動物運動小史④別の何かを踏みつけないために
*③の続きです。
動物にたとえる必要性
——次の質問です。「井上太一さんの本をたくさん読ませていただいております。現在パレスチナに対して行われている虐殺に関して、イスラエルの防衛大臣がガザの人たちを「人間動物(ヒューマンアニマル)」と呼び、虐殺の一つの心理的な証拠になりました。保井啓志さんという研究者が、井上さんの著作を引用しながら、批判的動物研究とセクシュアリティ、パレスチナ、ケアなどを交差させて考えられています。このあたりのことについて、もしお考えがあれば教えてくださいませ。」
井上 まず、今日ご参加くださってありがとうございます。『現代詩手帖』のパレスチナ詩のアンソロジーを読みました。すごく貴重な詩集だと思います。パレスチナの虐殺で使われた「人間動物」という言葉は今すごく問題視されているレトリックの一つだと思うのですが、これは人間が虐殺、もしくは差別、排除ということを行ってくる中で、繰り返し行われてきた非人間化の手法なんですね。
まず相手を動物的な存在として貶める、というすごく長い伝統の中に、人間動物という表現が出てきた、ということで根深い問題なので、イスラエルの政治家たちの発言だけを問題視するのではなく、それが私達の中に深く根付いた種差別的な思想、人間中心的な思想と地続きなんだ、ということを考えていく必要があると思います。
左翼、リベラルと言っている人たちでも、平気で人間を動物化することは行うので。例えば差別へのカウンターとして、相手のことを「獣(けだもの)」とか「豚」と呼ぶ人たちはいて、社会正義を唱える人であれば同じような思考にとらわれないかというとそんなことは全然ないので、私達は本当にそこを考えていく必要があると思います。
[イスラエルによるジェノサイドと動物をめぐる考察として、人類学者ニーハ・ヴォーラによる記事「ガザの猫たち」も参照されたい。]
——人間の悪しき振る舞いを動物に例える問題については前の座談会でも触れましたが、ちょうど井上さん・生田さんの論争の中でも、ある批評家の方が私のセクハラ加害者を批判する流れで、「今回のWの行為は、人としても批評家としても最悪なものです。ハラスメントとしてあまりに典型的で動物的な振る舞いに、何か吐き気のようなものすら感じます」というツイートをしていたことを指摘されてたと思います。覚えてます?
生田 覚えてます。びっくりしました。
――加害者を批判してくださるのはありがたいんですけども、そこで動物をなぜ出すんだろう、とは思います。
生田 そもそも動物にはセクハラの概念は当てはまらないと思うし、何でそこで動物という言葉を使うのか全く理解できなかったんです[あとで思ったけど、東浩紀の影響でしょうか?]。井上さんとのやり取りでも書いたけども、「ワタシタチハニンゲンダ」という映画があって、日本の外国人問題を取り上げた素晴らしい作品なんですが、その中に出てくる方達の言葉の一部をかなり無理に使って、「私達は動物じゃない、人間だ。だから尊厳を守ってくれ」みたいな形で使っちゃったんですよね。日本の中の外国人差別の問題を取り上げる中でも、動物という言葉を差別的な意味で使ってしまう。それはやっぱり、根が深いなと思ってます。
別の何かを踏みつけないために
——好美さんは言論の界隈で、そういう傾向を感じることはありますか?
