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【対談】《人間以上》の社会正義を求めて――生田武志 × 井上太一〈前編〉

ジュンク堂書店難波店で行われた、野宿者支援活動の経験をもとに動物論『いのちへの礼儀』を著わした生田武志さんと、動物研究の最新作『現代思想からの動物論』(ディネシュ・J・ワディウェル著)を日本に紹介した翻訳家・井上太一さんのトークイベントの記録です。

開催日:2020年8月30日(日) 16:30~18:00 ジュンク堂書店難波店

司会進行:福嶋聡(ジュンク堂書店難波店店長)

 人類による動物たちの扱いの問題は、今日、臨界点に達しています。大規模工場式畜産による地球温暖化、土地収奪、南北問題、大量絶滅――膨大な動物利用に支えられた私たちの生活は、環境、人間、そして動物たちに、史上例のない破壊的な影響をもたらしてきました。

 他方、ペットや家畜を商品として大量消費する社会は、労働者をはじめとする人間をも消耗品のごとく大量消費する文化を形づくっています。労働者は使い捨ての「人材」やあるいは「社畜」となることを強いられ、震災の被災者たちは「廃用」となった家畜のように棄民され、外国人技能実習生は奴隷労働のような状態に追いやられています。動物の生を徹底して管理し、その尊厳を否定するわたしたちの社会は、同時に人間の尊厳を否定する社会にもなっているのです。そして、そのふたつは決して無関係ではありません。
こうした中、人間と動物の関係を問い直し、両者の尊厳をともに回復させようとする気運が世界で高まっています。動物解放運動やビーガニズムの広まりは、その表われといえるでしょう。動物「愛護」ではなく、動物の「解放」、人間の「解放」が問われているのです。
(トークイベント紹介文より)

動物の問題との出会い

福嶋 ジュンク堂書店難波店店長の福嶋聡と申します。本日は生田武志さんと井上太一さんに来ていただきました。昨年に出た生田先生の『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房)と、井上さんが訳された『現代思想からの動物論――戦争・主権・生政治』(人文書院)の2冊を中心に、日本ではあまり議論されていないものの、ハッとさせられる動物論について、幅広く展開していただけるかと思います。

生田 生田です。よろしくお願いします。

井上 井上太一です。よろしくお願いいたします。

生田 僕は学生の時から、このジュンク堂書店難波店から自転車で15分くらいの釜ヶ崎で、野宿者や日雇い労働者の支援に関わりはじめました。今は、西成区に住んで、ここのすぐ近くのなんばハッチなど、大阪市浪速区、中央区近辺で、野宿の人たちを訪ねる夜回りを毎週土曜日にしています。この難波店はぼくがふだん本を買う場所なので、ここでイベントを行えて嬉しく思っています。

 いまご紹介いただいた『いのちへの礼儀』についてお話したいと思います。僕が文章を発表し始めたのはキルケゴール論で群像新人文学賞評論部門優秀賞をとってからですが、それと平行して貧困問題の本や原稿を書いていました。一方、動物問題はまったくジャンルが違います。なぜこういう本を書いたかですが、ひとつは、現場で常に大きな問題になっている「野宿者襲撃事件」を考えていくなかで、だんだんと動物の問題にいて考え始めました。野宿者に対する差別や暴行はあまりにもひどいんですが、それと動物に対する人間の扱いに似たものを感じ始めたということです。この二つは、「構造的暴力」という点でリンクしていると感じています。

 それと、個人的な経験なんですが、小学校低学年の時に鳥取砂丘でラクダに乗りました。業者がラクダを連れてきて人間を乗せて砂丘を回遊するというものです。その時に業者が鞭みたいものでラクダをバシバシ叩いていました。後で調べたら、ネットに「あれ、何とかならないのか」と別の人も書いてましたね。僕も心が痛かったんですが、でも、自分は何をしていたかというと、そのラクダに乗って遊覧しているわけです。つまり、虐待され利用されているラクダの上に、自分が消費者として乗っかっているという構図があった。その時にぼくは将来は動物のために何かできる人間になりたいと思いました。

 でも、大人になって何をやっているかというと、結局、工業畜産で作られた動物の肉や卵を食べている。つまり、構造的暴力の上にある動物を消費しているので、砂丘のラクダに乗っていることと、ほとんど変わりません。そういう意味で、あらためて自分になにができるのかを考えるようになりました。そこから、かなり時間をかけて動物の問題を考えるようになり、『いのちへの礼儀』を書き上げていきました。

