ハンナ・アレント『人間の条件』レジュメ

0. レジュメ(PDF)

※個人的な興味に基づいたレジュメであり、正確性・網羅性のあるものではありません。参考程度にお使いください。


❶哲学の基本書として

- 『人間の条件』(1958年)はハンナ・アレント(1906-1975)の主著の一つ。個人的にはソクラテスやニーチェやデカルトの著書同様、「哲学の基本書10冊」に入れてよい本であり、哲学を勉強しようと思ったのならなるべく早く手に取るべき本だと思う。レビューなどを見ると「難解」だという感想を見かけるし、確かに難解なパートもある。けれど文体・翻訳は平易で、かなりの部分は具体的で読みやすい。そしてその読みやすい部分だけでも「哲学の基本書」としての役割を果たすからだ。

- 重要に思えるのは、 ①プラトン・アリストテレスを含む古代ギリシャ ②デカルトの二つ―誰もが迷いなく「哲学の基本書10冊」に挙げそうな著作―の時代背景が語られていること。哲学を読む上で原書に当たることは当然大事だけれど、「書かれた当時の時代背景や価値観」はその本を読むだけでは伝わってこない。言い換えれば、「どのような背景がデカルトにこれを書かせたのか」を知ることができる。例えばデカルトの『方法序説』を読んだことがある人は、「デカルトは天動説と地動説とどちらを信じていた?」という問に答えられるだろうか。つまり、『人間の条件』はこうした哲学が問われた基盤、その時代の価値基準を明らかにしている。

 - 先取りして言えば、①ギリシャ時代のポイントは「人間と動物を区別することに行為の価値がある」ことであり、②デカルトのポイントは「ガリレオの望遠鏡」となる。その主張の正当性は本書を読んでもらうとして、読み終えた後はもはや「アレントを読まずにギリシャ哲学やデカルトを学ぶことはできない」とまで言いたくなる。どんな哲学の入門書よりも先に読むべき! というのは言い過ぎだけど、あえてそう言いきってしまいたくなる魅力がある。

❷書かれた時代とタイミング

- 「最も重要な哲学書は?」と問い、ランキングを作ろうとすれば論争は終わらないだろうが、一方で ①その著作が他の哲学者に多大な影響を与えた ②ある時代の区切り目に書かれた といった点からその重要性を評価することは可能だろう。プラトンは言うまでもないし、デカルト-カント-ヘーゲルなどは影響力も当然だが「近代への移行期」という点で②「時代の区切り目」の条件も満たす。

- この点から『人間の条件』を眺めてみると、この本は「第二次大戦後のアメリカ」で最初期に書かれた哲学書、という点で重要な意味を持つように思える。あるいは序文を参考に「人類が宇宙へと進出(1957年のスプートニク)した後で書かれた最初の哲学書」と言っても良い。

- 本書の書かれた「大戦後のアメリカ」は、私たちの生きる現代のスタンダード、その世界観にぐっと近い。高度な資本主義、自然科学とテクノロジーの主導、大量消費社会…『人間の条件』の序文は、人工衛星の話で始まり、工場のオートメーションへの言及、自然科学が社会や人間存在に与えるインパクトについて語っている。それはこれ以前の、ヨーロッパで書かれてきた哲学(例えば戦前ドイツで書かれたハイデガーの『存在と時間』)に比べて、圧倒的に「現代」の私たちの生きる世界と地続きである。つまり、「一番早い」現代の哲学の一つということだ。

- その一方で、これはまた「一番遅い」情報化社会以前の哲学、ともいえる。1958年という時期は絶妙なタイミングで、ここでアレントはまだコンピューターの個人化や、インターネットによる情報化の進んだ社会のイメージを抱いていない。あと10年も経てば―アラン・ケイがパソコンを開発し、その研究所に少年時代のジョブズとゲイツがやってくる。だが58年のアレントは、オートメーションを象徴として、依然工業的な世界のさらなる延長を未来に見ているように見える。この点に注目すれば、私たちはアレントが「予言できなかった」ことの答え合わせをしつつ考えることもできる。

❸すごくざっくりどんなことが書いてあるのか

- レジュメにも書いたが、そもそも『人間の条件』というタイトルがそれなりにミスリードかもしれな、そもそも 条件 condition の語が多義的だし、さらにそこから抱かされるイメージも全然違う。「人間である条件とは●●なのだ!」という話ではなく、「人間を主に構成する条件って、色々な組み合わせがあるし、しかも時代によって全然変わるよね。古代ギリシャと中世と近代と現代で全然違う。この違いと遷移について考えてみよう」と、こんなところか。そんなわけで、本書は「比較哲学史」のような側面を持っている。(下図はレジュメから抜粋)

キャプチャ

- 「思考様式や価値観の時代ごとの変化」という意味では、ニーチェの系譜学、フーコーのエピステーメー論のような方法に近いかもしれない。(最終章の主張はフーコーの『言葉と物』議論と重なってくる)

