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ミニマル・パラドックス

丁寧な暮らしに憧れてはいるが、どうにも根っから面倒くさがりなので日々の丁寧さよりもざっくりとした便利さを優先してしまう。

じっくりと味を調整して自分好みにこだわって仕上げた牛しぐれ煮よりも、ワンコインで1分で出てくる牛丼に愛着が湧いてしまう。

だから、こんなにも物が少ないこの部屋でも、私がしている生活はきっと丁寧じゃない。
しかしそれにしても物が少ない。
洗濯機もなければ冷蔵庫もない。
ベッドもテレビも電子レンジも、なくたって生きていける。

『必要なもの』という概念が、人とは違うのかもしれないと気づいた時には、交友関係までもが少なくなっていた。
最小限に暮らそうとして、最小限に収まる人間になってしまいそうで。
最小限の努力でその危機を脱したいと考えてみる。

ミニマルに暮らすことと、ミニマルな人生になることは、果たして同義なのだろうか。

スーパー・ドライ

俗にいう『ミニマリスト』は、自分に必要なものを頭を使って、様々な情報を駆使しながら最小限に収めてシンプルに暮らしている人のことだと解釈している。

私も持っている物の総量が異常に少ないので、よく、ミニマリストと言われる。
面倒なので、そういうことにしているが、本当は似て非なる存在である。

私はただ『ほしいと思うものが少ない、生活水準の低い人間』というだけだ。

友人たちのSNSを見ていると本当に実感する。
あぁ、私はきっと、みんなに比べたら相当少ない資源で満足できる人間なのだと。
物欲で経済も回さないし、食欲で体重も増やさないし、性欲で子供も増やさない。
最小限の地球のエネルギー消費で、最小限の影響を世界に与えながら生きてくんだと。

基本的には無料のもので結構満足できるし、些細なことに幸せを感じやすい、一言で言えば『ハッピー野郎』だと自覚している。

だからこそ思う。
みんなが欲しがるものは、相当ほしいんだろうな。
それだけ欲しいものが多いのは、世界がさぞ魅力的なものに満ち溢れているんだろうな。

しかしなんとなく、わかってはいたがそうではないらしい。
人はきっと、ずっと『足りない状態』なのだ。

特別通貨交換法

足りないから、買う。
不足しているから、欲しがる。
お金も物も、欲望に忠実なのだ。

目の前にあるものがそんなに魅力的である必要性はない。
衝動買いした高額の洋服も、流行が過ぎたからとクローゼットの中で眠り続けていたとしても、そこにあることに意味がある。
だって、そこにあれば、それは自分のものなんだから。

店頭に並んでいたら、それは『手に入れていないもの』でしかない。
しかし自分の家にあれば、間違いなく『手に入れたもの』に違いない。
だから、自分はそれを持っていることで満たされているはずだと思う。

少なくとも、それを持っていない人よりも。
少なくとも、それを持っていない自分よりも。

私は考えてしまう。
1万円の服を買うのと、同じ1万円をいつもの食費にするのは、どっちが自分にとっての幸せなんだろう。
1万円あれば、1週間は余裕で暮らせる。
168時間を、食事の心配をしないで暮らすことが出来る。

同時に、反対側からの観点で考えてみて絶望する。

きっと私はその服を買ったら、もっと外に出るようになるだろう。
その服を着ている自分に自信が持てて、街を歩くかっこいい休日を満喫できるだろう。
そしてもしかしたら、ファッションに気を遣うことで女性の目にも…。
私はそこまで考えて、いつものスーパーに向かう。

トレーディング・ライフ・ゲーム

人間の幸せとは、安心できることでもあると思う。
健康であることが幸せなのは、この先の自分の体の心配をしなくてもいいからだ。
医療費の心配もしなくていい。
健康であればスポーツも楽しめる。

それぞれの価値観、感性がある中で、誰かの幸せを誰かが決めることなんてきっと出来ない。
だから理想的にはきっと、より多くのものが、なるべく自分の思う通りになれば一定は幸せなのだ。

だから、限られば金融資源と時間資源の中で暮らす我々は、きっと毎日何かの資源配分をして生きている。
1万円の使い方。1時間の使い方。
気持ちだって、ある意味では消耗していくだろう。

自分の持っている資源を何かと交換していくのが、人生の活動なのだから、誰しもリターンは考えてしまう。

この1万円は、何に変わるのだろう。
この1時間は、何に変わるのだろう。

そんなことを考えていて、何にも変わらない1時間を、今日も過ごしていく。

アンチ・ギャンブラー

挑戦をした方が、人生は楽しい。
今の自分がずっとそのままでいられるのではないことを、誰しもが知っている。
人は老い、失い、衰える。

ノーリスクで得られる範囲だけでの人生は、多分それなりに平穏だ。
無理をせずに生きれば、消耗は減る。
だけど、平穏によって失われる刺激もある。
エキサイティングなハプニングは、平穏の外側に存在している。

最小限に生きているつもりでも、その少ない荷物が、私のフットワークを軽くしている。
今の自分の居場所に大きな意味を持たせないことが、今の自分の行動力を実現している。
いつの間にか私自身がトレードした、物と気持ち。
持っていたかもしれない物と、今持っている可能性。

自分の限界を超えない範囲で何かを成し遂げようとすることは、
それこそ『ミニマルな生き方』ではないだろうか。

起きるかもしれない可能性とトレードに、何も起きない確証を手に入れる。
変わるかもしれない自分とトレードに、衰える自分を手に入れる。

目に見える物の少なさで、人は私を『ミニマリスト』と呼ぶ。

彼らの持つ『物』は、彼らに何をもたらしているのか。
私にはあまり想像が出来ない。
『使えること』の重要性はわかっても、『所有すること』の重要性がわからない。

欲しいのはきっと権利だ。
そして状態だ。

それを目で見て、手で触って、確かめて安心するために、人は物を持つ。
そうやって、安心するのだと思う。

最後に

今の自分に出来る範囲で、なるべく傷付かないように、最小限の努力で、最小限のリターンで生きていく。
それが自分が、今の自分で生きていることの証明なのだと人は言う。

それなのに、明日には何かが変わることを、心のどこかで常に望んでいる。
明日の自分が、ちゃんと『明日の自分』になれているように。
今日の自分のまま、明日には行かないように。
今日の自分を今日においていくのが少し寂しくなるから、暗くなった部屋で眠れずにいる。

最小限の物で生きるのが楽な私は、そんなに多くの物を管理しきれないことを知っている。
私の欲しかったものを、いつかは『あるだけ』のものにしてしまう自分がいることも知っている。
あるだけで安心出来るとわかっているくらい、私にはそれが大切だ。
だから、手元にはなくても大丈夫。
もっと自由に。もっと無邪気に。私の世界でくすぶることなく広い世界に飛び出していけばいい。

その代わり、明日の自分に、少しだけフライングしてなってみてもいいのだと思う。
出来ないことをやってみて、出来なかったことを楽しんで。
今の自分を忘れるくらいに、今を楽しんだらいい。

いろんな物を欲しがって、それでも自分の未来を最小限にするような、そんなミニマリストにはならないで欲しいと願う。
最小限で生きる私に出来る最大限を、いつでもあなたにあげられるように、私は最小限の持ち物で、この先も生きていく。

この何もない部屋は、私の人生のすべてじゃないから。
私の世界は、もっといろんな『素敵』に溢れているはずだから。

何もないこの部屋を退屈に思える今を愛しながら。
本当にいたい場所を探し続けるために。

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