川口 そうですね。すごく素朴かもしれないけど、そもそもなぜ一つの何かを批判するために、別の何かを持ち出す必要があるのかとつねづね考えています。はんたいに、動物を聖なるものとして持ち上げることで、他の何かを引き下げたりすることもあるわけじゃないですか。例えば、純粋無垢であることの例えに動物を使うのも、それはそれでおかしい。 なんでそういうことが起こるのか……。やっぱりさっきの話に戻るんですが、理性や言葉を持っている人間が他の生き物とは違う高い次元にあると考えるのは誤りですが、それでもやっぱり人間がやったことは人間がやったこととして、どんな場合でも直視すべきだと思うんですよ。それはまた、ある個人がある個人としてやったことの責任を他のものに絶対に転化しないということでもあるだろうと思います。これ、けっこう難しいことなんです。そして、これがちゃんと出来たときだけは、あくまで驕ることなく、他の動物との比較ではなく、人間が人間であることを喜んでいいと思います。
人間の言葉の特性なんでしょうけど、言語使用の流れのなかで、何か別のものに置き換えたり、物事の見方をずらしたりしがちなんですよね。だから、言葉を使うときに、とにかくシンプルに物事を見る言語使用を行なうこと、人間のやったことを人間のやったこととして、個人のやったことを個人のやったこととして直視する言語使用を、とにかく大事にしていかないと。今日のように差別を横断的に考えなければならない時代には、差別と戦っているつもりが、別の何かを踏みつけていたりすることも起こってしまうのかなと思います。
生田 先ほどの「動物的な振る舞い」や「ワタシタチハニンゲンダ」といったものをこうやって批判すると、言葉尻だけ捉えて批判しているように思われるような気がして、自分でも嫌になるときがあるんです。ただ、言葉一つとっても、構造的な問題や社会的問題がそこには多く控えているので、やっぱりそこは一つ一つ、「面倒くさいな」とか「変なふうに取られるかな」と思いながらでも言っていかなきゃいけないんだろうなと思っています。
*「動物メタファー」の問題については、井上さんがすでに記事をかいているので興味のある方はご参考ください。
動物問題からみる文学作品
[※ この節はまるまる加筆しています]
——また、生田さんが影響を受けた思想・作家について挙げている、松浦理恵子やフローベールなどは、動物と人間の関係の深さを作品に書いていても、現実にはヴィーガン、ベジタリアン、フレキシタリアンといった動物に配慮したライフスタイルを送っていないかと思いますし、動物の運動に従事してもいないかと思います。また、井上さんが以前批判されているように、多和田葉子に至っては、動物運動の活動家を作品内で批判的に描いています。
このような作品と現実の乖離、というか、わたしにとってはこれは作家が作品に動物を都合よく利用しているようにしか見えないのですが、こういった点についてはどのように評価されていらっしゃるでしょうか?
生田 『いのちへの礼儀』を書いたとき、多和田葉子の作品もあらためていくつか読みましたが、動物問題について取りあげる意義のある作品はないと思いました。高橋源一郎の『動物記』などもそうですが、現実の動物についての意識なく「人間の表象」のように動物を扱う小説は、その無自覚さの点で、読むのがどうしても厳しいです。
松浦理恵子やフローベールについては、動物問題との関わりは詳しくはわかりませんが、動物に対する感受性の鋭さ、関係での創造性は疑えません。「動物と人間の関係」をそれまでとは別次元で構想した、決して無視できない存在だと思います。
もちろん、現実の社会活動と創作・思想との関係は、一直線では語れない、いわば非線形なところがあります。貧困問題については「貧困と野宿を描きあげたクヌート・ハムスンの『飢え』」(「福祉のひろば」2020年12月号)
56aP56WJ44Gu44Gy44KN44GwMjAyMOW5tDEy5pyI5Y-3.pdf (idisk-just.com) を書いたことがあります。ハムスンは即物的な『飢え』と絶望を圧倒的な筆致で描いた規格外の小説家ですが、戦時中にナチスに接近して、戦後、大きな批判を受けました。ハイデガーと同様、もちろん批判はしないといけないんですが、作品の意義がそれによって消滅しないことも事実です。それぞれの小説家や思想家の社会的活動のあり方を批判しながら、その視点の新しさや創造性を受け止めて継承する必要があると思っています。
*井上さんと生田さんの対談では、日本文学史が動物への構造的暴力にのってきてしまっていることが指摘されています。
福祉派と廃絶派の対話をめざして
——もう一つ踏み込みたかったのは、井上さんと生田さん——というかこの座談会をやっている私もそうなんですけど、廃絶主義か福祉を肯定するかどうか、というのは大きな違いだと思います。今までの私達の座談会では、動物福祉(ウェルフェア)も肯定的に説明してきているので、廃絶主義の方からすると違和感がある箇所もあったと思います。先ほど好美さんは私達の活動を「(動物の)解放」と言ってくれましたが、「いや解放にはなってないだろう」と思われる方も多数いると思います。やはり井上さんは、工場畜産だけでなく、そもそもあらゆる搾取をなくすべきだ、という考え方だと思いますが、改めてご自身のお考えを聞かせていただけますか?