❹ 「それって何の役に立つんですか?」という問い

 - 以下では、自分が本書を読んだ際に特に色々と考えさせられたことについて3点ほど上げて考察してみる

- 「哲学って一体何の役に立つんですか?」という発話の99%(僕調べ)は実際は質問ではなく、「お前が重要とか言ってるその哲学とかいうもの、マジで社会に対して何の利益ももたらさないくせに、なんでそんな偉そうなんむかつく」というマウンティングに他ならないと思うのだけど(偏見ですか?)、ここにアレントの議論をぶつけてみると、「社会」「利益」という概念に注目してみたくなる。『人間の条件』で繰り返し言及されるのが、「仕事」や「労働」における「有益性」の概念の変化にある。

- 例えば古代ギリシャにおいては、「役に立つこと」とはイコール「生存のために必要で、生命によって強制される不自由」であり、つまりは「奴隷の行う軽蔑すべき作業」になる。ここでの「有益性」とは限定された目的(=生命維持)を前提にしている。

- これがマルクスの時代になると、国民国家と労働者が登場し、成員全体を含みこむ「社会」という価値共同体が生まれる。社会の維持へと奉仕するという目的が至上化し、ここでは「役に立つ」ことが強力な価値を帯びる。

 - そんなわけで『人間の条件』は、最初に挙げた「役に立つ?」という問いかけに対して二段階のメタ的な返答の言葉を与えてくれる。
 ❶「役に立つ」とは何を指しているんですか? 
 ❷「『役に立つ』ものがその時代において何を指すか」という概念は、どのように作られると思いますか? 
(なおこうした返答をして人間関係が悪化しても僕は責任を持ちません)

❺全ての近代哲学は科学技術の哲学である

- 以前ユク・ホイという現代の香港の哲学者のトークイベントを訪れた。中国と西欧の科学観の衝突や、ハイデガーのテクノロジー論の応用の話などがあり興味深かったのだけれど、そこで強烈に感じたことは、「もはや現代において、科学技術に関する哲学(「科学哲学」というジャンルとは別に)というのは一つの分野なのではなく、哲学そのものなんだ」という気付きだった。言い換えれば、現代において思想・哲学を志すとき、科学技術について触れないことの方が特殊になりつつあるのでは? という認識。

- しかし、『人間の条件』を読むと認識を改めさせられる。デカルト以降―つまり私たちが「哲学」と読んでいるものの大半は、常にその時代の科学技術の影響を強く受けていた。いや、それどころか全ての近代哲学は、科学技術に対するリアクションから出てきたのでは? という根本的な問いにまでぶち当たらされる。

- その端緒としてアレントが挙げるのが、ガリレオによる望遠鏡観測。『人間の条件』最終章の話題はこの話題が中心となる。また3-4章の「仕事-労働」の変化の背景には産業革命による技術革新があり、そこから生まれた功利主義がカント等の重要な哲学者に影響を与えていると語られる。

- こうなると、再び最初の「哲学の基本書として」の議論に戻り、例えばカントやヘーゲルを読む際に、「その時代にどんな科学理論が発見されたのか、どんな技術が発明されたのか」を調べずに著作を読むことが重要に思えてくる。そしてこの視点は、数十年、数百年前の哲学を現代の私たちにぐっと近づけてくれるように思う。

❻では、『人間の条件』を読み終えて、どう生きるべきか?

- 優れた哲学書が常にそうであるように、本書にも単純に「こう生きるべき」といった結論が語られているわけではない。哲学書は答えではなく―むしろ普段では思いもつかない強力な「問」を生む、そうした機能がある。

- とはいえ、アレントはいくつかの「懸念」を書き記している。一つは「労働」とその価値観を体現する「社会」において、「生命」とその持続が無根拠に最高善とされていること。「命が大事」という価値観を受け入れないひともいないと思うが、それが人間の行為規範の標準になっていることは本当に正当なのか? この議論はフーコーの生-権力やさらに現代のポリティカル・コレクトネスにもかかってきそう。

- もう一つは科学の進展において「オートメーション」が果たす役割への懸念。技術は異なるが、その問題意識は現代のAIやビッグデータの利用による人間の生活の変化へと繋がってくる。『人間の条件』の大半を占めるのは「労働」「仕事」の議論であることを考えれば、「数十年後にAIによって代替される職業」の研究が本書の延長にあることが見えてくる。労働のオートメーション化は、単に人間の仕事の領域が変わるというだけでなく、価値観―アレントの言うところの「人間の条件」それ自体を変化させる。アレントはそうした変化の中で、「活動」つまり異なる人間との共同行為―が変質し失われることを危惧している。

- けれど、現代社会その危惧に対しても、簡単に頷けるかどうかはかなり怪しい。ネットやソーシャルメディアは一種の「活動」かもしれないが、そこにいる「他者」はアレントの想定する個人=他者とは異なり、ある程度匿名だったり、クラスタ-群のようなものだったりで曖昧だ。いわゆる「動物化」(リオタール-コジェーヴあるいは東浩紀)とは、「活動」が減少することを示している。そして「それの何が悪いの?」という疑問に対して、何らかの道徳規範を持ち出さずに答えるのは難しい。

- アレントの思考を受け取って、現代をどう考えるか? まずは今も押し寄せるあらゆる科学-技術に対して、それが労働や活動の変化を通し、私たちの価値観をどう変えている-変えていくのか、を問うことが大事になる。例えば、「ホモ・デウス」と叫ぶのではなく「なぜそれが"デウス"への変化と感じられるのですか?」と問うこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?