橋梁の猫:十一月 後編


 妻は、素晴らしい人だ。

 よくある出会いで、友人の結婚式に新婦側の友人として来ていた彼女と二次会で意気投合して、連絡先を交換して、といったものだった。
 飄々としていて、人の評価などどこ吹く風で、はっきりとした態度や物言いでバリバリと仕事やプライベートをこなしていく人だ。
 しかし、付き合ってみると一転、拗ねたり甘えたり、急にくっついてみたり、近づこうとしなかったり。
 どんなときでも、言いづらいことでも、「言わなきゃ伝わらないんだよ。」と、「気付いてもらいたいっていうのは、甘えだから。」と、一見、凛とした表情でその癖、瞳が不安でゆらゆら揺れているような顔つきで、きちんと物事を伝えてくれる。
 いつも何かを考えているようで、突拍子のないことを言い出したり、でも話を聞いてみるとそれは筋が通っていて、納得できる。
 私は、そんな妻が、彼女のことが大好きなのだ。

 早足で橋から戻った私は、築40年は越えた鉄筋コンクリート製の集合住宅の古めかしい、バブルを感じさせる煌びやかなエントランスを抜け、これまた重苦しいエレベーターで上がる。
 橋で見た、大きな美しい白い猫、川面を跳ねるキラキラとした魚、紺碧に広がる朝焼けなど、とうに脳の引き出しへと追いやられていた。
 何はともあれ、今は家に帰り、心配していてくれたであろう妻に無事な姿を見せることが大事である。

 玄関の鍵をゆっくりと開ける。
 それはもう、まるで忍び込むかのようにドアも、そっと開けるのだ。
 このマンションは、古いくせに妙に気密性がしっかりしていて、油断すると気圧の関係でドアがいい音を立てて閉まってしまう。
 しかし、そんなスパイ映画の真似事も一瞬でエンディングを迎える。

 バタン!!

 開いた玄関ドアによって、玄関の気圧が変わったのか、勢いよく閉められる内ドア。
 出掛けにきちんと閉めなかったのだろう。
 ミッション失敗、スパイは首だな、とくだらないことを考えていると、ポケットに入れていたスマートフォンから振動が伝わる。
 靴を脱ぎながら確認すると、妻からだった。

『寝室』

 二文字。どうやら私の次のミッションは寝室へ向かうことらしい。

 ポケットの中から、タバコと携帯灰皿を取り出し、玄関の棚に置く。
 ぎっちり閉まっている内ドアを開け、急ぎリビングへいくと、私は上着をソファに投げ捨て、財布やスマートフォン、鍵もテーブルに置いてしまう。
 ポケットの中身を全部取り出し、身軽になった私は勇み足で、寝室に向かっていった。

 いざ、謁見の間へ。
 丁寧にドアを開ける。カーテンの隙間から、登り始めた日が光のラインを作っている。
 薄暗い部屋の真ん中にあるクイーンサイズのベッドは、まさに寝るだけの部屋とばかりに室内を圧倒していた。
 そして、そのシーツの海の真ん中に、どうにも二人分の布団や毛布を集めて中に一人入ってるだろうな、というサイズのそれはもう巨大な布の塊がある。
 中にいるのだろう、彼女は耳聡くドアの音を拾ったようで、巨大な布の塊が、びくっ、と動いた。

「ただいま。」
「おかえり。」

 彼女は、入り組んだ布同士の隙間を縫うように、もぞもぞと頭の上半分――丁度、鼻先が隠れるくらいまで顔を出して、くぐもった声で言った。
 寝起きのせいか、私が帰るのが遅かったせいか、はたまた服についたタバコの匂いが嫌なのか、眉をハの字にしながらも感情を抑えるような真っ直ぐな目でこちらを捉えている。

「遅かったわね。無事だったのね。」

 ぼすん、と音を立てながら再び寝転ぶ彼女に、内心、少し慌てながら言い訳をする。

「ごめん。連絡くらいすべきだった。なんだか外の雰囲気がよくて呑まれてたんだ。」

 私は言いながら、彼女の頭のある方へ歩み寄り、そっとベッドに腰掛けた。
 彼女はというと、そんな私の行動をじっ、と見つめ、呆けているような待っているような顔をしている。
 そして、おずおずと顔を出すと、目を細めながら言った。

