見出し画像

【剣豪時代小説】Don't Test da Master

 武蔵はやぁっ、とばかりに卜伝に木刀を振り下ろす。すると卜伝、ひらり身を躍らせたかと思えばその木刀を、木の鍋蓋ではっし、と受け止めた! 
         ~~ある講談より~~

「やぁっ!」
 宮本武蔵は囲炉裏の前に座った老人に、木刀で打ちかかった。

 ボコッ。
 木刀は後頭部に命中した。

「ぐふぅ」
 老人は一言唸って、座ったままの姿勢で横に倒れ伏した。


「…………あれっ」
 武蔵は呟いた。
「えっ、ちょっと?」
 木刀を放り出し駆けよる。
「大丈夫ですか!?」
 己のしたことを棚に上げて老人を抱き上げたが、げえっ、と叫んで手を離した。
 老人の名は塚原卜伝《つかはら ぼくでん》──あらゆる戦いにおいて勝利。負けなし。「その身体に刀傷なし」と噂され、“剣聖”とまで称された男である。

 その塚原卜伝は、死んでいた。
 
 白目を剥き、開いた口から泡を吹いている。頭部の裂傷からは血が流れ、白い髪と顔面が真っ赤に染まっている。呼吸もしていない。
 武蔵はそっと彼の首筋に指をあてた。脈はなかった。
 これはもう完全にダメなやつであった。
「これは……」武蔵は立ち上がって腕組みした。
「これは……まずいような気がする…………」




 十四日前、伝説の剣豪がまだ生きていると聞いて、武蔵はこの山小屋までやって来たのであった。 
 小屋のそばで小枝を拾っていた老人は名声に比して、ひどく小さく見えた。老いのため身が縮んだのか、老いゆえに衰えたのか。
 白髪と白い髭、皺だらけの顔にもまた、剣聖と呼ばれるような覇気は感じられなかった。ただの老人であった。
 武蔵はこの老人の生年を知らなかったが、齢八十は越えているように見えた。いや九十とも見えた。
 武蔵はこの時、いまだ二十歳になっていない。才気と野望に満ちて血気盛んな若者である。
 
「塚原卜伝殿、ですな」武蔵は静かに尋ねた。
「さよう」老人はごく軽く答えた。
「立ち合いをお願いしたい」
「ほう、立ち合いを」
 立ち合い──現代で言うところの剣術試合である。
「そうだ。剣聖とまで呼ばれるその太刀筋、しかと拝見したい」
 武蔵は、腰の刀とは別に持参していた木刀二本を袋から出して掴み、ぐっと前に突き出した。
「ほっほっほ」
 老人は柔和に笑った。
「お主のような若き人が、この小さな年寄りと刀を交えたい、と申されるか」
「そうだ」
「得るものがあるかな」
「得るものがあるかどうか、俺はそれを知りたい」
「ふぅむ……おっと、蜂がおるのう」
 武蔵の目には見えなかったが、老人は手を振って虫を払う動作をした。それから小枝の束から一本抜き取る動作をしたかと思うと、ツッ、と中空に差し出した。
「ぬっ」
 武蔵は目を見張った。
 枝の先には、蜂が一匹刺さっていたのである。


 普通の剣士であればここで、「これはかなわぬ」「人の域を越え仙人のようだ」「確かに剣聖じゃ」と驚愕、畏怖し、頭を下げて帰ってきたであろう。
  
 しかし、武蔵は普通ではなかった。
 普通ではない上に、しつこかった。
  
「これはすごい」「人の域を越え仙人のようだ」「ということで立ち合ってくれ」「そんなこと言わずに」「どうにかならぬか」「いやいやどうか」「よしこうなったら」「何日でも付きまとうからな」
 このように十日ばかり、小屋の周りをうろついて頼みこみ続けた。

 折々に、卜伝は達人ぶりを武蔵に見せつけた。
 ある時は箸で、飛ぶ蝿を捕まえてみせた。
 またある時は武蔵の持参した木刀で薪割りをしてみせた。
 翌日には手刀で薪割りをしてみせた。
 そのまた翌日にはなんと、指二本で割ってみせた。
「ほっほっほ」と老人はそのたび、笑ってみせるのであった
 いずれも驚天動地の技であった。だが武蔵は少しも退かず、「これはすごい」「ということで立ち合ってくれ」と繰り返した。 


