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インターフェイス

誰かと誰かが出会う。
それは奇跡とも言えるし、偶然とも言える。
何かが起きるのかもしれないし、起きないかもしれない。

自分のすべては自分にしかわからないと思いながらも、
実際には自分ですら自分を理解していないことの方がずっと多い。

世界はたぶん、ひとりひとりの表面『face』が
ほんの少しだけ接し合うことで出来ている。

私が向き合うこの画面すらも、どこかの世界とのインターフェイスなのだろうか。

こんな時代になったから、人と直接顔を合わせる機会は極端に減ってしまった。
元から交友関係が少ないのであれば大した差こそないだろうが、
一般的には、多くの直接コミュニケーションが激減しただろう。

『やっぱり直接会うと全然違うね』
と言えるのは、たぶん元を知っているからで。
その人と仲良くなれたのは、対面からのスタートだったからだ。

今や、直接会うことはそれ自体に意味がある。
社会の基準が変わってしまったばっかりに、会えないことの寂しさ以上に、
会うことの意味の重さが生まれてきている。

『せっかくだから集まりましょうか』
と特別なイベントが作れるのも、合わないのがスタンダードになったからこそ、
それに適応したからこそ生まれた価値観なのだろう。

今日も上司とオンラインで対面する。
自分のやっつけるべき仕事に対面する。
母親と。
友人と。
私のアウトプットした文字と、彼らのアウトプットした文字が、
明るく光るこの画面で接している。

それが今の関わりであるし、つながりだ。

珍しく興味を惹かれ読んでみた、とある女性の記事には、
その方の日常が描かれていた。
等身大に、細かな世界の変化や、自分の変化を、
少しだけ恥ずかしげに、遠慮がちに手を伸ばして太陽の光を浴びているような
そんな誰かの視点が綴られていた。
私はそれに対面し、彼女が文字に残したいつかの彼女と対面した。

少しだけ勇気を出してコメントをしてみたのは、
きっとその偶然に、一瞬触れてみたくなったからだろう。

この世界で確かに存在している誰かが、私の人生の一瞬に接した。
私はきっと、その一瞬の接触が嬉しかったと伝えたかったのだろう。
同時に、それが私たちの対面の最も密な距離であることを理解しているからこそ、
対面するこの画面の先に、
投稿したその短いコメントの向こうに、
その人がいることがなぜか嬉しかったんだろうと思う。

自分を中心とした球体を纏い、多くの場合はバブルサッカーのように、
跳ね返り、ぶつかり、跳ね飛ばされる。
満員電車で袖が触れ合うことは、他人の縁ではなく現代では単なるリスクに近い。

雨が降った時、自分の範囲は広くなり、
放射状に広がった動く軒下で雨宿りをしながら歩く。
濡れないようにと深く差した傘の下からは見えない無数の人生が、
行き交う2本の足の忙しなさで余計に遠く感じることもある。

デジタルの恩恵で、何かの縁で、
私の世界の表面が少しだけ誰かに触れることがたまにあるのが嬉しくて、
そうして私は文章を書くのだろう。
言葉を置いて、次の一瞬に向かうのだろう。
手紙を入れた空き瓶のように、どこに届くわけでもない感情を、
固定されたネットワーク上のアドレスの付けられた仮想空間に置いて。

きっと狭い日本だ。
同じ時代に生まれ、同じ自己表現のツールを選んだ。
そんな人と私は、きっとどこかの本屋で、同じ本を手に取っているかもしれない。
そうだとしたら、その本もまた、私と誰かの『インターフェイス』となる。

アナログなつながりと、
デジタルのつながり。

きっとその気になれば当日会えるような距離に、見知らぬ誰かがいる。
ずっと近づくことのなかった世界どうしが、一度接する。

そっと、私の感情を重ねたこの画面に手を当ててみる。
親指が、『温』の字に触れる。
人差し指が、『グ』の字に触れる。
中指が、『選』の字に触れる。
このインターフェイスの向こうに、同じように手を当てる誰かかいるんだろうか。

この手は今、誰かの手と、接しているのだろうか。

温もりも、柔らかさも、その形さえも伝達することのない
白く光るこのインターフェイスの先に、
重ねた手があることを祈って。

現実で出会うよりもずっとお互いの本音に触れるこの不思議な世界の境界線に
そっとどこかの誰かを思いながら。

私の紡いだこの言葉たちも、
決して見えない私の内側にある表情と、
どこかで確かに微笑む誰かの表情を向き合わせる、
インターフェイスであるように。

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