「無事ならいいの。びっくりしただけだから。撫でて。」

 布の塊だった彼女は、頭と腕が生えた布の塊へと進化すると、もぞもぞと近づいてくる。
 撫でやすいように首を曲げ、頭を差し出すその姿は、長い黒髪――まさに『烏の濡羽色』のような艶やかな髪がその白い肌とシーツに映えている。
 私は、その美しい姿に思わず口元が緩んで、そっと手のひらで頭に触れた。
 ゆっくり、髪を痛めないように優しく、それでいて愛おしさを込めるように強く、宝物を愛でるように、撫でる。
 細くなった目を、さらに細くして、にんまりと笑い声が漏れそうな、少女のような笑顔で受け入れてくれる彼女。
 それがまた嬉しくなり、さらに優しく、しっかりと撫で続ける。

 そんな私に向かって、急に、きょとん、とした顔になった彼女が言った。

「…浮気でもしてきた?」
「は?」

 とんでもない発言に、思わず気の抜けた返事をしてしまった。
 何がどうして、そうなった。疑問に思考を巡らせる。
 今の私はどうしようもなく困った顔をしているだろう。
 だというのに、彼女ときたら、またその整った眉をハの字にして、言うのだ。

「手、いつもと逆じゃない。」

 そういって、撫でている側と反対の手を掴んでくる彼女。
 むーっ、と言いながら検分され、なすがままな私。
 ほとほと困り果てている私を察したのか、彼女は状況説明を始めた。

「あなたはね、いつもこっちの手で撫でてくれるの。特にタバコを吸ったあとはね。
 私がタバコ嫌いなの知っていて、後ろめたいのか、それとも匂いが残っているのか気にしているのかはわからないけど。
 いつもは手をしっかり洗ってるでしょう。でも今日は、私がすぐに呼んだから、それもしないで来てくれた。
 だから、別に手にタバコの匂いが残っているのはいいのよ。服だって。仕方ないもの。
 それにそれだけ慌ててくれたってことじゃない。」

 よくもまあ、早朝の寝起きからこれだけ頭も舌も回るものだ、と舌を巻く。

 時折、こうして妙な観察眼と説明口調で捲し立てられ、決まって私は関心と感動で心を奪われる。
 結婚してからは月に一度、あるかないかといったところだが、出会ったころはもっと頻度が多く、その度に彼女に惹かれていった。
 それは私の行動に関するものだけでなく、生活全般をおばあちゃんの知恵袋を理論と実技で教えてくれるような、ためになることや、バラエティ番組の雑学の説明、ニュース番組で見た報道に対する感想など、多岐に渡る。
 その度に、彼女の考え方や在り方を知り、そして私も交換とばかりに言葉を紡いだものだ。
 その時間はかけがえのないものであり、ときに意見が食い違おうが心躍る幸福な時間だった。
 今もその思いは変わらず、こうして彼女に惹かれていくのだ。

 ――私が思いを馳せている間にも検分は続く。
 それにしても、彼女が言うように、タバコを持っていた側の手で彼女に触れない、というのは自分でも意識していないことだ。
 そして同時に思い出す。
 私の反対側の手のひらは、先ほど、あの橋の猫を撫でていた。
 だとすれば、その手のひらには、あの柔らかな白い毛が付いているだろう。
 そうでなくても、どれだけ美しかろうが野生の動物である。ノミやダニはいるかもしれないし、目に見えない埃や汚れもあったろう。
 そんなことを無意識に気にして、今日は、タバコを持っていた手で彼女を撫でていたのかもしれない。
 むむむ、とでも言いたそうにしかめっ面をして、私の手を両手で掴み、押さえつけ、時折、匂いを嗅ぐ彼女。
 その姿はまるで――

