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~エピローグ ないし108つ目のジョー・レアルの生首~


【前回】


 すべては灰となり、何もかもが終わったはずだった。
 だが、そうはならなかった。



 俺は血まみれの身体もろくに清めないまま、燃える「ヘンリーズ」の前からとにかく逃げた。ダラスが馬に乗って行った方向、ウエストが走っていったであろう方向とは別の方角に馬を走らせて逃げた。
 ダラスともウエストとも、もう会いたくなかった。ダラスは右手があんなザマになったし、ウエストはあのカンシャクがあるけども、きっとそれぞれにうまくやるだろう、そう願った。
 俺はジョーを殺した。そして首を切り落として炎の中にブチこんだ。呪いだか魔術だか知らないが、それをかけた奴をやっちまって首を落としたからにはもうこれで終わりだ、そう思っていた。


 数日後、トゥコがお上品な店で聞いてきた通り、ジョー・レアルの懸賞金は15万ドルになった。複数の州と銀行、それになんとかいう組織の連名だった。強盗、傷害、および百人超の殺害が罪状。「生死を問わず」。そして、「首のみでも可」
 おそらくそのなんとかいう組織こそ、裏金を盗まれてメンツを潰された奴らなのだろう。大物のお尋ね者の5倍はする賞金も、こいつらの指図によるものに違いない。
 ウエストの描いた似顔絵よりも数段上等な絵が、町や村、バーやサルーンとは言わずあちこちに貼られまくった。一度など荒野にある岩にまで貼ってあった。こんな場所にまで貼って、どうするのだろう?
 そのなんとかいう組織は、相当に執拗で、ねちっこい奴ららしい。まったく、俺たちがあのカネに手をつけなくてよかった。世の中には怖い奴らがいるものだ。



 数週後、ある酒場で、俺は「ヘンリーズ」が燃え尽きた一件のことを耳にした。
 スーツ姿で太った男がビールを飲みながら、同じようにスーツ姿で太っていてメガネをかけてビールを飲んでいる男に大声で語りかけていた。ぼってりした横長のカバンを持っていたから、二人とも酒好きの医者だろう。

「しかしあの、『ヘンリーズ』が焼けた一件ね、私も現場に立ち会いましてねぇ。ありゃあ一体、何だったのか……」
「ははぁ、アナタ、あの現場にね……。ジョーに賞金をかけた強盗たちが内輪揉めを起こした、ってアレですよね?」

 なるほど、そういう話になっているのか。

「いったいああいう輩は、何を考えておるのかわかりませんな……恐ろしいことです……店の外にひとつ、野次馬で来たらしい女性の死体が倒れていて、さらには店の中にはねぇ、黒焦げになった死体がいくつもありまして……」

 ここで、少なからず緊張した。背中に汗がつたう。
 もしもここで、死体が“3つ”だったとか、“首のない死体”に触れられなかったら。
 その時はまた、ジョーに怯えなければならなくなる。ジョー・レアルを人間でもなく幽霊でもなく、怪物として恐れなければならなくなる。
 暗い店の中でゆらゆら揺れるように佇んでいたジョーの姿が頭に浮かんだ。

「……4体あったうちのひとつには、何故か首がなくってね……。みんなこう、燃えて胎児みたいに丸まって……」
「よしてくださいよ……気味の悪い……」

 俺は静かに息をついた。確かに、間違いなく、ジョーは死んだのだ。

「しかし、もっと気味の悪い話もありますよ……。燃えた廃墟の中にはね、人の首のようなものが100以上あったんです」
「うわぁ、それは……何なんです……?」
「それがねぇ、みんなすっかり焼けてしまって、何が何だかわからないんですよ。店がまるごと、激しく燃えてしまいましてね。その丸いものもほとんど形を失ってました。人の首のようだ、ということはわかるんですが」
「本当に首なのかどうかはっきりしない、と」
「そういうことですな」

