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はじめてのアルバイト

1.九州から関西へ

私の生まれは坂と階段の町、そして美しい港がある長崎である。生まれてから高校までの18年間、この異国情緒あふれる故郷で過ごした。

小さい頃から運動が大好きだった私は、中・高は部活に明け暮れ、母の手伝いもろくすっぽせず、ましてアルバイトなども大学に入るまでしたことがなかった。

幼い頃から漠然と日本のイタリアとも言われる関西に興味があり、どうしても行ってみたかった。

日本中のおもしろ人間が、その土地で次々に生み出されていると思っていたからだと思う。

小学校の卒業アルバムだか文集だかに「関西に行って国際結婚をしたい。」と、寿司屋でカレーが食べたいと言っている客のような夢を語っていた。

中学時代は自分でいうのもなんだが、それなりの成績の人間だった。ただ、勉強が好きな訳ではなかったのに、高校も陸上を続けたいが為に進学校を受験し、何とか勉学も両立しながら3年間を過ごすことになった。

これ以上勉強などしない!大学など行くものかと思っていた私は、三者面談で「海外に行きたいから受験しない」とギリギリまで志望校を出さず、かといって、真面目に留学先を探すことも無かったので、

「あなただけなんですよね、そんな夢みたいなこと言ってるの。」

と担任がため息混じりで肩を落としていたのを覚えている。
どストレートなセリフだが、"おすぎ"みたいな先生で私は大好きだった。
ただこの時ばかりは

"18歳の人間にこそ、夢みたいなことばっかり山ほど言わしてくれよ。"

とも思った。

そんな私が結局は大学進学をするわけだが、それは数学教師だった伯母の「視野を広げに行くと思って行けばいい。留学でもなんでも、それからできる。」という一言だったように思う。

一族のドンのような伯母で、受験年に長崎に立ち寄った際はよく数学を教えてくれた。姪っこだろうが教えている時によそ見をしたらビンタを食らわせるワイルドな伯母だったが、豪快で時々身勝手な彼女の話を聞くのが好きだった。

東京に帰ってからも

「一反木綿ほどの数学問題がFAXで送られて来たんだが、正気か?」

と連絡をくれたことを時々思い出して笑ってしまう。

FAX用紙を枯渇させるほど高校数学はわからなかった。
数学をしなくていいと踏んで文コースを選択受験したのにも関わらず、長期休暇の課題は圧倒的に数学だらけだった。

部活や大会を理由にするか、頭の良い友達に片っ端からノートを写させてもらうか、結構くそ真面目に何でもやる私も、山盛りの数学の課題だけはいかにちょろまかすかを常に考えていた。

話を戻す。

まぁ、そんなこんなでやっとこさ(関西の大学なら)受験をする気になり、かなり遅めのスタートを切るわけだが、そのツケは早めに回ってくる。

滑り止めに受けた大学にもしっかり滑る

という愚行を成し遂げた。

唯一、補足合格したよ!この学科、定員割れだけど来る?といった通知が来た短大は【仏教大学の英語学科】という、英語を習いながら座禅必修といった、ちょっと不思議な環境だった。

それに加えて、受験に同行してくれた母と交番で最寄りの宿泊地を訪ねるとラブホテルを案内されるほど、本当に何も無い場所だったので、そこへの入学はひとまず諦めることになった。

さぁ、残す道は。

2021年度を最後に廃止されたと聞くセンター試験。当時はこの結果のみで合否判断をしてくれるセンター利用という入試があった。

藁をもつかむ思いで、このセンター利用ができる関西の大学に願書を送った。

そこで引っかかった大学に、わーい!と両手を上げて入学を決めたはいいものの、学費が恐ろしく高額で、その後、両親の両脛もかじり倒してしまい、歩行不可能になるのでは?と思うほど大苦労をかける事態になろうとは思いもしなかった。

この事に関しては、一生をかけて御礼申し上げ奉る。父上、母上、本当にすみませんでした。どうもありがとうございました。あの日から今日に至るまで、私は元気に関西の地で過ごさせていただいております。

2.アルバイトを探す

18歳の私は、母と夜行バスで関西へ出発した。見送りに来てくれた父と姉に、大きな窓から手を振った。
バスが動き出すと同時に、姉が噴き出すように泣き始めたのを見て、私も号泣してしまったのを思い出す。

母と別れた後も、末っ子甘えん坊世間知らずの私はアパートに戻るまでの道すがら涙涙であったが、いつまでもメソメソしていられなかった。

家賃とべらぼう高額学費は両親に払ってもらえるが、生活費は自分で稼ぐという約束だった。
人生初のアルバイト。かといって気が急くと慎重にもなれないのが私の悪いところである。

"近いところがいい。"

