2022年聴いた音楽を、無意味性・デタラメ性でまとめる。
ずっとその年聴いた音楽ベスト10を作っています。
今年はベスト10でなく、無意味性、デタラメ性の視点からまとめてみようと思います。
随分ここを放置しましたが、最近は、無意味やデラタメそのものではなく、無意味性やデタラメ性という要素について考えています。そこはまた今度。
1. 衝動の持続性。ハイパーポップの洗練と終わり。
100gecsの成長
マイノリティのカウンター、衝動性、青臭さ、20年代のパンクとも言えたハイパーポップの代表的アーティスト「100 gecs」。
2022年に入ってからのリリースは、一気にクオリティを上げてきた。
本人たちの成長なのか、予算が付いたからかわからないけど、今年一気にという印象です。
多分今年最初に出たDoritos&Fritosは、デビューから2021年に出たmememeまでの雑多でゴチャゴチャした感じから、一気にまとまりあるポストパンクを出してきて、一音目の音の良さでビックリした記憶があります。
2022年末の最新EPでは、超大物Skrillexとのコラボ。両者の良い所が調和してよかったです。考えてみたらSkrillexも青臭さと衝動をDTMにぶつけて出てきた事を思い出しました。
100gecsは、出てきた頃の衝動的な青臭さを、作家性へと昇華してステージを上げた。別のハイパーポップの代表的アーティストSix ImpalaもBandcamp中心に新しい事をしてる感じがします。
衝動性の音楽の賞味期限は短い。ジャンルとしてのハイパーポップは一旦終わったんだと思います。
衝動性を嫌味なく維持するのは凄く難しい。洗練して昇華するのが順当だけど、そこで失われてしまう良さもある。失う良さもある。
ポストハイパーポップの動きのひとつとして、ジャングルの再定義があるように感じています。ヴェイパーウェイブ、ハイパーポップを経由し、90年代の退廃とエモ、インターネット創世記の青臭さを持ったジャングルがちょいちょいあった気がします。このトレンドが流行ると、ジャングル育ちからすると嬉しいです。
Sophie、PC musicの影響の広がり
一方でハイパーポップの始祖というか源泉とも言えるイギリスのレーベルPC Music、特にSOPHIEという単体のアーティストの影響が深く根付いた印象の2022年とも思いました。
SOPHIEのサンプルパックが出回ってハイパーポップってジャンルが産まれたというのどっかで見たけど、実際2020年辺りのSOPHIEの音をそのまま使ってるの多かった気がします。2022年は、SOPHIE味とも言えるニュアンスを感じる、曲を聴いた気がします。
TRAP、EDMの大御所Flumeの2022年のアルバムには、PC Music味を感じる曲が何曲かあった。
「flume,sophie」でググったらSOPHIEへのリスペクトをインスタで出していました。
SOPHIE以前以後というレベルで世界に与えた影響は、音楽の音そのものだけでなく、マイノリティやジェンダー問題の根付きにも強い影響があったように感じています。
影響は意味の紐付けと思います。音楽というカルチャーに強くSOPHIEという意味が紐付く事で、その存在が根付いていくと思います。
2. 無作為と作為の距離
作為を手放すClaire Rousay
生活の音にピアノや弦楽器、電子音を加えた音楽を作るClaire Rousay、今年知って一番くらったアーティストでした。
味付けとして生活の音を音楽に足すのではなく、生活の音に楽器を足すという手法。どこまでが音楽で、どこまでが音楽でないか、どこまで作為で、どこまでが無作為か分からない音楽。
作為を放棄するのではなく、無作為に委ねて調和を果たしている気がします。
気持ち良いなと聴いているうち、気づいたらアレって演奏がいなくなる。
このグラデーションは、聴く方の曲との距離感によっても聴こえ方変わってきます。アンビエントとしてぼんやりついでに聴く、音像に集中して音にフォーカスする。構造に意図や作為ではなく、馴染ませる事に注力されている気がするせいか、気づいたら音がうつろっているのは面白いです。
北京のラッパーBloodz Boi、アメリカの電子音楽家MoreEazeとのコラボ。非構築のニュアンスはありつつ、コラボだとポップミュージックをやってる事が多くて、それも面白かったです。
自然の音に寄り添う