 俺は真っ黒になって崩れた無数の首を想像して、身震いした。



「しかしそれはそうと、肝心のジョー・レアルはどこに行ってしまったんでしょうなぁ……」
「州もまぁ、15万ドルとは張り込んだものですよ。私も欲しいもんです……」
 どうやら、ジョー・レアルはまだどこかで生きていることになっているようだった。
 当然そうなる。墓場での襲撃も、「ヘンリーズ」に来たことも、俺に殺されたことも、全部知っているのは俺だけなのだ。
 俺はそのことに思い至って苦笑した。海千山千のならず者やら農夫やら根なし草どもが、この西部をうろつき回ることだろう。もう存在しない男を追っかけて。


 俺はほぼ絶えず移動し続けた。カネはほとんどなかったが、簡単な追い剥ぎや強盗でどうにかしていった。
 カンザスを起点にぐるりと左に回るみたいに、ネブラスカからサウスダコタ、モンタナを経てワイオミング。「ヘンリーズ」が焼けてから2ヶ月が経っていた。
 どこを巡ってもジョー・レアルの人相書はべたべた貼ってあった。


 ──そこで、妙な話を聞いた。
 これはあくまで噂だ。本当のことかどうかわからない。バーで酔っている不精髭の男が相席になった野郎にぼつぼつ呟いていた話だ。実際のところはわからない。そう、確かではない。


 ジョー・レアルが、ワイオミングの中くらいの町に現れたという。


 ジョーはひどく疲れていて、汗まみれだったらしい。そこの銀行にカネをおろしに来て、銀行員がアッ、と気づいた。
 ジョー・レアルは逃げ出そうとしたが、足がもつれて町の真ん中でぶっ倒れたという。
 義賊から悪党になった極悪非道の人でなし。俺たちが流したウソはまだピンピン生きていたし、しかも15万ドルの懸賞金がその首についている。


「……町の皆でよってたかってボコボコと叩きのめしたがね。バカな奴らが何人か、でっかいハンマーやクワやらでやっつけたせいで、ジョーはひどいケガを負ったそうだよ。
 ジョーもよほど追い詰められてたんだろう、『違う、違う』と叫びながらもほとんど抵抗できずに、ケガのせいで死にかけていた。いや、もう死ぬのも時間の問題って傷だった。
 ただ町のもんにゃあ、生きてようが死んでようがかまわなかったらしいがね。ほれ、手配書にはお決まりの、『生死を問わず』と書いてあったわけだし。

 ところが、不思議なのはそこからさ。

 虫の息のジョーを改めて眺めてみるってぇと、体型がまるで違うんだな。
 西部を股にかけた、あの颯爽とした体型じゃあなかった。でっぶりと太って、走るのも難儀しそうだったそうだ。おまけにあんた、右手に包帯を巻いている。手が潰れているらしかった。
 おかしいなぁ、ジョー・レアルがこんな体型のはずは、と奇妙に思った瞬間だよ。こりゃあ本当の話なんだが……。
 
 さっきまでジョー・レアルの顔だった顔がだよ、スルスルスルッ……と、太った中年の男の顔になっちまった。

 禿げ上がってメガネをかけて髭を生やして……ジョーとはまるで逆の顔さ! 信じられるか? 俺には信じられないが、これは本当に起きた話らしい……」



 俺は弾かれたようにカウンター席から立ち上がった。

 そんなバカなことがあるはずがなかった。あくまで噂だ。本当のことかどうかわからない。いや、酔っぱらいの戯言だろう。
 俺はむくむくと大きくなる不安を押し込めて、その店を急いで出た。



 逃走するように俺はコロラドに入り、ニューメキシコからアリゾナに入った。「ヘンリーズ」が焼けてから4ヶ月。どこに行ったって「お尋ね者 ジョー・レアル 150000 生死を問わず 首のみでも可」の貼り紙を見かけた。悪い奴らの手は長く、足も遠くまで伸びるらしかった。


 …………その話を聞いたのはアリゾナのサルーンだった。一杯やってから2階へ上がって寝ようと強めのやつを飲んでいた時、あっちの席の炭鉱夫らしきがっしりした野郎が仲間に語っている太い声が耳に入った。
「ジョー・レアル」という単語が混ざっていたから、聞き流せなかった。



 知ってるだろう、ジョー・レアルのことは。奴のことで、隣の州の小さな村でな、えらい騒ぎになったのを知ってるかい?

