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#108 正しく負けるということ

「仲間」というものに、冷めている自分がいる。「自己中!」と罵られ、離れていった友人は幾人もいた。ただ、四十を過ぎて残りの人生を考えたときに、独力で正しく負けて正しく勝ち、自分の人生を精算する必要があるなと考えるようになった。仲間というものにより一層、距離を置く自分が加速している。

個人的に仲間の概念を、「通奏低音としての志を共有しているもの」と定義している。枠組みとして横並びのようだが、その中でもヒエラルキーが存在する、と思っている。それが、たいして実力もないのに「俺もすごくね?」という気にさせられることにつながる。それが嫌なのだ。私は、正しく負けたいのである。

最近は何をするにしても、個人で始めるようにしている。どこに敗因があるか、グレーにしないためだ。正しい手順を踏まない、また時勢とマッチしていなければ、当然負けることになる。個人単位で活動することにより、負ける要因が明確になる。「あいつのせいで!」とはならないからだ。話は大学次第に遡る。

バンドのボーカリストには華があった。透き通る歌声、キャッチーなソングライティング能力、そしてイケメン。四分の一でやっている以上、そこに甘えたくない。個で際立つために、戦略を練り直した。がなり声、尖った曲作り、珍妙なパフォーマンス。こいつには勝てないと正しく負けを認めた上で、ブランディングを再考した結果、個を確立することができた。いいか悪いかは別にして。

教職に就いてからも、敗北の連続だった。このままではいけないと思い、敗因を見つめ直すところから始めた。「仲間」というものに組し、自分を過大評価していたら、今の自分はないと断言できる。成長するためには、孤独と向き合う時間が必要なのだ。方向性を見直し、ニッチな隙間を見つけた。それが私の二本柱である「視聴覚教育」と「ビジネス書に基づいた体系的なマネジメント」だ。

正しく負けるためには、周到な準備、実践、検証が必要である。この過程を一人でやることに意味があると思っている。極論、最後は一人なのだ。これは紛れもない事実である。永久に仲間という輪の中にいることはできないのだから、最終的には独力で「個」を完成させなければならない。そのためには、現時点で勝っている相手を認め、自分の立ち位置を客観的に理解する、負けの姿勢が必要。

教職には勝ち負けは存在しない?いやいや、勝ち負けは存在する。そう思わなくては資質の向上を図ることはできない。そう思いながら、レモンサワーを燃料材にして、モチベーションを高めているのだ。

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