 卜伝は人徳があるらしく、日に一人は弟子か、弟子の弟子という者たちが来た。
 弟子たちは食糧を携え、「先生、お元気ですか」と卜伝に声をかける。昼飯や晩飯を共に喰い、「それではまた」と帰っていった。老いた師を気づかっているのだな、と武蔵は考えた。
 そのつど彼らに名乗る程度のことはしたが、無論のこと、武蔵は温かい食事の座には加われない。ひとりきりでの野宿である。そのあたりに生えた草や茸を喰い、懐に入れた干し肉をかじって過ごした。 
 山は寒くまた暑く、立ち合いに応じてもらえぬ苛立ちがつのっていった。


 武蔵が山小屋に来て、十四日の朝である。 
 干し肉もなくなり、武蔵は腹を空かせていた。苛立ちも頂点に達していた。しかしここまで来ておめおめと山を降りるわけにはいかぬ。
 あの爺、と武蔵は考える。
「こうなったら、いきなり襲ってやろうではないか」
 だか相手が塚原卜伝とは言え、だしぬけに刀で斬りかかることは憚られた。かくなる行動はただの人殺し、通り魔、狂人である。
 そんなわけで真剣は置き、木刀を持ち、武蔵は小屋に忍び寄った。
 殴りかかるなら常識の範囲内、との判断であった。 


 音もなく小屋の入口に立った。 
 卜伝は背中を向け、囲炉裏にかけた鍋で何やら煮ていた。木の蓋を取って箸でかき回している。つん、と味噌の香りがして、武蔵の腹が収縮した。腹の虫は鳴らなかった。
 最初の一撃はかわされるだろう、と武蔵は思っている。相手は達人である。これは塚原卜伝を立ち合いの場に引き出すため、本気にさせるための一撃なのだ。
 木刀を振り上げた。卜伝は気づいていないように見える。いや、すでにこの殺気に気づいて、向こうでニヤリと笑っているであろう。 
 武蔵はそのままの体勢で、板の間に片足を乗せ──
「やぁっ!」




 …………このような流れがあって、塚原卜伝は死んだのであった。

 撲殺である。

 関ヶ原で戦い、その前にも後にも人と斬り結び。いくつもの命を奪っている武蔵である。その点は特に動揺していない。
 問題は、これが立ち合いや決闘でなく、また正々堂々挑みかかったのでもないことであった。

 背後から後頭部を殴っての、撲殺である。
 
 武蔵は組んでいた腕を解いた。つまりこれがまずいのだな、と気づく。これでは騙し討ちとほぼ同義だ。
 このままでは、俺は無抵抗の老人を殴り殺したということになる。 
 俺と卜伝がきちんと戦い、俺が勝ち、卜伝は打ち所が悪くて死んだ、という形にせねばならない。
 すなわち、偽装しなくてはならぬ。
 そのためには、もう一本の木刀を持ってきて死体の手に握らせねば。いやその前に、いかにも戦いが白熱したかのように小屋の内と外を荒らして──
 


「あーっ!!」
 小屋の入り口で叫ぶ声がした。武蔵はげえっ、と振り向いた。
 そこにいたのは先日、卜伝の弟子として紹介された雲林院松軒という男である。 
 彼は武蔵が山小屋に来た翌日に来訪した。ちょうど卜伝に立ち合いを頼んでいた折だったゆえ、互いに名乗る羽目になった。 
「松に軒と書いてショウケンと読む……。これはわしの一番弟子じゃが、まだまだ未熟。ほっほっほ」
「……はっ、精進して参ります」
 松軒は頭を下げたものだった。 
 その松軒が先日のように、野菜の入った籠を持って小屋の入口に立っていた。その背後には息子か弟子らしき少年がくっついている。
 彼は籠をとり落とし、師に駆け寄った。そしてすぐ気づいて言った。
「し、死んでる…………!」
 逃げ出そうと武蔵が思った刹那、「こらぁ!」と叱られた。後ろめたさもあり足が止まってしまった。そうして松軒は武蔵を指さした。
「君ね! ちょっと座りなさい!」