井上 私は少し前に自然ドキュメンタリーの『アース』という映画で、地球温暖化に苦しめられている動物たちの姿を見て、そこから環境問題に関心をもちました。環境問題の議論を追っていくと、「このまま環境を壊し続けると人間の文明が危ない」といった、あくまで「人類の将来」を憂うる結論が目立っていたのに疑問を覚え、そこから自然と他の生命たちに配慮する、利他精神に根差す動物倫理の方面に関心を持って、何かそれに関する貢献ができないか、動物たちへの道徳的配慮を促すような仕事ができないかと考えるようになりました。大学時代に語学を専門としていたので、その語学力を活かして海外の動物倫理の文献を日本に紹介するために、今の翻訳業を専門にするようになりました。今は専ら動物倫理と、それに深く繋がりのある環境倫理の本を翻訳しています。

 生田さんの『いのちへの礼儀』という本では私が訳した本も多数参照していただいて、ありがたく思っています。日本では動物倫理に理解を示した議論がなかなか見られない状況でして、その中で生田さんの本はとても斬新でした。動物倫理のこれまでの議論を誠実に踏まえて、なおかつそれへの批判などを経て、独自の人間動物関係を模索するといったすばらしい作品に仕上がっています。

 さらに宣伝になってしまうのですが、新教出版社から出ているジャーナル『福音と世界』(2020年9月号)の中に「パンデミックの危機と動物たち」というエッセイを生田さんが寄稿されています。その中で現在の新型コロナウイルスの感染爆発のなかで動物たちが置かれた状況を探っています。感染爆発を受けてのペット消費の促進、工場式畜産による感染爆発の問題や地球温暖化との繫がり、ウイルス問題をきっかけとするワクチン開発のための動物実験などにも切り込んだ内容になります。さらにそれらを歴史的文脈の中でも捉えていて、動物実験に関していえば、これはもともと731部隊との繫がりがあるということで、現在の動物実験を取り仕切っている日本実験動物学会や実験動物中央研究所などの創設者たちの多くが731部隊の関係者によって占められているという、衝撃的な事実がここに書かれています。詳しくはぜひ読んでみてください。

日本では議論がほとんどされてこなかった動物の権利

生田 さて、今回なぜ僕と井上さんの二人でイベントを企画したのかについてお話しします。この本を書くときにいろんな文献をあたったのですが、気づいたのは、日本での動物倫理や動物の社会的問題について考えるときに参照すべき本があまりないということです。テレビ番組でもそうで、かわいい動物や珍しい動物の番組はいっぱいありますが、畜産問題について触れている番組なんて全然ない。海外では「動物の権利」や「動物の解放」あるいは「動物の福祉(アニマル・ウェルフェア)」についての議論はかなりの歴史がある。でも、日本はその歴史がほとんどない。

 そんな中で、井上さんの訳された本を――その当時は名前を把握はしてなかったのですが――読んでいくと、重要な本のあれもこれも井上さんが訳したものだと知って、この人すごいなと思ったんです。自分のが本になったら読んでいただきたいなと思って、本をお送りしました。それからやり取りを始めて、今日に至ったということですね。実は、僕と井上さんで対談をするから記事にしてくれないかと雑誌などに提案したんですが、断られまして(笑)。今日、やっとこうして実現したわけです。

井上 以前にふたりで対談を行って、対談記録を出版社に持ち込んだのですが、相手にされませんでした。

生田 大変悲しい思いをしました。貧困や野宿の問題については、講演や原稿の依頼はあるんですが、動物問題についてそういう依頼はとても少ない。それ自体、日本で動物の問題が社会的に認知されてないことを示しているという気がします。我々の議論は自分で評価できないですが、けっこういい仕事していると思うんですよ(笑)。でもなかなか取り上げてくれないし、反論にしろ何にしろ議論さえ起きない。

井上 これから盛り上げていくべきものじゃないですかね?

