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【怪奇短編小説】 レット・イット・ビー


 母が死んでから、父はひどく無口になった。
 大学の仕事も辞めてしまい、お手伝いさんたちにも暇を出した。毎日書斎に閉じこもって分厚い本をひっくり返している。かと思えば庭に出て土を調べたり、買ってきた薬品や肥料のようなものを混ぜてみたりしている。
 わたしが朝に女学校に行く時も、授業とその後のお稽古が終わって帰ってきた時も、父はひとりきりの広い屋敷でそのような謎めいた行動を続けていた。

 怖いと思った。

 怪しげな作業をしている時、父はいつもレコードをかけていた。ビートルズの最後のアルバム『Let it be』だ。
「わたしたち二人」という意味の「Two of us」からはじまり、「戻ってきてくれ」と歌う「Get back」で終わるこのアルバムを、父は母をなくしてからずっと聴き続けている。いや、流し続けていると言った方が正確であろうか。 
 夜中、ひとりきりでベッドにいると、あのピアノの導入部がうっすらと聞こえてくることがあった。表題曲の「Let it be」だ。

 
 私がひどくつらい時
 母なるマリアがやって来て
 知恵ある言葉をかけてくれる
 「Let it be」と


 ……「Let it be」をどう訳すか、というのは長年の議論の的であるらしい。翻訳とは難しいものだ。
「あるがままに」だとか、「そのままに」。あるいは「流れのままに」と訳してもいい。
 わたしとしては最初の翻訳である、

「なすがままに」

 が一番しっくりくる。

 美しい曲だと思う。飽きが来ない。ただ今の父がこの曲を聴いていることに、言葉にしがたい不安を感じるのも事実だった。
 わたしが眠っている枕元に「母なるマリア」と称する得体の知れない真っ黒いものがやって来て、耳元で言葉をささやく。そんな悪夢を見てじっとりと汗をかいて目覚めたことは、一度や二度ではなかった。


 父が、がちゃがちゃとした道具を買った。御用聞きが運んできたのである。どうやら鎌や鍬などのようだった。
 使用人を雇ってやらせればいいものを、父はそれらの道具を使って庭の隅を掘る。開墾をしはじめたのである。
 今まで着たこともない、汚れてもいいような服装で一心不乱に鎌を振るって草を刈る。先がにぶく光る鍬を振り上げてざくり、と土に突き立てる。そして先日まで触っていた農薬だか肥料だかを、土に撒いていく。
 屋敷の中にレコードが流れなくなったぶん、父の口の中から小さく小さく、あの曲が聞こえてくるようになった。


 Let it be…… Let it be…… Let it be…… Let it be……
 There will be an answer…… let it be……

 それが答えになるだろう…… 「なすがままに」……

 わたしはおそろしくなった。
 父は何をしようというのだろう?


 それがわかったのは、生命の満ちる夏が終わり、木から葉が落ちていく秋のことだった。
 あの日のことは忘れようとて忘れられない!


 家に帰りづらく長引きがちだったお稽古から戻ると、父は久しぶりに作業着ではなくスーツ姿でわたしを待っていた。
「おかえり。待っていたよ」
 父はおだやかな微笑をたたえて言った。
「紹介したい方がいるんだ」

 わたしは背中に水を浴びせられたようにゾッとした。こんな言葉から紹介される人間と言えば、新しい恋人か、母親に決まっている!
 しかし父はあれから、わたし以外の誰とも会っていないのだ。屋敷にこもり本を漁り、薬品をいじって、庭を掘り返してばかりの毎日! 
 そんな日々に、女の入り込む隙間などあるはずがないのだ。
 わたしの頭の中に、母を失ってから今日に至るまでの父の姿がぐるぐると回った。
 やはり女の影はなかった。どこにもだ。
「どうしたんだね。さぁ、おいで……」
 わたしは屋敷の奥へと導かれた。夢遊病者のような足どりだった。
 気づけば屋敷のどこからか、あの曲がかすかに、かすかに聴こえてくる…… Let it be……Let it be……と繰り返すあの曲……

 電気のついていない台所の、大きなテーブルの前まで連れていかれた。
 くろぐろとした、ひどく大きなものがテーブルの上に乗せてあるのが見えた。だが暗くて、それが何であるのかはわからない。
 真っ暗な中、父はスイッチのある方へと進みながら言った。

「一から勉強して育てるというのは大変だったよ。農業というのは本当に大変な仕事なのだね。
 しかし努力の甲斐あって、これだけ……これほどに大きなものになってくれた!」
 父は台所の電気をつけた。

 ああ! テーブルの上にあったそれは! 
 一抱えもあるほどに巨大に成長した、ナスだった!

「ほら、ご挨拶なさい」
 父はわたしのそばに来て言った。
「これが新しいお母さんだよ」


「な…………」
 わたしは思わず呟いていた。


「ナスがママに………………」






【おわり】


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