井上 先ほど出てきた「工場畜産しか知らない子供たちというのはどうなんだろう」という川口さんのお話ともリンクするところかと思うんですが、そこで「工場畜産じゃなくこういう殺しなら大丈夫だろう」みたいなふうに、殺しありきの解決を出していくというところがやっぱり私には受け入れられないです。殺さないという解決がある中で、あえて「よりソフトな殺し」を一つの解決として、選択肢として示すのは受け入れられないというのがあります。
あと、福祉を進めていくことによって、海外では「人道的な畜産」というものが進められていった結果、実際に福祉の実態が伴っていないという問題がありますし、福祉が実態を伴っていないにもかかわらず、「私は人道的な畜産物を買っているから」と消費者が罪悪感を軽減して安心しきってしまう、というような問題も報告されているので、「人道的な畜産物はない。畜産というものはことごとく動物たちの搾取である」という認識がもっと共有されてほしいと考えています。
——ありがとうございます。私の意見を言わせていただきますと、井上さんの考えはすごく正しいし、その通りだと思うのですが、私がウェルフェアを肯定しているのは、私がそもそもこの運動に入ったのはヴィーガニズムに賛同したからではなく、ウェルフェアの考え方に賛同したからなんですよね。元々やっぱり「工場畜産がおかしい」という違和感を強く抱いて、「工場畜産が終わらない限り私は肉を食べない」と決めて、それで肉を食べるのやめた。結果として、今実質ヴィーガンの生活を送っています。
なので、廃絶主義が理論的に正しいのはわかるんですけども、現実的には福祉の考えから入っていくわたしのような人間もいるので、福祉派を否定することで運動の戸口を挟めてしまわないか、という心配があります。現実的に廃絶主義の運動をやっていく方法論というのは、井上さんが今されているように著作を出されるという他に、どういう運動の方法があるでしょうか?
井上 やっぱり今はヴィーガニズムの啓蒙が行われていないので、それをいろんな形で考えていく必要があるのかなと思いました。ヴィーガニズムの啓蒙が行われていないというのは、つまり動物解放に関するデモ活動とかはあるのですが、メッセージの部分が「動物を守ろう」といった抽象的な言葉になっていて、ヴィーガニズムという代替案を示すところまでいけていない、と私は運動に参加していて感じました。なので、「人道的な/放牧された動物の乳製品を買おう」という運動を行うのではなく、動物を全く利用しないヴィーガンという選択肢があることを示していく、そういう啓蒙活動が行えていけたらいいのかなと考えています。
そのための方法というのは、私の場合は著作物を出していますが、デモであってもいいでしょうし、動画配信とか、あるいは深沢さんが行っているように対談や記事のアップといったことでもやっていける部分だと思います。なので、この前の深沢さんのヴィーガン食のレポートとか、ご自身がどのようなヴィーガン食の実践を行っていられるかを発信するというのは、有意義な活動だと思いました。
[このほか、他の社会正義運動にビーガンとして参与することで相互の関心と理解を深めていく取り組み、企業にビーガン商品の提供や開発を求める取り組み、ビーガン事業を宣伝・応援する取り組みなども廃絶主義の実践として考えられる。]
運動内のインファイト(内輪もめ)
——私がもう一点気になっているのが、動物運動内でのインファイティング(内輪もめ)と呼ばれるものです。往々にして、廃絶主義とウェルフェア肯定派は相容れない部分がありますが、私は活動家のバーンアウトがかなり深刻な問題だと感じています。運動を始めたはいいけれども、活動家の中のディプレッションが深刻だなというのを、現実的に身の周りでも自分自身でも感じています。
そういう中で、廃絶主義というのは、考え方はとても「正しい」んですけども、インファイティングって精神的にきついところがあって、自分と近い立場の人から批判されるとかなりダメージが大きくなり、そのような内輪からの批判が、運動を停滞させることにつながってしまっているとも感じています。
今フェミニズムでも運動内の対立が深刻な問題になってしまっていると思いますけれども、私自身は、狭い運動内の思想を統一させるよりは、運動の外の、今はまだ何も知らない人——動物の問題について何も知らないで消費している人に、まず知ってもらう、ということを優先したいと思っています。井上さんはインファイティングについてはどういうふうに考えられてますか?