「あ。わかった。」

 間違い探しの答えを見つけたような、得意げな顔で彼女は続ける。

「どこかの白髪のこじんまりとした可愛らしい子がいたのね〜。その子に夢中になって、時間を忘れたんでしょう。」

 わざとらしく、非難するような喋り方と、にやにやと悪戯をする子どものように楽しげな顔に、ついついこちらもノってしまう。

「バレたか。いやあ、綺麗な愛らしい子でね。ちょっとツンとしたところが、また可愛くて、つい、話し込んじゃったよ。」
「あら〜。あなたの好みは『警戒心は高いけど、慣れて認めた人には従順でどんな命令でもこなすタイプ』だと思っていたけど?」

 実のところ、犬派な私のことを言っているのだろうが、どうにもこういった言い方をすると聞こえが悪い。
 ノったはいいが、旗色が悪いようだ。
 なので、早々に奥の手を使わせてもらうことにした。

「そうだったんだけどね。どうにも、僕の好きな人が『凛としていて自由気ままで、それでいてきちんとこちらを見ていて、知的で心配りのできる、しなやかで綺麗な体毛をしている』せいか、そっち派になってしまってね。」
「ふーん。それを言うなら、私も最近『警戒心は高いのに、甘いものや可愛いものに目がなくて、しっかりしているのにどこか抜けている、呼べばちょっと無理してでもきてくれる』人が好きで好きで、たまらないのよねえ。」

 完敗だった。
 慣れないことはするものではない。
 してやられた、という羞恥で苦笑いで固まっている私に、したり顔で勝ち誇る彼女が飛び込んでくる。
 私の腹に顔を埋めた彼女からは、シャンプーと化粧水やらなにやらの混ざった、甘い、とてもいい匂いがした。

 そんな彼女の頭を再び撫でながら、幸福な時間に身を委ねていると、彼女は「よし。」と勢いよく離れ、ベッドから降りる。
 彼女は、伸びをひとつして、腰に手をあて、こちらを見据えると言った。

「せっかく早く起きたし、モーニングでも食べに行こっか。」

 確かに、私は今日も仕事だが、いつもより少し時間に余裕がある。
 ならばという提案なのだろう。彼女も朝食を用意するにはまだ早い。
 丁度、「今度、行ってみよう。」と話していた喫茶店があるのを思い出した。

「あそこ、行ってみるか。」
「そうそう。あそこ、行ってみましょ。」

 これで通じるのも、また幸せだった。
 時を重ねるにつれ、こういうことが増えてくる。それが、共に過ごすということなのだろう。
 健全に、着実に増えてくる幸福を噛み締めながら、毎日を過ごす。
 その代わり、驚きは少なくなってくる。それでも丁寧に、丁寧にひとつづつ拾いあげると、驚きだって少なくないことに気付く。
 そうして積み上げていくことが幸福だ、と、昔、何かで読んだ気がする。

 妻は、であれば、とばかりにいそいそと準備を始める。
 私はというと、洗い損ねた手を今さら洗いに行き、歯磨きをしている妻に「証拠隠滅ですか?」と揶揄われる。
 テーブルに並べた、スマートフォン、鍵、財布をポケットにしまい、ソファに投げ捨てていた淡い緑のジャケットを羽織る。
 着替えも終わった妻は、白いニットにプリーツの入った薄灰色のロングスカートの出立ちで、その腰まであろうかという黒い髪はアップにまとめられていた。ふわふわと癖っ毛で、本人は少し気にしているようだったが、ウェーブのかかったその黒髪が、白いニットに映えて綺麗だった。

 相変わらず準備の早いことだ、と感心する。
 それでいて化粧も軽くしているのだから侮れない。もっとも、妻からすれば本当に軽くしただけで化粧に入らないらしいが。

「さて、行きますか。」
「参りましょうか。」

 戯けて言う妻に、戯けて返す。
 二人、色違いでお揃いのスニーカーを履くと、そっと玄関を出る。
 内ドアの閉めが甘かったらしく、玄関ドアを開けたときに、ばたん、と大きな音がした。
 二人揃って、びっくりして見つめ合ったあと、また揃って笑ってしまった。
 重苦しいエレベーターは、降りる時は軽やかで、古めかしいエントランス通る私たちは、まるでパーティ会場を抜け出すようだ。

 軽い足取りと、朝の澄んだ空気、朝日と曇の織りなす紺碧、冬が近い冷たい外気で靄のようになる息。
 喫茶店に向かう足取りは軽く、程なくして、いつもの橋を横目に通り過ぎようとする。