生田 そうでしょうね。後で話になると思うのですが、日本でも1970年代以降から障がい者問題、フェミニズム、最近なら貧困や格差が大きな問題となって社会的な運動が展開していきました。貧困問題には僕もずっと関わっていますが、動物問題については、運動自体はあっても、40年間ほど社会的に議論が進んでいない印象があります。そこはこれから我々も含めてがんばっていかなくてはならないところでしょう。

井上 そうですね。運動は色々なものがあって、内部批判もありながら成長してきたと感じております。ただ、一方で理論的な深化がこれまで行われてきませんでした。アカデミズムでの動物倫理の議論がほとんど発展しなかったという印象ですかね。

生田 そうですね。動物倫理については、おそらくピーター・シンガーで議論が止まっていますね。

井上 あと、動物倫理が環境倫理の一区画に閉じ込められてしまっているのが、いまの問題だと思います。動物倫理の学問的な位置づけがどこにあるのかと言うと、まず哲学という分類の中に倫理学という枠があって、その中に応用倫理学があって、その中に環境倫理があって、その中に動物倫理という、小さな小さな区画がある。しかし実際のところ動物問題はそこまで小さな領域で扱えるものでなくなっているというのが現状なのです。そこには法制度が関わってきますし、経済も関わってくる。当然、政治学や社会的なイデオロギーの浸透といったことも関わってきます。

 1970年代にはリチャード・ライダーという人が「種差別」という概念を作って、ピーター・シンガーがそれを広めました。シンガーの定義によれば、種差別は動物抑圧の根底にある差別的偏見のことを指していて、「私たち人類にとって有利かつ他の種に属する動物たちにとって不利となるような偏見または偏った態度」と定義されてはいるのですが、どうもそれだけでは動物問題は捉えられないのではないか、という議論が最近になって行われています。それは主に社会学の方面からの問題提起でして、これによると種差別というのはむしろイデオロギーであると。それは「現在の支配的な秩序を正当化するために、人々の間に浸透させられた/共有された信念体系」であるという見方に変わりつつあります。これが構造的な暴力と関わっているところだと思います。

感染症と畜産の関係

生田 日本で動物問題の議論がなかなか起こらないと先ほど言いました。しかし、いま世界最大の問題であるパンデミックと動物問題は完全にリンクしています。そもそも、感染症と動物の関係は、人類史の中でずっと大きな問題だったんです。われわれホモサピエンスが誕生した時期は、人口がまばらだったこともあって感染症はそれほど大きな問題とはなっていませんでした。しかし、大体1万年前に人類が家畜を発明した。牛とか豚とか、生殖を含めてコントロールできる動物種を作ったんですね。そのころから麻疹や天然痘、インフルエンザといった動物起源のウイルスが人間社会に繰り返し現れるようになりました。代表の一つはペストです。ペストはネズミを宿主として、人間に感染し、特にヨーロッパで壊滅的な被害が出たわけです。

 100年前には鳥インフルエンザの「スペインかぜ」がパンデミックを起こして5億人が感染して数千万人が死亡しました。鳥インフルエンザは昔から存在していましが、20世紀後半から繰り返しヒトに感染が広がるようになりました。その理由の一つとして、この50年間、開発や農地転換などのために世界の森林の約50%が失われ、鳥たちの住む環境が過密になった。その結果、ウイルス感染の機会が格段に増えたと言われています。人間の環境破壊がウイルスの蔓延に繋がったということです。

 そして、最大の問題は工業畜産です。「工場式畜産」とも言いますね。工業畜産は1960年代のアメリカから始まって世界に広まりました。まさしく工場みたいな飼育場に牛や豚や鶏を詰め込んで生育させるものです。多くの動物を詰め込んでいる上、衛生状態が悪いので、ウイルスの感染拡大の震源地(ホットスポット)になりやすいんです。2016年には北海道の養鶏場で鳥インフルエンザウイルスが検出されて約21万羽が殺処分され、2018年にも香川県の養鶏場で約9万2000羽が殺処分されました。今年は、オランダで毛皮用に飼育されているミンクから人間への新型コロナウイルス感染が発生して35万匹以上のミンクが殺処分されています。

 工業畜産や野生動物の生育地の破壊によって、感染症拡大のリスクが広がっているわけですが、我々は工業畜産で作られた安い肉を消費することで、このシステムを日々維持しています。さきほどラクダに乗った話をしましたが、それと同じように、われわれは工業畜産の動物たちを消費しているわけです。

 考えてみると、原発事故が起こったとき、事故が起こった際の途方もないリスクに人間があらためて気づいたことから「脱原発」の動きが社会に広がりました。でも、こうやって世界に膨大なリスクをもたらしたパンデミックが起こっても、脱工業畜産の動きはほとんど見られません。これは変な話だなと思います。ベジタリアンやビーガン(vegan)がそうですが、人間は動物を食べなくても生きていけます。我々が人間にも多大なリスクのある工業畜産を続けてまで、肉を食べ続ける必要がほんとうにあるのかなと思います。