 ──いや、知らねぇ。何が起きたんだい?

 それがなんとも妙な、気味の悪い話でな、まぁ聞いてくれよ…………
 隣の州のどこだか言う村でな、ある野郎が、人目を避けるように水呑場までしゃがんでコソコソやってきたそうだ。人のじゃねぇ、馬の水呑場さ。
 そこにゃあちょうど、暇をもて余した保安官が寄りかかってぼんやりしていた。平和な村なんだろうな。そこに現れたのがその野郎さ。
 そいつはな、頭からすっぽり、ほら、野菜なんぞを詰めておく布袋があるだろう、あれを被っていたそうだ。
 こりゃあおかしな奴だろう? 保安官が「何だお前?」と尋ねたら、なんにも答えずいきなり逃げ出した、ってんだ。
 そいつはウサギが逃げるようにおそろしく素早かったが、保安官はどうにか、頭につけた袋だけは掴んで、そいつを脱がした。
 一瞬のうちに10歩も動いたその男が、野菜袋をとられたことに気がついたのか保安官の方を振り返ると……
 なんてこった、あの15万ドルの極悪人、ジョー・レアルじゃあねぇか。

 ──おいほんとうかよ! それでどうなった?

 保安官は焦ったね、銃を出すのに手間取っていたら、ジョーのパンチを顔面に喰らっちまった。
 だがラッキーなことにな、そのパンチが当たる直前に、撃鉄は起こしてあった。保安官の銃は殴られたと同時にバン、とぶっ放されてな、ジョーの足に当たったらしい。
 村の奴らはその音に驚くよな。それだからドアや窓から覗いてみたら、驚いたわけだな。
 保安官は鼻を潰されて倒れてる。その近くで、あのジョーが足を引きずって逃げようとしている。
 小さな平和な村にもジョーのあの貼り紙──ほら、15万ドル、首でも可、さ──は貼ってあったんだな。みんな斧だの薪だのを持って家から出てきた。
 最初は遠巻きからジョーを囲むだけだったんだが、誰かがかかっていったらもうあっという間だった。
 向こうさんは手負いで、たぶんくたくたに逃げ疲れていたんだろうな。少しは抵抗したらしいが…………
 しばらくした後で村人の目の前にあったのは、ズタズタのボロボロになった、ジョー・レアルの死体だった。
 でもな、気味の悪いのはここからなんだな……

 ──何だよ、気をもませるな、早く喋れ

 そうかい、悪いな。それでもってな、村人が息を切らして死体を見つめてると、変なことに気づいたんだ。
 ジョーの死体の、片手は手の甲が表になってて、もう片方は手の平が表になってた。コイン2枚の裏表みたいにな。
 その手を見ると、手の甲は真っ黒で、手の平は白い、ってんだ。はてな、こりゃあまるっきり黒人の手じゃねぇか? といぶかしがってたらな、
 さっきまでジョー・レアルの顔だった顔がな、音もなくグニャッと、若い黒人の顔に──


 俺は背中に冷や水を浴びせられたように立ち上がった。
 一刻も早くここから立ち去ろうと酒代の小銭を出そうとした。手が震えてポケットの中をうまく探れない。その間にも、炭鉱夫の男の語りはいやでも耳に入ってきた。


 ──そんなバカな話があるかよ! 冗談なしだぜ?

 いやいや、本当なんだ。本当なんだよ。その場にいたって野郎に聞いたから間違いないんだ。
 俺だって頭から信じたわけじゃない。もちろん信じられなかったよ。
 俺はそいつにな、よく似た黒人とジョーを見間違えたんじゃないのか? って尋ねたんだ。
 そいつは「いや、そんなことじゃない、間違いなしに顔がグニャッと変わったんだ」と言うんだ。 
 ただまあ、皆でよってたかって殴る蹴るしていたジョーが、妙なことを叫んでいたのだけは腑に落ちないとも言うんだな──
 


 俺は酒代をカウンターに投げ捨ててほとんど走るようにドアに向かった。だがそのためにはそいつらの、話している炭鉱夫どもの脇をつっ切らなければならない。
 俺は心を閉ざして、何が聞こえても右から左に流してしまおうと決めて、そいつらの横を駆け抜けた。