 その時だった。

「あっ!!!」

 妻が、声をあげる。
 そちらを向くと、橋の向こう側を見ていた。

 そこには、白く、大きな、あの猫がいた。
 小さめな口は無表情にも見えて、あどけなさの残る大きな瞳で、こちらを、じっ、と見つめている。
 その美しい体毛は、太陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。

「にぃ。」

 猫はひとつ、大きく鳴くと、こちらに向かって歩き出す。
 妻はというと、「ほほう。浮気相手がどんなだか見極めてやろうじゃないの。」とばかりに、勇んで猫にゆっくり近づいていった。
 橋の真ん中で対峙する、妻と猫。
 私は、その様子を呆けて見ていた。

 スカートを丁寧に押さえながらしゃがみ込む妻の背中は、とても小さくて、相手が大きな猫ということもあり、猫同士が対峙しているようにも見えた。
 猫は、ぴん、と尻尾を立てて、しゃなりしゃなりと妻の方へ歩いてくる。
 好奇心を隠そうともしない妻は、すっ、と手の甲を猫に向かって突きつけた。
 すんすん、と匂いを嗅ぐ猫。
 ――ほどなくして、あっさりと、白い毛玉は腹を見せていた。

「うりうり。ここがええんか。ええのんか。」

 今どき聞くこともなくなった古い台詞を吐きながら、わしゃわしゃと撫で回す、妻。
 そのテクニックにやられたのか、ごろんごろん、と転がり回る、なすがままの猫。
 なんともまぁ、立場のない光景である。

「この子、もふもふのふわふわだねえ。あなたが浮気するのもわかるわ。」

 もう人通りもあるというのに、見聞などお構いなしな声に苦笑する。

「いい加減、そろそろ行かないと時間、まずいぞー。」

 完全に負け台詞だ。決して悔しくなんかない。ない、が、どこか蚊帳の外なのがもどかしい。
 かといって、私が近づいて逃げられでもしたら、きっと私は落ち込むだろう。
 だから、こうして声をかけるしかないのだ。

「はいはーい。っと。ああ、君、もう終わりだってば。」

 すらりと立ち上がり、まだ撫でて欲しそうに、寝転がったまま足に纏わりつく猫。
 それを避けようとして、ひらり、と半回転し、スカートが舞う。
 差し込む朝日と、線路の高架が作る光と影のコントラスト。
 光を反射して輝く、烏の濡羽色と、白鳥の艶羽色。
 銀色の橋の手すり。コンクリートの荒い褐色。
 空の青。川の緑。
 ふわりと揺れる、長い髪。細い手足。ゆらゆら揺れる尻尾。

 まるで、淑女が踊っているような、そんな絵画のような、景色。


 目に焼き付けているうちに、いつまでも寝そべっている猫に痺れを切らした妻は、猫を立たせようと前足の脇に手を入れて持ち上げていた。

「ほら。立ちましょうねー。」

 子どもをあやすかのような言葉使いに笑みがもれる。
 この幸せな光景をいつまでも見ていたい、そう思えるほどに、幸せだった。

 と、ここで、私の浅はかで夢見がちな思いは現実に引き戻されるのである。

「あんた、男の子だったの?」

 え?男の子?


「――あははははは!!!」

「うわ、なに!?」

 急に大声で笑い出す私に、びっくりして猫を手放してこちらを見る妻。
 猫もどうようにびっくりして駆け出して、向こう側に行ってしまった。
 通行人も何人か、こちらを振り向いている。

「急に笑い出して、どうしたのよ。」
「いや、自分の妄想に笑えてきて。」

 涙が出るほどに笑い、目尻を拭きながら答える私に、何かを察したのか悪戯っぽく妻も笑う。

「あなたはそっちもいけたのね〜。」
「やめろ、やめろ。」

 笑いあいながら歩き出す。
 どちらともなく、手を重ねた。
 繋いだ手を、大きく振りながら歩いていく。
 晩秋の朝の気温に、その伝わる体温が心地良い。

 冬も近い。
 今日は、見事な今年最後の秋晴れになるだろう。

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