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アジャイル開発は特別なものではない

はじめに

これはAgile Japan 2021アドベントカレンダー14日目の記事だ。

“Heart of Agile”

11月に開催されたAgile JapanのテーマはHeart of Agileだった。

アリスター・コーバーン博士は守破離の先にある「心」としてのHeart of Agileについて基調講演で語った。
そしてクリエーションラインの安田さんは、二日目の基調講演で「対話」、人の心に直接語りかけるという意味でのHeart of Agileについて語った。(と、私は解釈している)
前者においてはアジャイル実践者の多くが感じてる「うまくやれていることを少しづつもっとよくしていく」ことの大切さが言語化され、後者においてはいきいきとした現場をつくりあげるためには「Heart」である変革者の覚悟と行動の大切さが頭でなく心で理解できる形で届けられた。様々な形のアジャイルが、このAgile Japanにはあった。

宣言から20年が経過し、コミュニティで知識が共有され、様々な現場で実際にアジャイル開発が実践されている。あらためて、アジャイル開発とは何なのか。

アジャイルソフトウェア開発宣言に立ち返ると、このように書かれている。

私たちは、ソフトウェア開発の実践
あるいは実践を手助けをする活動を通じて、
よりよい開発方法を見つけだそうとしている。
この活動を通して、私たちは以下の価値に至った。
プロセスやツールよりも個人と対話を、
包括的なドキュメントよりも動くソフトウェアを、
契約交渉よりも顧客との協調を、
計画に従うことよりも変化への対応を、
価値とする。すなわち、左記のことがらに価値があることを
認めながらも、私たちは右記のことがらにより価値をおく。

アジャイルソフトウェア開発宣言

ソフトウェア開発以外の文脈の方、2021年の今、はじめて読む方はどう感じるのだろうか。

あえて言語化された当たり前のこと

人間を大切にしようね。
実際に使うのはドキュメントじゃなくてソフトウェアだからそれを大事にしようね。
契約で線引しないで一緒にいいものつくろうね。
変化に対応しようね。

「その発想はなかった!!!!」というものはあるだろうか。「まあそうだよね」と、共感できるものばかりではないだろうか。

そうではない状況が当たり前だった、というのは事実なのだろう。だからこそ、わざわざこのように言語化されているのだ。しかし、先駆者たちが試行錯誤しながら現場へアジャイルを届け続けてくれた結果、この宣言にあることは「当たり前」になりつつあると感じている。

そして、先駆者たちが向き合ったような試練を経験していない世代(自分もそうだ)は「アジャイル開発をやろうとすると反対される」「抵抗勢力が・・・」「孤独に闘っていた」みたいな話を聞いてもピンとこなかったりする。いや、アジャイルソフトウェア開発宣言を理解し咀嚼し実践できている現場というのはそんなに多くないだろうが、明確に反発を受ける現場というものは10〜20年前と比べたら随分すくなくなっているのではないか。

これって、とてもありがたい状況だ。

当たり前は当たり前じゃなくなるから当たり前であり続けるために努力しなければならない

そしてこの当たり前は、努力しないと当たり前ではなくなってしまう。だって、かつてそうだったからこそ宣言が生まれたのだ。効率化の重視や分業体制の細分化が進むと、この宣言で大切にしている価値観とは相反する状況へと近づいていく。

では分業は禁止して常に対話ベースで物事を進めるようにすればよいのか?
これはいささか浮世離れした対策だ。組織が大きくなるにつれてコミュニケーションパスは増大し、「全員と対話する」ということへのハードルは飛躍的に高くなっていく。
先日出版された「チームトポロジー」では認知負荷について語られているが、人が増えるということはその認知負荷が上がるということなのだ。

認知負荷を下げるためにはどこかで境界線を引かなければいけない。けれどもそうするとその境界線で分断が生まれ、宣言の価値観から遠のく力学が働いてしまう。何の手も打たなければ境界線の彼岸此岸で最適化が進んでゆく。

そういうときこそ、この宣言に立ち返り、「当たり前」に大切にしたいことは何かを思い返したい。当たり前を当たり前にしておくために、ときどきは宣言へと回帰するのだ。

今日はここまで。


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