「俺は“西”だ」って叫んでいたらしいんだよ、ジョーは。
「俺はジョーじゃない、“ウエスト”だ、“ウエスト”だ」って。 
 必死に、泣きながら──



 ドアを押し開けると強く冷たい夜風が頬を叩いた。その頬をただ一滴だけ、あたたかい水が流れ落ちるのを感じた。
 金は払ってあったがそこに泊まるなんて気にはなれなかった。馬屋に回り、綱をほどき、馬に乗って、俺は夜の荒野へと躍り出た。


 虚しさがよぎった後で、俺の胸の内に巨大な恐怖が膨れ上がった。


 どうなっているのかはわからないが、何が起きているのかだけはよくわかった。
 そしてそれは近いうちに、俺の身にも起こる。
 全身が震えて仕方なかった。


 俺は宿に泊まるのをやめた。いつ「そうなる」のかわからなかったからだ。
 いつなのかもわからなければ、どんな具合に「そうなる」のかもわからない。少しずつそうなっていくのか、一瞬でそうなるのか。それすらもわからない。
 食料を手に入れることすら難しくなった。町の店でパンでも手に取っているうちにスルッと、グニャッと変わってしまったらおしまいだ。
 強盗や追い剥ぎをして金品を奪っても、替えてくれる場所にすら出向けない。
 町にすら寄れないということは、どこにも寄れないということだ。馬にやる餌にすら事欠くありさまだった。
 気休めかもしれないが俺は髭を伸ばしっぱなしにし、農家や牧場の軒先から食料を奪うケチな毎日を送るようになった。
 夫婦の住む農家から小さな鏡を1枚くすねた。俺はふと心配になったり、得体の知れない不安がよぎったりするとすぐにその鏡を取り出して顔を見た。


 いつ見ても、俺の顔は俺の顔のままだった。
 髭が伸び、髪がぼさぼさになり、目の回りにくっきり疲労が浮かんだ、死人のような俺の顔が鏡に写っていた。


 太陽が昇り、太陽が沈む。懐中時計が12から12まで何周もした。それを何度繰り返したかわからない。 
 炭鉱夫の語る話を聞いたあの日からどれだけ経ったのか、俺にはもはやわからなくなっていた。



 ──思えば、気の迷いというやつだったのかもしれない。
 飢えて痩せ細り、もう歩けなくなった馬を捨てて行かざるを得なくなったことで、俺はヤケを通りすぎて、気が滅入っていた。

 そして、こう思った。

 これだけ時間が経ってもどうもならないということは、俺だけが、呪いだか魔法だかから逃げおおせたのではないか?
 2人はあの店から逃げちまったからああなった。だが俺は元凶に立ち向かい、勝った。だから今も元のままでいるんじゃないか?
 そうだ。きっとそうだ。そうだとも。俺はジョーを殺して、首を切ってやったじゃあないか。呪いも魔法もあれで断ち切られたに違いない──

 へ、へへ、と俺の口から笑いが洩れた。なんだ、ちくしょう、取り越し苦労ってやつだったんじゃねぇか。へへへ、馬鹿馬鹿しい心配もしたもんだ──
 そう思っていると、考えなしに足を向けていた先に町が見えてきた。
 懐に手を入れた。しばらくそのままになっていてクシャクシャになった紙幣が何枚も出てきた。
 メシ代と、それに宿泊代を払っても余裕がある。そうだ、この髭も綺麗に剃っちまおう。髪は明日でいい。
 この邪魔っけな髭を剃り、メシを喰い、宿でゆっくり眠る。そして明日から心機一転、また強盗と追い剥ぎの毎日に戻る──


