#115 「どうせ俺なんか○○だし!」と思わせなければ、不適応は減る
学校不適応なのか、社会不適応なのか、はたまた学校や社会が不適応をつくる要因になっているのか。そもそも何をもって適応というのか。よく、「学校生活に適応することができていない児童」という言葉を耳にする。先日の飲みの中でも、「変わっている」というワードが出てきて違和感を覚えた。私もあなたも十分変わっているし、自分を基準に物事を測るから、上手くいかないのだ。
不適応とカテゴライズされている児童は、感情のスイッチが入ると、目の前の物を蹴り上げたり、「○ね!」と強烈な暴言を吐いたりする。担任ではない私は、客観的に話を聞く。「どうせ俺なんて足も遅いし、一点も取ることができないし!(ただいまサッカー中)」とネガティブな感情を吐露した。とある児童はこうだ。これまた感情のスイッチが入ると、帰り支度を始め、ランドセルを背負って出て行こうとする。担任ではない私は、またまた客観的に話を聞く。「どうせ俺なんて、絵も上手く描けないし、あいつの方が上手くて誉められるし!」そこには、どうせ俺なんて!という共通ワードが存在したのだ。
推測するに、様々な場面で、自己肯定感が下がるような体験をしたり、言葉がけをされてきたのだと思う。幼児教育や小学校、中学校は基本形態が一斉指導であるから、その輪を乱すものは弾かれる傾向にある。そう、前述した適応という意味合いには、「集団行動を乱さない」という通奏低音が流れている。無人島もしくは超過疎地にいたら、きっと適応も不適応もない。基準は自分だし。
ということは、自己肯定感や自己有用感を高めてあげられることができれば、不適応は解消に向かうのではという仮説が立てられる。学級担任一人にそれを背負わせるのは、無理な注文。マンパワーの投入が必要十分条件になる。前述の児童たちには特別支援アシスタントの支援が入り、落ち着いて学校生活を送ることができるようになった。「よく頑張ったね!」「ありがとうね!」、個別最適化されたパワーワードが当該児童を救ってくれた。
ティモンディの高岸は「やればできる!」というが、これは一つの真理だ。できる尺度は人それぞれ違っていいわけで、例えばマラソン。一位をとる児童も、「できた」、完走した児童も、「できた」、途中リタイヤした児童も、走り出すことが「できた」。「やればできる!」の基準値はそれぞれ違うのだ。同一の基準値を設けるのを止め、「ありがとう!」というパワーワードをかけてあげるだけで、子どもたちは随分と生きやすくなるのではないかと思っている。
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