 最近、「新しい生活様式」、マスクをしよう、手洗いうがいをしよう、社会的距離を取ろう、ということがよく言われます。そのとき、「ウイルスとの共存」ということも声高に言われています。でも、ウイルスとの共存は、動物との共存が前提だと思うんです。その意味で、「新しい生活様式」は、人間が動物の尊厳への責任をもつ、人間と動物との新たな関係として考えていかないといけないはずです。パンデミックの危機は、人間の動物たちへの構造的暴力を変革する転換点であるはずなんです。

井上 さきほどペストからインフルエンザに至る人獣共通感染症のお話がありました。それから動物倫理を学んでいる方はご存じだと思うのですが、環境破壊自体が工場式畜産によって進められているという事実もあります。例えばアマゾンの熱帯雨林破壊は91%が畜産関連の事業によるものだとか。今回のコロナウイルスはたまたま中国の野生動物市場から起こったといわれているわけですが、じっさいパンデミックの歴史を紐解いてみれば、それはもう中国の野生動物市場だけが恐ろしい環境であるという話ではなく、肉食産業全体がウイルスの脅威の温床なのだという認識が本来であれば必要なところです。「新しい生活様式」を考えるうえでも、脱肉食が唱えられてよいはずなのに、それが行われていない。

生田 考えてみればこれほど大きな人的被害が起こっているにもかかわらず、根本問題である環境問題や動物問題が反省されないのは奇妙な話です。その議論を起こさなくてはいけないのですが、そうならないのはなぜなんでしょうね。

井上 やはり食肉産業が大きな圧力になっているのではないでしょうか。メディアが産業によって乗っ取られているという陰謀論を唱える気はないのですが、民放の番組は食肉産業がスポンサーを務めています。表向きではなかったとしてもそれが無言の圧力となって、反肉食的な内容をメディアで流してはいけないという風潮があるのだと思います。

日本における食肉の歴史

生田 僕が本を書いて動物問題を調べているうちにびっくりしたことの一つは、日本の畜産がこれほどまでに動物に対して過酷なのかということでした。ある程度はイメージがあったんですが、調べれば調べるほど動物の生きている環境のひどさに驚いてしまいました。それで「肉を食べるのはしんどいな」という実感が出てきたんです。

欧米では「動物の福祉」、アニマルウェルフェアの動きを受けてある程度の改善が行われていますが、日本の畜産の状況はそうした変化がほぼ見られない。研究者の松本洋一さんは「日本の現実全体をみると、まさに畜産後進国として、欧米の畜産革命の波を被っていないかの様相である」(『日本と世界のアニマルウェルフェア畜産〈上巻〉人も動物も満たされて生きる』養賢堂、2016年)と言っていますが、なぜこれほど変わらないのか。

 もう一つは、それを知る機会が社会的にほとんどないということです。本を読まれた方から、「畜産の現実を知らなかったのでびっくりしました」とよく言われます。ありがたい反応なんですが、古典的な言い方でいうと、知ろうとしなかっただけではないかとも思います。たとえば、ウェブサイトを調べればたちまち出てくることです。自分の食生活があまりに身近なため、それを振り返ることに対する忌避感が強いのかなと思いました。パンデミックになっても、原因の一つである畜産問題、動物問題に対してなかなか反省の波がこないのはそういうことなのではと思います。

井上 生田さんは『いのちへの礼儀』で、日本の畜産の状況がなかなかよくならないのは、動物を家族のように愛しかつ殺す文化がなかったからだとおっしゃっていますが、それについて今の見解はいかがですか。

生田 江戸時代まで、日本では肉食はほとんどされていませんでした。生類憐れみの令がよく知られていますが、そもそも野生動物の数も少なかったし、牛や馬を戦争や農業に使うくらいで、畜産動物を育てて食べるという慣習がほとんどありませんでした。猟師や漁師以外、つまり大多数の農民は卵も乳も肉も摂らないビーガン食が普通だったんです。牧畜が定着した西洋では、牛や山羊、豚などを「かわいがって育てて、ある覚悟をもって殺して食べる」という食生活が根付きましたが、日本ではそうした畜産は存在しなかった。明治維新後の日本では、鶏を捌いて食べるという慣習がある時期にありました。でも、あれは実は日本の歴史のなかでわずか数十年しかなかったんです。