この一択だった。
学校の段取りに慣れるとすぐにアルバイトを探し始めた。あっという間に徒歩で行ける距離に焼肉屋を見つけた。
すぐさま面接を受けにいった。

3.そういえば…


焼肉屋に合格し、人生初のアルバイトが始まる前にひとつ。

私は肉が苦手である。

今では子どもの手前、どの肉でもどうにか口にするが、はっきり言って、18歳までの人生で肉をまともに食べていない。焼肉屋に家族と行ってもサイドメニューの鬼とされていた私。
部位の名前なんぞ、知るよしもない。
そんなことも考えずに、挨拶だけは元気な怖いもの知らずの18歳。
入って早々、肉が嫌いなことを店長にカミングアウトすると、

「はぁ?そんなことある?美味い肉知らんからや!食わしたる!」

と、初日からまかないが肉のフルコースになるという事態になった。肉好きには羨ましがられる拷問である。

噛んでも噛んでも飲み込めない、唐揚げが給食に出たあの日、全部口に放り込んで吐き出しに行ったのを思い出した。(※良い子はマネしちゃだめですよ)

えずいているのをバレないように食べる、日々のまかない。見た目、食感と共に部位を覚える為のはずが、肉と私の心の距離はどんどん離れていった。

4.肉嫌いのなれの果て

人は好きだったので、常連さんと仲良くなったり、店長の小学生の娘(厨房でデカい包丁で肉を超格好よく切る係)と仲良くなるのは早かった。

ビックリするぐらい大人びた口調で、大学生の私と対等に話のできる小学生だった。うちに遊びに来て服をあげたりするほどの仲になった。

炭の処理の仕方や肉の部位、店長との接し方も彼女が教えてくれた。バリバリの関西弁とたくましい見た目。本物のじゃりン子チエに会えたと思った。

そんなじゃりン子チエことミニ女将の指導も虚しく、肉嫌いの私は大ミスを連発。
部位がわからん。マジで部位がわからん。えずきながら飲み込むまかないが、一本ずつ私のシナプスを切っていった。

客に馬刺しを焼かせた。

客に塩タンを生で食わせかけた。

そして、ある日、常連だという大家族が奥座敷へ通された。

一番奥に座っている岩みたいな爺さんの雰囲気、女性陣の雰囲気、
婿らしき兄ちゃんの雰囲気、
子どもの髪型。

全部ひっくるめてあちら側の方たちだろうと推測した。

心なしか普段は横柄気味の店長もヘコヘコしていた。

何とか部位も間違うことなく、肉たちを運べたと思う。絶対に失敗できない雰囲気を少しずつクリアしていくにつれて、私は集中力が切れていった。

途中、婿の兄ちゃんがタレをおかわりした。

「はい!ただいま!」

元気だけはある、集中力も切れぎれの18歳。いつもの通りにタレを皿に注ぎ、座敷へ運ぶ。

テーブルへ置く前に、まず膝をついた。

よろけた。

手に持ったお盆から、スローモーションで離れて行く皿。
タレ入れたてホヤホヤの皿。

皿の先に、兄ちゃんのモスグリーンの背広。

バッシャーーーーン。

終わった。さいなら。
なんか知らんけど、全部さいなら。

ハッと気づいた頃には慌てて拭き取ったり、平謝ったり、オロオロしまくっていた。
兄ちゃんは"かなわんなー"という顔をしながらも、「ええよええよ」と言ってくれていた。それでも何度も何度も謝りまくった。

すると、岩みたいな爺さんも優しく許してくれた。

と思った瞬間、店長が呼ばれ、
「まずはテメェが出て来やがれ!アルバイトだけに永遠謝らせてどないやこないや」的な事を言われていた。
言われていたと思うのだが、もうこの時点で私は白目を剥いていたし、詳細なセリフは恐怖のあまり抹消されている。

この一件で、私は焼肉屋スタッフとしての自信をみるみる消失した。すると、それを見兼ねたミニ女将が、ある日炭の処理を一緒にしている際にぼそっと話始めた。

「…店長に言いたいけど、言われへんことあるやろ?…しんどかったら、私が話したろか?…今までの人も見てきててわかんねん。」

もう、何とも言えない感情と、彼女の優しさに【への字口】になる18歳。
"一生頭上がらへんよミニ女将。"と思った。と同時に、こんな少女にそんな思いまでさせて、見透かされている自分がどうにもこうにも情けなくなった。

「ありがとう、自分で言うわ。」

もはや、何をどうしても格好悪かった。
初めてのアルバイトに、苦手な食べ物かつ飲食店を選んだ己が招いた結果である。

ほどなくして私は焼肉屋を辞めてしまい、ミニ女将とはしばらくプライベートでも会っていたが、そのうちに連絡もしなくなっていった。ある日の学校帰り、その焼肉屋が閉店しているのに気がついた。

人生初めてのアルバイトは失敗の連続で、格好悪い自分の残像がたくさん見え隠れする場所であったが、閉店している間口を見ると一瞬にして寂しく、懐かしく、ありがたくなった。

今なら部位もちょっとわかるなぁ…。などと思いながらも、飲食店ではきっと二度と働かない。

またいつかあの場所を見に行ってみよう。

---おわり---

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