 俺は町の中に入った。俺を奇異な目で見る人間が大勢いたので胸が苦しくなりまた鏡を覗いたが、そこには汚いツラの俺がいるだけだった。つまり奴らの目は、砂と埃で汚れきった宿無しの男を見る目だったのだ。
 ほら、なんともない。
 俺は床屋のドアをくぐった。店の親父は俺の姿を見てギョッとしたから、俺はそこにある大きな鏡を見てみた。
 そこにはひどくみすぼらしく、汚く、みじめな髭の男が立っている。
 それは俺だった。
「あっはっはっは!」大笑いした。ほら、俺は俺のままじゃないか。
「髭を剃ってくれ!」俺は跳ねるように椅子に座った。「このモジャモジャしたのを綺麗さっぱり落としてくれ!」
 店主は俺の浮わついた態度に及び腰になりながらも、見事に仕事をこなしてくれた。
 髭を剃ってもらった後で鏡を見ると、痩せ衰えてはいるもののそこには元の俺がいた。
 ご機嫌になって金を払い店を出て、二軒隣の食堂に入った。中にいた幾人かの客が俺の顔をちらりと見たが興味もなさそうに一瞥しただけだった。ほら、大丈夫だ。
 豆と野菜の煮たのと焼いた肉とパンを食べた。酒も一杯だけ注文した。どれもこれもうまいなんてもんじゃなかった。ちゃんとしたメシはいつぶりだろう? 酒は胃の腑に染みるようによく効いた。
 そこも出て、床屋の向かいにある宿をとった。二階の、女が使うような、小さな風呂と洗面台が隅に備え付けてある部屋を奮発した。
 風呂に入って砂と垢を落とした。石鹸のいい香りが鼻から入って脳ミソまで広がった。ついでに服も洗った。すると浴槽の湯が真っ黒になった。先に風呂に浸かってよかった! と俺はまた大笑いした。
 ベッドはぎしぎしときしむ代物だったが、マットの柔らかさは俺には天国にも思えた。
 これが、自由ってやつだ。
 にやつきながら天井を見ていたが、俺はいつしか眠りに落ちていた。


 ──ひどくいやな夢を見ていた。
 一本の物語じゃなく、ましてや話が飛び飛びになるでもない、ただの断片がぱしぱし音を立てて浮かんでは消えるような夢だった。 
 最後の最後に見えた2つの光景で胸がぐうっと詰まって、俺はベッドから跳ね起きた。
 朝の光が窓から差し込んでいる。顔も背中も胸も、汗まみれだった。

 俺が跳ね起きる前に見たのは、人だかりの真ん中で血まみれで倒れて死んでいるダラス。
 そして別の人だかりの真ん中で血まみれで倒れているウエストだった。

 実際に見たわけじゃないのにやけに本物っぽい光景だった。俺は両手で汗まみれになった顔をぬぐった。



 ──手が、知らない男の鼻と頬をぬぐった気がした。



 俺は枕元にあった小さな鏡を取り上げて顔を見た。
 鏡は震える俺の手から床に落ちて粉々に割れた。
 起き上がって浴槽のそばの洗面台についた大きな鏡を覗いた。
 

 そこに写っていたのは、俺の顔ではなかった。


 あの顎だった。
 あの輪郭だった。
 パッチリした目に、黒い眉毛。すらっと伸びた鼻、髪は短く切られ、肌は鮮やかな褐色──


 鏡に写っていたのは、ジョー・レアルの顔だった。


 俺は思わず鏡を叩き割った。破片が拳に刺さったが、その痛みで我に返ることはできなかった。
 砕けたいくつもの破片の中に、ジョー・レアルがいた。ジョー・レアルの顔、ジョー・レアルの顔、ジョー・レアルの顔……
 
 ひどいめまいがして、尻餅をついた。息の仕方がわからない。呼吸が苦しい。空気が足りない。
 まともに回らなくなった頭の隅っこで、あの悪夢の最後のふた場面が甦った。

 ふたりとも、死んですぐに、元の顔に戻ったという。
 だから、妙な事件として、噂になっている。
 ふたりの死体は、名もない墓に葬られただろう。
 だが、その姿は、いや、顔は、ちゃんと元に戻った。