 日本人にとって肉食は、明治維新に最初から近代的産業として入ってきました。そのため、伝統的な畜産がなく、最初から「食材」としてしか動物を見ない習慣が根づいたと思うんです。

 「かわいがって育てて、ある覚悟をもって殺して食べる」と言いましたが、現在は、「かわいがる」動物と、「食べる」動物が完全に分離しています。つまり、かわいがるペットと、食べる家畜です。いま進んでいるのは、ペットに対する「家族」のような愛情です。ある程度の年齢の方は実感があるでしょうが、40年前のペットとの関係といまの関係はぜんぜんちがいます。40年前だと、犬は犬小屋にいる「番犬」で、猫は勝手に近所を歩き回っていました。でも、いまのペットはほんとうに「家族の一員」、場合によっては「家族以上」の存在になっています。その一方、同じ動物なのに牛や豚、鶏などは「食べる」だけの存在、つまり「食材」になっている。こうした歴史的経緯から、ペットはかわいがるけど家畜に対しては異常に無関心という不自然な事態が続いているのではないかと思います。ただ、これは本州だけの特徴で、北海道や沖縄では事情がまったくちがいますが。

井上 実はわたしは生田さんと見方がちがうところがあって、かわいがった動物を殺すという習慣がなかった、畜産動物は最初から経済的な資源とみなされていた、とおっしゃっていましたが、こういう歴史的なちがいは、改善の進み方のちがいに表れているのかな、と思います。というのは、工場式畜産自体はやはり欧米で発達したので、欧米で「かわいがりながら殺す」という文化があったとしても、それは資本主義の圧力やさまざまな歴史的要因によって工場式畜産へと結実してしまった。ただ、それに対する反省というのが欧米では進められましたが、日本ではそこまで進んでいない。わたしはそういうところに歴史的背景のちがいが表れているように思いました。

生田 肉食の問題についてしゃべっているといろいろな反応がきます。人間はもともと雑食だから食べるのは当然だ、とか。ただ、狩猟採集時代の人間と動物のかかわりと、伝統的な畜産での家畜の問題、そして1960年代以降の工業畜産の問題を分けないと議論が成り立たなくなってしまいます。個人的には、問題とすべきは1960年代以降、日本でいうと70年代以降に広まった工業畜産の問題で、それは動物の生の管理、言い換えれば動物の尊厳の剝奪にあると思っています。

動物の生と死の尊厳――性差別との繫がり

生田 いまの工業畜産は殺すことについては痛みを少なくする方向に進んでいます。牛はボルトピストルで眉間に鉄の棒を打ち込む「スタンニング」、豚や鶏は炭酸ガスや電気で意識を失わせて、それから頸動脈を切るという方法です。一方、動物が生き続ける環境はどんどん過酷なものになっていく。ブロイラーは人工授精で孵卵器から数万羽が同時に誕生し、密集した大規模鶏舎で飼育されます。日本のブロイラーの飼育面積は1羽当たりの広さがA4用紙以下で、鶏たちは施設内の寝床で1日中すごします。こうして育てられたブロイラーは、生後51日から55日程度で「若鶏」として出荷されます。本来、鶏の寿命は10年を超えるんですが。牛、豚についても似たような状況があります。死の苦しみは減る一方で、生の尊厳の剝奪が極大化していったという問題があると思いました。

井上 ただ、死の苦しみが最小化していくという言説はほんとうなのだろうかという問題提起がありまして、これを以前、私は書評で指摘させていただきました。そこに関してはいかがでしょうか。

生田 よく一般的に言われるのは、動物を殺すのは痛みを与えるからよくないということなんです。あるいは、育て方が暴力的だからよくない、とか。そうだとすれば、痛みを軽くすればその問題はクリアできるということになる。それに対して、現在の動物の扱いで問題となるのは、「死」以上に「生の尊厳」の剝奪ではないかと考えました。そこを強調したのですが、井上さんからの批判があったように、やはりそれは問題でした。つまり、動物工場での「生の尊厳」の剥奪を強調したため、屠殺の工業化でのストレスと苦しみを無視しがちになってしまった。これは井上さんに指摘されて納得した点です。屠殺の工業化は、動物工場の延長線であって、屠殺の大規模化、機械化が従来の屠殺とは別の大きな問題を生んでいるわけですね。その点についても強調すべきでした。

