」
 私はこの言い草が非常に気に入らなかった。
私のことを小馬鹿にする分には一向に構わない。しかし、こいつらはいったいどんな権限があって塔子ちゃんのことをオンボロと言っているのだろうか。謝れ、塔子ちゃんに謝れ。
 私は文句の一つでも言ってやりたい衝動に駆られていた。しかし、今ここで感情を表に出してしまうと職務質問がもっと長くなってしまうだろうし、それに、ポケットの中身を見せるように言われたりしたら、たまったものではない。
 私はどこにもぶつけることのできない感情をグッと飲み込んだ。
「ええ、まあ、その辺りです」
 すると、警察官2人組は、私の微妙な感情の乱れを察知したのか、急に、マスクを取るように指示してきた。
 私は動揺した。
「なんでマスクを外さないといけないんですか」
 すると、左側の警察官がすかさず、はっきりと大きく高い声で答えた。
「顔がよく見えないからですよ。マスクと一緒にそのボロボロのニット帽も外してくれませんかね」
 高圧的な態度に出る左側の警察官とは対象的に、右側の警察官はあえて落ち着きを払った調子で言った。
「ところで、今までどちらに行かれてたんですか」
 私は一気に窮地に追い込まれた。まさか河童と一緒にあべこべの神社に行っていたなんて言えるはずもなく、私は言葉を詰まらせ、いつしか目を泳がせていた。
 今日は本当に乾燥が激しい。もう喉がカラカラだ。

 私が何も答えられないで黙っている間、2人とも冷ややかな目で私を見ながら黙っていた。いったい、どれくらい沈黙が続いていたのだろうか。商店街を行き交う人たちの視線がグサグサと突き刺さる。
 そんな目で見るな、私は何も悪いことはしていない。それに嘘だってひとつもついていない。早く私を解放してくれ。
 私は強い焦燥感に苛まれていた。

 すると、目の前に神田さんが現れた。

 神田さんは機関車のキャラクターが描かれた、おもちゃ屋さんの買い物袋を手にぶら下げて、さっき警察官がしていたように口元をニヤリとさせながらこちらへ近づいてきた。
「おう、山ちゃん、こんなところでなにやってんの」
 わかりきったことを、わざとらしく聞いてくるところが神田さんらしい。神田さんはただ、私の口から職務質問を受けていると言わせたいのだ。
「職務質問を受けてまして」
 すると、神田さんは満足そうな顔をして言った。
「だから言ったじゃん、その格好やばいよって。なんで人の忠告をちゃんと聞けないかなあ」
「そうですよね、すいません」
「すいませんで済んだらお巡りさんなんていらないの。お巡りさんだって忙しいんだから、迷惑かけちゃダメでしょ」
 神田さんは警察官2人組に向かって「ねっ」と相槌を求めだが、2人ともダンマリを決め込んだまま、私と神田さんのやりとりを見守っていた。
「お巡りさん、こいつは山ちゃんっていって、あっちの商店街の奥にあるボロアパートでひとりぼっちで暮らしてる寂しい奴なのよ」
 警察官2人組はまだ黙ったまま神田さんの話を聞いている。
「こんな怪しい格好してるけど、本当は虫1匹潰せないくらい肝もアソコもちっちゃいの。だから今日はもう勘弁してあげてよ、オレがちゃんと連れて帰るからさ」
 すると、警察官2人組はつまらなそうに顔を見合わせると、これ以上私を相手にしても面白くないと判断したのか、「真っ直ぐ家に帰るように」と吐き捨てて、黒く大きな影を従え去っていった。
「あいつら、弱い者いじめくらいしかやることないんだよ」
 神田さんはそう言って、警察官の後ろ姿に中指を立てた。

「ありがとうございます。助かりました」
 私が礼を言うと、神田さんは「これは貸しだかんね」と、わざとらしく眉間に皺を寄せて険しい顔をして見せた。そして「じゃあ、オレちょっと用事あるから」と、おもちゃ屋さんの前に止めていた神田酒店の名前が入った自転車に跨ると「そういえば、トミさんが心配してたよ。山ちゃんの頭がおかしくなっちゃったって」と残して、口笛を吹きながら颯爽と去っていった。

 神田さんがいってしまうと、私はできる限り自分の存在を消して、あちら側の商店街へと歩き出した。しかし、商店街を行き交う人たちの私を見る目は、一向に変わらなかった。
 日が暮れようとしている。影が重い。踏切がとても遠くに感じられた。

第10話に続く

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