 少しののち、松軒と武蔵は、小屋の中で膝を向かい合わせて正座していた。
 前者は固く腕を組んでおり、後者は小さく縮こまっている。すぐ脇には白目を剥き口に泡の残る卜伝の死体が寝かせてある。
 武蔵は首をすくめていた。強いまなざしが自分に向けられているのを感じるので、どうしてもそちらの方を見れぬ。
 武蔵はちら、とできるだけさりげなく松軒の顔を見た。
 自分よりずっと年上の相手の眉に、深い皺が刻まれていた。
 剣士とは見えぬ美太夫の顔がぐしゃりも潰れ、ものすごい形相になっている。
「で、武蔵くん。君は先生の後ろからいきなり殴りかかったわけだね」
「まぁ、はい、そういうことでして」
 立ち合いを偽装しようとした直前、折り悪しく一番弟子の松軒が来てしまった。
 自分のそばには血のついた木刀、卜伝は素手。小屋の内も外も荒れていない。現行犯である。言い逃れはできなかった。
 


 松軒は咳払いをひとつした。そして身体を武蔵の方にぐっ、と寄せた。
「これはね武蔵くん、殺人だよ」松軒は小声で言う。「殺人事件だよ」
「いや松軒殿、自分は殺そうとして打ちかかったわけでは」
「打ちかかったんでしょう」
「はい」
「じゃあその時点でもう殺人未遂だよ」
「でもそれは、実力を試そうとして」
「君ね、突然背後から襲ったくせに、実力も何もないよ」
「それはそうですが、せっかく遠路はるばる来て立ち会いを申し込んだのに、何日も何日も無下に扱われて」
「それでカッとなって」
「違いますよ。俺はただ立ち合いをしてほしくて」 
「だからって後ろから殴りかかって良いという法はないよ」
「いやいや、けどですね」
「くどい!!」
 松軒は一喝した。武蔵は首を縮めた。
「こうなったら出るところへ出てだ、お上の裁きを受けてもらわねばいかんぞ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟。大袈裟と言うのか。人が殺されたのだぞ。しかも私の師匠がだ。その上決闘ではなく背後からの撲殺だ。何を言うておるのだ君は」
「いや、でもですね……」
「黙らっしゃい! 待っていたまえ。もうじきに……」
「いや……あのう…………」
 武蔵は少し言い淀んだ後、
「…………でもねぇ! 剣士たるものねぇ! いつ斬りかかられてもいいくらいの気持ちでいないと! ダメだと思うんですよ!!」 
 といきなり叫んだ。正座を解いてあぐらをかく。
「こんな若造がと! てんで相手に! されませんでしたけどね! その若造に! 一発でやられたのは! どこの! 誰ですか! ってことですよ!」
 言葉の切れ目ごとに板の間をばんばんと叩いた。
 開き直り──現代で言うところの逆ギレである。 

「…………ほー。言うじゃないか。言うじゃあないか武蔵くん」
 松軒はよりすごい顔になって大きく頷く。だが口調は静かである。
「それでは、君はそういう立場を受け入れるというわけだね」
「……えっ?」
「剣士たるものいつ斬りかかられてもいいと、そう言ったわけだからね」
「……ええっ?」
「いま君は刀を持っていないけれども、私は持っている。ここに」
 そう言いつつ脇に置いた刀の鞘を握った。
「さっき斬り伏せてもよかったのだが、話だけでも聞いてやろうと思った。なのにその態度言動だ。つまり君は、いま私にいきなり斬られても、文句はないわけだね」
「……いや~まぁ、ちょっと、それは……」
「この場からうまく逃げてもだ、他の弟子たちが君を追うぞ」
 松軒の手に力が入る。
「君も会ったろう。私の他にも弟子がいる。みな強い。おそろしく強い。君は彼らに顔が割れている。ここに十日もいたのだから、先生を慕って毎日来る人々に顔を見られている。君は先生の仇だ。確実に追われるぞ。全員に追われる。昼と夜の別なく。朝と夕の違いなく。飯の時も便所にいる時も気が抜けず、眠っている時でさえ…………」

 役者の長台詞のように朗々と語る松軒の言うことはもっともであったが、武蔵はなんだか腹が立ってきた。
 彼の言うことはまったく正しい。正しいのだが、正しさゆえに腹が立った。