井上 生の側面に注目するか、死の側面に注目するかは、かならずしも二者択一の問題ではないのですが、動物福祉では生の側面に注目するんですね。生きているあいだ、意識のあるうちにどのような扱いを受けているのか。動物の権利論になると、扱いの如何にかかわらず、動物を手段化すること、それ自体が不正であるという議論になります。ただ、日本では生死どちらにも光を当てる議論が必要とされているだろうとは思います。

生田 動物問題のもうひとつの面として、ペットがあります。ペットの殺処分はずっと大きな問題ですが、行政や動物団体の努力によって年々減ってきました。全体として、ペットを「家族の一員」として大事にするという方向にいっているわけです。

 ただ、動物解放運動は、ペットのあり方を「感情奴隷制度」とたびたび批判しています。最近よく使われる「コンパニオン・アニマル」という言葉は、人間と動物が対等に関係を作っていく「伴侶」(コンパニオン)という意味ですが、「猫かわいがり」という言葉があるように、現実には一方的にペットを愛玩する場合が多いんじゃないでしょうか。「癒やし」としてだけペットを利用しているというか。そういう人は、動物を対等な存在(伴侶)とはみなしていないし、そこには「異なる種」に対する緊張や敬意が存在しないと思うんです。

 その意味で、工業畜産での動物虐待と家庭でのペットへの愛情は表裏一体なのではないかと思うことがあります。ぼくの知り合いの栗田隆子さんが『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2019年)のなかで、男性が女性に対して「頭を上から殴るのも、頭を撫でるのも、拳がグーかパーかの違いはあるものの、どちらも頭の上に手があることに変わりはない」と書いています。女性に対して「わかりやすい暴力を振るう男」と「気持ち悪い男」の違いは、上から「頭を殴る」か「頭を撫でる」かの違いで、その支配の構造は変わらない、ということです。

 ぼくも自分の男性性をふくめて考えるんですが、それは動物の議論にも当てはまるのではないかと思うんです。動物は畜産においてはわかりやすくグーで虐待されている。一方、家庭の動物についてはパーで「頭を撫で」てかわいがる。もちろん、相対的にはペットのほうがましな生活ですが、どちらも人間が「上から」動物を利用し、その尊厳を顧みないことでは変わりはないのかもしれません。

井上 それはかわいい動物や野生動物の脅威など、動物をおもしろがって鑑賞する文化、あるいは動物の所有を動物への愛情と位置づけるような文化の蔓延と関連している気がします。ペット問題に関しても隠されている部分があって、ほんとうにペットは猫かわいがりしかされていないのかというと、動物愛護団体・権利団体がずっと追っているように、そうではありません。
ペット動物たちの母動物は繁殖のためにさんざん酷使されて、殺されるか放置されて死んでいく。生まれてきた子どもたちも、呼吸するための穴だけを開けた段ボールに詰められて、ベルトコンベアーでどんどん運ばれながら品定めをされて、ペット業者に買い取られていく。売れなかったペットは引き取り屋という業者にもらわれて、また繁殖に使われるか、飼い殺しにされて放置される。ペットショップで売れ残った動物は同じく引き取り屋のところに行くか、その場で水に沈められるなどして殺される。そういう問題が山積みなのですね。

 動物たちの生涯は暴力まみれになっています。そういう部分がすべて隠されたうえで、「家族ペット」がつくられるわけですね。生田さんがおっしゃっていたのは、仮にそれらの部分をすべて無視して、ほんとうに愛情だけで動物を管理したらそれでいいのかというと、それはそれでディストピアだろうというお話だったんだろうと思います。動物福祉の問題とも関係する点ですが。

後編へつづく

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略歴

生田武志(いくた・たけし)1964年6月生まれ。大学在学中から釜ヶ崎の日雇労働者・野宿者支援活動に関わる。2000年、群像新人文学賞評論部門優秀賞。野宿者ネットワーク代表。「フリーターズフリー」編集発行人。著書に『<野宿者襲撃>論』『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』など。


井上太一(いのうえ・たいち)1984年生まれ。翻訳家。動物倫理の関連書籍を紹介することに従事し、国内外で動物利用をテーマとする講演活動も行なう。おもな訳書に『侵略者は誰か?』『ビーガンという生き方』『動物の権利入門』など。


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