井上 インファイトは本当に深刻だと思います。それはフェミニズムの方面でもそうですし、多分どの運動でもあるんだと思います。わたしの見方では、SNSがすごく悪影響を及ぼしていると思います。SNSで議論すると必ず分裂していくので、あれはちょっと考え直した方がいいんじゃないかということは思います。
一方で、福祉か廃絶か、というような議論に関して言うと、個人的には、今まで福祉の議論というのはあったんですが、廃絶の考えは多くなかった。私がその方針のものを訳し続けてきたので多く見えるかもしれないのですが、実際はそんなに多くなかったので、「(動物を)食べない・利用しない」という選択肢があることを示していきたい。向かうべきはこっちなんだ、ということを言っていきたい。そういう問題提起を行って、今まで広められてきた福祉にはどういう問題があるのか、意義はどういうものだったのか、限界はどういうところにあるのか、ということを議論して、より良い行動の形を模索していくということはやっぱり必要なんじゃないかな。そのためには、ルールを守った批判というのはやっぱり必要になってくるところだと思っています。
——ありがとうございます。今おっしゃっていただいたように、SNSだと違う部分を否定しあうような動きが強くなってしまうので、違う意見の方と、こういうふうに顔をつき合わせて話す機会を増やしていければな、と私も思います。
感想だよー
——最後に皆さん今日の感想をお願いします。
川口 皆さんとお話できてよかったです。ジビエがビジネスとして成り立っているというのは、私が住んでいるところからすると驚きなんですよね。資本の力の広がりってそれほどまでに強いんだな、って。それは都会と地方の力関係、非対称性の問題でもあると思います。自分の暮らしや土地に根ざして、これからも勉強し、皆さんと一緒に学びながら運動をしていきたいなと今日感じました。本当にありがとうございます。
生田 さきほどバーンアウトの問題が出ましたが、これは釜ヶ崎でもずっと大きな問題なんです。たまたま最近バーンアウトに関する論文を読んでたんですが、自分もありましたし、僕の周りでも結構あります。精神的に疲弊しちゃって、動けなくなっちゃうんですよ。やはりさっき言ったように、活動仲間での対立というのは大きな問題で、僕はいろんなジャンルの人とつきあっているんですが、行政と協力してやる人と、あくまで行政とは別に民間で頑張る、という立場で割れることがあります。
キーワードの一つは「自立支援」です。野宿の問題でいうと、ホームレス自立支援法が出たとき、運動が大きく割れたんです。自立支援法にのっとった方向に行った人たちは、行政と協力して、いかに問題を改善していくかという姿勢です。一方は、むしろ野宿には意義があるという、野宿を肯定する立場で行くスタイルがあります。そういう対立があって、結構激しい論争になるんです。僕もその中にいるんですけど、あえて客観的に言うと、論議の上ではとことん論争して、なおかつそれぞれの立場で運動を進めることを否定せず、全体として状況を変えていくのが一番建設的だろうと思っています。
動物問題についても、ある程度、そういうことが言えると思っていて、ウェルフェアの問題と、廃絶の問題はもちろん対立する面がありますが、今、我々がやっていこうとするように、建設的な論争をしていって、全体で状況をどう改善していくかということを考えるのが一番いいんじゃないかと思います。
問題に感じる一つは、我々は必ずしも動物の問題に現場で関わっていないじゃないですか。僕の知り合いでいうと、獣医のなかのまきこさんがあらゆる現場に行って、例えば鹿・猪の問題についても現場の人たちと協力して活動しています。そういった現場の人たちの知恵や体験をいつも意識しながらやっていかなければいけないと思っています。
今日は、井上さんとのお話を伺って本当に良かったです。今日の話も改めてすごいなと思いましたが、僕が『動物倫理の最前線』を読んで受けた宿題の一つは、貧困問題の現場とヴィーガンあるいは動物福祉の問題をどう繋げるかっていうことでした。井上さんは、貧困者に対するヴィーガン炊き出しの必要があるんじゃないか、ということを書かれたんですね。これは僕ずっと引っかかっていて、やりたかったんだけど、なかなかできなかったんすよ。一つは財力の問題もありますし、他地域で活動している人がヴィーガン炊き出しを提案したんだけど、周りから反対があり実現できなかったという問題もありました。
それも知っていたので、僕もかなり慎重になっていたんですが、今回は「看過しない会」の深沢さん、関さんと一緒に、ヴィーガン炊き出しを実現できて、野宿者ネットワークの夜回りで50食のヴィーガン弁当を配布することができました。皆さんに好評で、美味しい美味しいと言ってくれて、よかったなと思っています。こういった形で、理論的なやり取りもあるけれども、こういうことができるんじゃないかとか、現場ではこういった問題があるんじゃないか、ということを出し合って、1個1個実現していきたいと思っています。
井上 今回ちょっと私、思った以上に緊張していて、しどろもどろになっていたと思います。まだ自分の中で咀嚼と言語化ができていないところがいっぱいあることに気付かされました。でもこうして、共通している部分と違う部分が浮き彫りになったので、またこういう対談の機会があればいいなと思っています。
やっぱり、動物を巡る問題というのは、多様な考え方があっていい部分と、すり合わせていく必要がある部分があると思うので、そういうところについても話し合いを重ねていくことの重要さを感じました。 同時に一方で、私自身も自分の考え方とか認識とかポジショナリティとか、そういうものに対しての内省を忘れないことで、自分をより良い方向に変えていくような努力を重ねていく必要があるな、ということも改めて感じました。今日は本当にありがとうございました。
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