より作為から離れる試みとして、高木正勝がずっとやってるMarginaliaシリーズもずっと面白いです。軸に音楽があるのではなく、家の庭の自然音にピアノの演奏を寄り添わせるという手法は、すごく日本的だと思います。
自分の作為を構築するのではなく、自然音と演奏を馴染ませる試みは、もう100番を超えて、作品というよりは日記のようで、気負いがない感じもすごく良いです。
3. 洗練したアーティストは次どうなるか
VladislavDelayの変貌
00年代に洗練されたアンビエントダブをリリースしていたVladislavDelayが2020年にリリースした「Rakka」以降、洗練された音像から、ラフで荒々しい方向を2年くらい重ねています。
2020年にRakkaが出た時、その変貌ぶりに驚きましたが、2022年はそのラフさがエスカレートしています。
ビンテージ機材を手放し、PC一台でサウンドをエディットする手法に切り替えた事で、洗練された音からラフで雑な音へと変貌していました。
今年の作品では、聴いて来なかった音楽を音素材にして、破壊構築している事をインタビューで言っています。
ビンテージやアナログ機材から構築・洗練したワークフローを捨て、音素材も聴き馴染みの無いものを引用している。
それによって、構造や音の質感が雑になった、音の集中力が下がり無選別な軽さが出た。
一見劣化のような変化だけど、これによって凄みが大幅に増した気がする。洗練の先に全てを手放して、個の作家性が逆に強烈に際立ったという印象があります。
すごく勇気のいる変化だし、どうやってこの境地に至ったのか、すごく気になります。ここ何年かずっとヤバいヤバいと思いながら追っかてて、今年はほんとすごかった。
GASのアンビエント
また別の00年代にマスターピースを残したアンビエントプロジェクトGASも、直近5年の作品で徐々に変貌を遂げています。
Wolfgang VoigtのアンビエントプロジェクトであったGASは、2016年の再始動後、アンビエントというより、クラシックのドローンに薄い四つ打ちを乗せるスタイルに徐々に変わってきています。
ドイツのテクノレーベルkompaktの音楽性全部とアンビエントのGASを凝縮したような作品は、膨大な情報や文脈を融合調和した長い歴史を感じる。
その融合と調和は、2016年ごろはまだ馴染みきって無いけど、今年のアルバムは完全に溶けきって馴染んだ印象でした。
4. 意味の再接続。デタラメ性のある日本語歌詞。
水曜日のカンパネラの歌詞
意味を本来の使い方ではなく、別の用途に再接続すると、弱いデタラメ性が発生します。全く意味が成立しないデタラメではなく、少しおかしいデタラメな歌詞は、聴く人に「なんだ?」と引きつけ作品のフックになります。
デタラメを使った日本語の音楽で、今年特に聴いたのが水曜日のカンパネラとtohjiでした。それぞれデタラメには手法が違います。
水曜日のカンパネラのバッキンガムは、世田谷区「給田」と「宮殿」の発音が同じであるという点から、「宮殿」と「給田」の情報を順番に伝えてくれるという内容です。歌詞の意味は、本当に各地にある「宮殿」の名前と「給田」の場所と面積、漢字を伝えるだけなのですが、その意味の少なさ、発音という一つの共通点だけの余白の多さから、意味を探ってしまう構造になっているように思います。
Tohjiのしれっと言うパンチライン
今年一番刺さったパンチラインは圧倒的にこれでした。
しれっと言うせいで、僕はそのおかしさの前に意味を理解してから、違和感と間違いに気づく時間軸でした。
デタラメだけど意味がわかるのは、日本の寒い時期に南半球の夏の事を想起しがちなのと、サンタがサーフィンしているイメージが強く、反射的に先に納得してしまうせいなのかなと思いました。
間違いを言い切って、夢を伝えてくる事に詩としての面白さと勢いを感じてしまいました。
ThojiのトラックはUKレイブやUKガラージの音色やベースラインが多いのなんでだろうって、調べたらロンドン産まれなんですね。
こんな長い文章になると思わなかった
こんな長い文章になると思わなかった。まだ良かった曲、事象あったけど、もう疲れたのと時間かかりすぎたのでやめます。
Salamanda、Whatever The Weatherをよく聴いたのと、その周辺から00年代のエレクトロニカが一周して来たし、近々増えるのかなと思いました。
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