 じゃあ、俺は──

 俺の顔は──


 俺は弾かれたように起き上がった。
 干しておいた服を急いで着た。湿って感じたがそれが生乾きのせいなのか俺の全身から出る冷や汗のせいなのかはわからなかった。
 いきなり悪寒が走って胃がせりあがり、俺は嘔吐した。昨晩俺を幸せにしたベッドが一瞬にして汚れた。
 ベッドの金属の枠に手を置いてよりかかって息を整えた。
 どう考えたって、この宿からまともに出ることはできない──ジョー・レアルは、まだ生きていることになっているのだ。
 ブーツを履き、ガンベルトを巻いて、窓を開ける。屋根は急な角度だが、どうにか降りられそうだ。
 窓から屋根へ、慎重に降りたはずだった。しかし両足を出した途端にするり、と滑った。
 俺の身体は宙を舞い、地べたに腹から叩きつけられた。
 
 早朝の町に、鳥が鳴いていた。
 一言二言うめいてから膝を立て、四つん這いになってから立ち上がった。

 顔を上げると、目の前には床屋の親父がいた。箒を持って、これから店の前を掃こうと出てきたところらしかった。
 親父は最初、男が屋根から落ちてきたことに目を剥いて驚いていたが、みるみるうちにその驚きは違う色合いに塗りつぶされていった。


「あんた──あんたもしかして──」


 俺は親父を黙らせようと腰の銃に手をやった。ジョーを殺った時のように「早撃ち」の手が勝手に動いていた。
 だが、そこに銃の感触はなかった。
 馬鹿な、と思って腰を見た。ベルトはあり、ホルスターもあったが、ボタンが外れている。右を見やった。5歩ほど離れた場所に俺の銃が落ちていた。屋根から落下した衝撃で飛んだに違いなかった。
 俺が銃を拾おうと右を向いた瞬間だった。


「おぉい!! ジョーがいたぞ!!
 お尋ね者のジョー・レアルだ!!」


 親父はそう叫んだ。


 右の食堂から左の建物から、そして真後ろの宿屋から、ガタガタと人の動く音がした。


 右手の建物から幾人かの気配がしたので、俺は銃も拾えないまま左に走った。走って、走って、走りまくった。後ろで別の誰かの怒声が聞こえたが振り向かずに走った。建物の窓やドアから俺を覗く姿が何人何十人と見えたが目もくれず走った。町を出ても走り続けた。草も木もろくに生えていない荒野をただ走り続けた。



 ──その荒野のど真ん中で、俺は疲れ果てて、前のめりに倒れこんだ。
 朝の光が鋭く俺の身体を刺している。ひどく喉が渇いていた。荒い息で地面が浅くえぐれた。ざらついた土の匂いがした。


 逃げられない──そう思った。


 ジョーが現れたという話は洪水のようにこの辺りの町から町、村から村、家から家へと広まるだろう。
 義賊から人でなしになった大悪党、そして15万ドルの賞金首。それを狙って、ならず者から農家の年寄りまで、銃を携えクワやハンマーを握り、俺を探しに来るだろう。
 日を追うごとに、いや半日ごと、いや一時間ごとに、俺の逃げ場はなくなっていくだろう。
 起き上がってさらに逃げようとも、このまま横たわっていても、行き着く先は結局ふたつのうちどちらかだ。飢えて渇いて死ぬか、見つかって殺されて死ぬか。

 目だけを動かすと、枯れ木が立っているのが目に入った。そこには紙が一枚、貼ってあった。


お尋ね者
ジョー・レアル
150000 
生死を問わず
首のみでも可


 そしてその文字の上には、「俺の顔」が描いてあった。


「…………クソッタレ…………」
 俺は呟いた。だがその声はもう、俺の元の声ではなかった。


 手配書には「生死を問わず」と書いてはあるが、俺は生きて引き渡されることはないだろう。
 死んでも、俺の顔は元には戻らないだろう。
 そして俺を殺した奴、あるいは死体を見つけた奴は、おそらく俺の死体をそのまま持っていくことはしないだろう。「そういうことになっている」のだ。
 そいつは刃物を取り出して、俺の髪を掴み、そして──


 不確かなことだらけだったが、一つだけ確かなことがあった。
 本物のジョー・レアルの首を落とした奴が、最後のジョー・レアルになる。
 それは──俺だ。
 つまり、そういうことだった。



 ジョー・レアルの108つ目の生首は、俺自身の首になるに違いなかった。
 







【完】








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