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#125 教員に必要なのは、適当力だ

「許せない!」、ドッキリGPの菊池風磨氏のリアクションが好きだ。計算しつくされた中で発せられる「許せない!」は、誰も傷つかないエンターテイメントである。教師が「許せない!」と発した場合、多分許容されないし、誰かがきっと傷つく。だが全て許していたら崩壊を起こすし、逆に締めつけ過ぎても崩壊を起こす。もう塩梅というしかないが、キーになるのは適当力だと思う。


適当という言葉の意味は、「ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと」だそうだ。私は、眼前にいる児童があくまでも主体で、我々教員は、そこにチューニングを合わせるという考え方にシフトチェンジしている。自分の土俵に引き込むのではなく、相手の土俵に入っていくスタイル。個別最適化に求められる力は、いうまでもなく適当力であると考えている。


これまでの人生を振り返ってみると、思い通りにならないことの方が多く、都度「まあ、仕方ないよね。」と折り合いをつけてきた。無常感めいたものは、中学時代からあり、自分と他人の中には、埋められない溝のようなものがあることを感じていた。それを受け入れることで、適当力が身についたような気がする。


適当力の低い教員は、許せないことが多い。例えば、児童がやらずにためこんだ宿題を、延々とやらせる教員。これは現世での苦行の一つに数えられる。やってこない児童には何かしらの事情があるのだが、それを理解することができないのだ。宿題はオプションだから、「まあ、しょうがないね。」の一言で片付けてあげればいいのに。自分の土俵で考えるから、許すことができなのである。


モノは壊れるし、無くなるのが世の常。それは学級でも同じこと。公衆の面前で、「壊した人は名乗り出なさい!」と言っても、子どもはよっぽどのことがない限り名乗り出ない。名乗り出なくても、心の中では「やっちまったなあ…。」と思っているはずだ。適当力の低い教員は、「名乗り出るまで〇〇は禁止!」という悪手に出ることがある。適当に指導して、「次からは気をつけるように。」でいいのに。これまた自分の土俵で考えるから、許すことができないのである。


自分が一番正しいと思えば思うほど、適当力は下がっていく。適当力の高いアーティストの作品は凡庸になるが、我々教員は凡庸であることも必要なのだ。なぜなら、児童は教員に個性を求めているのではなく、「教えてほしいことを適当に教えてくれること」を求めているからである。「まあ、いいんでないの。」この言葉にどれだけ救われてきたか。今になってよく思うのである。

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