武術からみる東洋思想3 自己肯定感という虚妄

世間では目標を持とうとか自己肯定感をもとうとか、そうしたことが言われています。しかしそれで幸福になった人間はあまりみたことがありません。ということはあまり汎用性のある方法論ではないでしょう。

猫はかわいいし泰然としており、幸福そうに生きています。何かになろうとしたり、猫に生まれた自分を間違いだと感じたり、自分を肯定しようと努力してないからでしょう。そう、なんなら意識高い系の自己啓発自体が迷いと不幸を生んでいます。目標が出来た瞬間にそれ以外のことは無駄な寄り道になり、今いる地点は間違いになり、自己肯定感を得ようと思った時点で、自己は今肯定されていないことになるからです。

タオ、老子の思想では対立構造は人間が勝手に作っているだけで実相はないと説いています。指で円を描いてみましょう。時計回りであれば最初、右方向に動き、やがて下にいきます。
早とちりな人や、全体を知らない人に、この時点で円を描くという行為について聞いてみます。「そうですね、円というのは右に行くことです。そのあと下に行くのが大事ですね、目的に向かって進んでいる感じです」としたり顔で答えるでしょう。しかしご存じのとおり円は後半、左方向にいき上昇し、スタート地点に戻って完結します。上下も左右もスタートとゴールも対立してません。そこに対立を見出すのは全体の一部分だけを見てそれが全てだと思ってしまった人だけです。

武術的にも対立する敵を倒す、殺すという目的に執着するのは無意味で、放っておいてもどっちみち全員百年以内には死にます。じゃあなんでやるの、というと生きるため、より快適に有り続けるためです。タオは有の思想なので自己は最初から肯定されています。正確には否定も肯定も何も、現実に今この瞬間、有るんだから否定しようがない。これは自己肯定「感」ではありません。「感」はそれって個人の感想ですよね、という不確かなものです。

SNSでも自己についてずっと言及している人は、自分がこういう人間であることが分かった、気づきに感謝、やっと自分と向き合えた、などという自己啓発を毎日無限に書いていますが、そうした人には全くレスがついていません。それは読んでる側にとっては、そうですか、としか言いようがない無の情報だからです。
人間は現象であり現象は情報として認識されるというのが前回の話でしたが、無の情報を発信し続けると孤立します。
そんな話より春の新色ネイルや今日食べたラーメンを載せるほうがレスがつくのは大衆が即物的な凡愚で自分が上等な苦悩をかかえた特別な人間だから、ではなく、有の情報だからです。
有というフィールドのゲームで誰もがプレイしており、その盤上ではどういう手を指すと有効か、どんな戦法が好みか、みなゲームの話をしている。自己啓発というのはずっとプレイヤーの内面の話をしていて一向に物語が進まない。僕はこのゲームをやる資格はあるのだろうか、やっとゲームをやる覚悟が出来た気がします、といった、ねむたいことをずっと言っていると、スタート画面のまま寿命を迎え、プレイせずに終わってしまいます。

君たちはどう生きるかと宮崎駿は問い、稲妻のように生きていたいだけ、お前はどうしたい? 返事はいらないと米津玄師は歌っています。
有る以上、僕は有ってよいのだろうか、有るとはなんだろうか、を考えるより先に、どう有るかを考えたほうが良さそうです。
円に対立はありませんが、上下左右に絶えず変化はあります。変化はどう有るかの生存戦略です。自己に拘泥することや、目標をもった直線思考は微かな変化のチャンスを見落とします。
子育てで子供の成長を実感するのは試験の点数や運動会などのイベントではなく、日常の小さな気遣いや、事象に対するまなざしに驚くときでしょう。それは自分自身でも同じです。



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