 もうあれだな、いっそのこと、こいつも殺っちゃうか。
 そのような考えが武蔵の頭にひらめいた。

 一番弟子とは言うがこの男、どうもさほど強そうには感じぬ。むしろ弱い気すらする。武蔵の嗅覚がそれを告げていた。先ほどは戸惑いと驚きゆえ従ってしまったが、相手は一人。さっき一緒にいた少年は松軒に何事か囁かれ、どこかに走っていった。あやつは小屋の中をよく見なかったろう。
 今のうちだ。
 刀から手を離した直後に飛びかかり、馬乗りになり、囲炉裏にくすぶっている薪を顔に押しつけてから、その刀で突き殺す。その流れが武蔵の頭の中で一瞬で構築せられた。
 武蔵はまさに天才であった。二十歳に満たずして、一対一の場での最善手が千里眼の如く見えるのだった。
 松軒はまだ、「お前は逃げられないぞ」との旨のことを語り続けている。粘つくような口調で、延々と喋っている。
 このやろう。こっちに非があるからとネチネチといたぶりおって。
 武蔵の堪忍袋の尾がミシミシと音を立てて伸びていく。
 こいつを殺してから、先の立ち合いの現場を偽装する。こいつは卜伝に加勢して、師と共に俺に倒されたことにするのだ。
 女みたいなツラしやがって。今その顔、こんがり焼いてやるからな──


「うわーっ!」
 小屋の入り口で叫んだ者がいる。卜伝の弟子、諸岡一羽である。
「えっ、なんで?」
「私が呼んだのだ」松軒は言った。
「共に来ていた者に知らせに走らせた。諸岡殿、こやつが先生を背後から……」
 武蔵の目の前、すごい顔をした男が二人に増えた。


「先生が亡くなったとは本当か!」
 弟子、真壁氏幹が土足で小屋に上がってきた。
「おぉ真壁殿、来てくれたか。実はこやつが先生を……」
 武蔵を詰める男は三人に増えた。


「………………」
 斎藤伝鬼房が無言で入ってきた。卜伝の死体に無言で手を合わせてから、どしんと武蔵の前に座った。 
「斎藤殿、こやつが」
 四人になった。 


 武蔵は、正座しなおした。
 四対一である。こちらは武器がない。向こうは全員刀を持っている。
 さしもの武蔵も開き直ったままではおられず、うなだれて元のしおれた様子に戻った。


「さて、この男をどうしようか」
 松軒が呟くように言うと、
「殺そう」
 と答えたのは諸岡である。
「ええっ!?」武蔵は思わず叫んだ。
「師を殴り殺されたのだ。このような卑怯者、即刻ぶち殺さねばならぬ」
 諸岡は武蔵の声を無視して、顔を赤くして鼻息荒く続けた。
「しかしなぁ」真壁が口を挟んだ。白く四角い顔は豆腐を思わせた。
「どこの誰とも知れぬ青年に、不意打ちとは言えあの塚原卜伝が倒されたとなれば、これは大きな恥ではなかろうか」
「貴様、先生を愚弄するかッ」
「勘違いするな。感情にまかせての行動はいかんと言うておるのだ」
「先生は不意打ちで殺されたのだぞッ」
「だがしかしな、こやつを殺してどうする。先生が戻ってくるわけでもなし……」
「どうもこうもないッ」
「諸岡殿、気を沈められい」ここで松軒が仲裁に入った。

 この間じゅう、斎藤伝鬼房は無言で、武蔵をじっとにらみつけていた。
 伝鬼房の名の通り鬼のような顔である。ぼさぼさとした髪の下のぎょろりとした目を見開いて、一度もまばたきをしない。
 武蔵は四人のうちこの男が一番怖かった。ただ黙っているのが怖い。心の内が見えぬので、次の瞬間何をしてくるかわからなかったからである。


 松軒、諸岡、真壁の三人は大声で話し合っていたが、しばらくすると武蔵の前から少し離れ、顔を付き合わせてひそひそしはじめた。
 話の内容が気になったものの、伝鬼房の黙りこくって怖い顔がすぐ隣にあって気が気でない。
 武蔵は一度だけ、
「あの……なんですか?」
 と聞いた。
 伝鬼房はそれには答えず、一言も喋らないまま、ただ武蔵をにらんでいた。


 話し合いが終わり、三人は武蔵に向き直った。
「武蔵くん。君の処断が決まった」松軒が言った。「よい知らせと悪い知らせがあるが、どちらを先に聞きたい」
 武蔵は首をかしげて数秒考えてから言った。
「あの~、悪い知らせを、ナシにする、ってのはできませんか?」
「貴様ァッ!」
 諸岡が立ち上がるのを松軒と真壁が制した。
「…………では、悪い知らせから言おう。君は、塚原先生に負けた、ということにする」
「え~っ!? 勝ちましたけど?」
「貴様ァッ!」
 再び諸岡が立ち上がるのを松軒と真壁がまた制した。
「君も相当に図太いな」
「よく言われます」
 松軒は額の汗をぬぐった。
「いいかね、ここが大事なのだ。君は、囲炉裏端にいた先生に木刀で挑みかかった」
「はい」
「君はどうやって負けたい?」
「は?」
「向こうは剣聖・塚原卜伝だ。君はその卜伝にうまくかわされ、世の中にはすごい人がいるものだ、と感じ入る……そういう筋書きを、君は期待していたのではないかな?」
「いやまぁ、一応、そういうことになりますかね」
「ではどうかわされたことにしたい? 見事に、神業の如くにだ」
「はぁ……そうですね……」
 武蔵は小屋の中を見渡した。座布団があり、箸が飛び、鍋の煮物に乗っていた木の蓋が転がっている。
「そこの……」
 武蔵は木の蓋を指さす。
「木の蓋で、木刀をはっしと受け止めた、というのが、それっぽくて、いいかもしれません」 
「うむ、なるほどな……」と松軒が頷く。
 諸岡も「先生の技量ならありえる技じゃ」と感極まったように言う。
 真壁も「本気の太刀を鍋蓋で、か。まさに剣聖」と感心した。
 伝鬼房も黙ってゆっくりと頷いた。

「ではそのようにしよう。となれば、塚原先生は死ななかったことになる」
「へ? でもここで死んでますが」
「死ななかったのだ。武蔵くん。塚原卜伝は今日、この日には死ななかったのだ。わかるか?」
「……いや……」
「しかしな、先生はご高齢だ。負けたお主が感服してここを立ち去った数日後、老衰でお亡くなりになる……そういうことだ」
「…………あ! はい、なるほど……」
「そこでだ。お主には世の人々に、『塚原卜伝に挑んで負けた話』を広めてもらいたい。当然、私たちも触れ回る」
「はい……」
「お主は卜伝に負けた若者として世間の評判をいささか落とすが、その代わり塚原卜伝の名は上がる。そしてお主は、卑怯な人殺しの罪から逃れられる。こういう仕掛けだ」
「なるほど……よくできておりますな……はっはっは!」
 武蔵は破顔一笑したが、目の前の四人が全然笑っていなかったので真顔に戻った。
「だがもしもだ、自由の身になった後で、浮かれて『俺が塚原卜伝を倒した』などと言ってみろ」
「………………」
「その時はわかるな? 弟子全員でお主を追い詰める。針のムシロだ。生き地獄だ」
「なぶり殺す」諸岡がつけ加えた。
「容赦はせぬ」真壁も加わった。
「………………」伝鬼房の鬼のような顔の筋肉に力が入った。
「わかりました……」
「よいな?」
「はい」
「では武蔵くん、今すぐにこの山から降りなさい。そして二度とこの辺りに近づいてはならぬ! よいか。我々の言ったこと、ゆめゆめ忘れるでないぞ!!」

 



「ふぅむ、頭を一撃か」
 老人の死体を見てそう呟いたのは、本物の雲林院松軒である。 
 歳は八十八、隠居の身であるが、全身から剣気が発されている。塚原卜伝の正真正銘の弟子である。 
「そうなんですよぉ」偽者の松軒が骨のない口調でそう言った。
「いやぁ、以前に似たようなことがありましたもんでどうにかできましたがねぇ。私が偶然小屋に来てなかったらどうなったことか……」
「わかっておる。特別手当は出す」
「俺らもねぇ、使いのガキが駆けつけた時にゃ、どうしようかと!」
「そうですともよ、しかも相手は向こう見ずそうな若ぇ野郎じゃありませんか!」
 諸岡と真壁もくだけた話し方である──言うまでもなくこの二人も偽者である。
「怖かったですよォーッ!」伝鬼房が顔に似合わぬ甲高い声で絶叫した。「怖かったんですからネェーッ!」
「わかったわかった。お主らにも手当は出す……」
 雲林院松軒は立ち上がって膝を伸ばした。老体ゆえ、膝と腰に軽い痛みが走る。
「しかし、何年ぶりだ? 『塚原卜伝』がこのように殺されたのは……」
「八年ぶりでございますよ。その前は十四年」偽の松軒が慇懃に言う。「この死んでる人は三代目です」
「そうか。そんなにもなるか……ではこの者は埋めて、また新しい『塚原卜伝』を探さねばなるまいて……」
「松軒様」偽の諸岡が言う。「これ、いつまでお続けになるんですかい?」
 真壁も重ねるように言う。「そうですよ。そりゃまぁ、旅芸人のあたしらを雇ってもらって、この山での生活の面倒まで見てもらってンのはありがたいことですけどねぇ。もうウン十年にもなりますよ? このお芝居……『塚原卜伝が生きている』ってぇ……」
 偽の伝鬼房が壁際に積んである木の幹を持ち上げた。それを横に引っ張ると、いとも簡単に「割れた」。米粒でくっついているだけである。それから、すでに蜂の死骸が刺さっている木の枝と、先に蠅を接着した箸を手にとった。
 この偽の塚原卜伝がやって見せた神業は、すべてまがい物だったのである。
 彼は雲林院松軒の方を見た。無言だが、言いたいことは偽の諸岡や真壁と同じであった。

 雲林院松軒はため息をひとつついた。

「…………昔、言うたではないか。これは塚原先生の遺言なのだ。『平穏無事な世が来るまで、わしの死は隠しておけ』というな。
 お主らにはわかるまいが、『伝説』というのはいつまでも輝くものではない。
 先生は危惧されておった。この動乱の世で、ただひたすらに剣の道を歩む若者がいなくなることをな。
 そんな世ではな、『伝説』が必要なのじゃ。若き人が目指すような、生ける伝説がな。たとえば“無敗の剣聖”という……」
「それにしたって長すぎやしませんかい?」偽の松軒が割り込んだ。
「いつになったらその、平穏無事な世は来るんですか?」 
「さぁ……だがまぁ、そろそろ、世も落ち着いてくるだろう……」
 雲林院松軒は遠い目をした。
 果たして本当に、そのような世は来るだろうか? 


「おとうちゃん」
 小屋の入口にひょっこりと、さっきの少年が顔を出した。
「おう。もうちょいと待ってくれよ」
 偽の松軒が手を振った。昔、旅芸人の一員だった女との間に出来た子である。
「……その子が大きくなるまでには、世の中はもう少しよくなっておるだろう……」
 雲林院松軒は呟くように言った。その言葉は誰も聞いていなかった。
「時にそのムサシとかいう青年だが、居直ったそうだな?」
 偽の松軒はうんざりした顔で頭をぼりぼり掻いた。
「えぇそりゃもう! 開き直る、居直る、甘える言い逃れる言い訳する、殺しの目つきをした瞬間もあってゾッとしましたよ! あんな図太い野郎は生まれてこの方見たことありませんや!」
「そうか……。ふふ、面白い……」
「なんです?」
「いや、なんでもない」
 雲林院松軒は言い残して、小屋を出た。

 追い詰められた時でも「勝ち」にしがみつく図太い神経、不遜な態度、執着心、そして“伝説の剣豪”に二週間もつきまとう執念。
 そのような奴ほど、長じてから大成するものだ。
 ミヤモトムサシか。
 面白そうな男だ。一度会ってみたかった。
 案外将来、大物になるやもしれん──
 そう思う松軒なのであった。 



………………………………………………………………




塚原卜伝 (1571年 没)

宮本武蔵 (1584年生まれ)





「打ちかかってきた武蔵の木刀を、卜伝は木の蓋で止めた」── 

 決して交わることがないはずの、剣豪ふたりの有名な逸話である。
 それが現代にまで根強く残っているのには、実はこのような背景があったのである。





【完】


サポートをしていただくと、ゾウのごはんがすこし増えます。