ハイデガー『存在と時間』感想+レジュメ

0. レジュメ(PDF)

※個人的な興味に基づいたレジュメであり、正確性・網羅性のあるものではありません。参考程度にお使いください。

1. 『存在と時間』を2020年代に読む意味は?

- 発表はおよそ90年前! しかもナチ協力した過去が近年より明らかになって批判対象に! 今さら『存在と時間』を読む意味あるの? この問いにはまずシンプルに、「その後の思想に与えた影響が莫大なので、読んどくと便利!」ということ。実際読んでて「あー、これ読んどけばもっと分かってたなー」と思い浮かぶ本が多数。有名どころだと例えば『暇と退屈の倫理学』の後半部分がよりよく理解できる。

 2. 実存主義

- …とだけ書いてしまうと身も蓋も無くなってしまうので、個人的に21世紀現在においても重要と思える点は、『存在と時間』が「実存主義」をおそらくは最初に明確に打ち出したということ。ニーチェの方が早いが、それはこうした体系的な論ではなかった。そしてこの「実存主義」というのは、その後の100年、というかむしろ現在におけるまで人間観のスタンダードになっていると思う。

- ごく簡単に(僕の理解で)言えば、実存主義というのは「人間の本質は ❶精神でも ❷肉体でも ❸精神+肉体の混合物でもなく →❹その関係性や行為にある」とするもの。

- 一つの(僕自身の考案した)例を挙げる。ある二人の存在を考えよう。 ❶事故によって脳死状態になった人 ❷胎児。問:この二人は「人間の本質」を持っているか。もしそれが「精神」であれば、内的な部分はともかく、二人ともが外的にそれを表現する手段を持たない。もしそれが❷肉体であるとしたら、どちらも自発的には全く動けず、自分ひとりでは生存することができない。(ただし「未来」を導入すると、赤ん坊の方には「人間」になる可能性が生まれる)どちらにせよ、この二人は❶~❸の定義では「人間未満」の存在になる。ところが「❹実存=関係性」で捉えると、この二人はどちらも人間の本質を完全に満たす。脳死患者には彼の元を見舞う家族や友人がおり、介護や看護を行う人びとがおり、それを可能にする社会がある。赤ん坊には当然両親がおり、祖父母がおり、その誕生を待つ親戚知人友人たちがおり、産婦人科も母子手帳を発行する社会もある。二人は精神的な活動をしていないし、肉体も(ほとんど)動かしてないが、それでも関係性は生まれつづけて網の目のように広がっている。

- 現代において…だんだんビッグデータによる人間の数値的把握、みたいなことも進んでる気もするけれど、それでも私たちの人間観はこの「実存」がベースになっているのではないか。そうした考えは、もちろんハイデガーが最初に考えたわけではないが、1920年代にこんな形で提出されたんだな、と考えることは、現在の人間観を考えるときの土台になってくれると思う。


3. どんな本なのか? 存在論と倫理学

- 「どんな本か」を数百文字で伝えるのは不可能だし、レジュメも内容の1割も伝えていない。とはいえ繰り返し語られるのは、「本来性と非本来性」というキーワード。これを説明するためにもう一度「実存」に戻る。

- プラトンの「イデア論」(洞窟にうつる影絵の比喩)とか、デカルトの「我思う、故に我あり」とかで話しているうちは、存在論は倫理を持たない(プラトンの方は実は国家論だけど)。ところが「実存」というのは「生き方」の話なので、どう生きるか、つまり倫理学であることを免れなくなる。さもないと「何をやったって実存だ!」という話になり、生まれて死ぬまでNetflixを見続けて笑って泣いて死ぬ人生と、マハトマ・ガンジーの人生の実存は等価ということになり、(別にそれでも良い気はするけど)そうなると哲学も不毛になるので、何らかの分析を行おう、となる。

- デカルトが「我思う」つまり思考をベースにしたのに対し、ハイデガーはざっくりいえば「主観の特殊性」をベースにする。ふつう、私たちは周りにいる様々な人間を見て、それらによく似た自分を理解していく…とはいえ、主観ってのはどうしたって譲り渡せないし他人にはなれないしその痛みも感じられない、「存在」ってのを考えるとき、この主観を無視して「人間」とかってひとまとめにしていいのか? それが究極になるのが「死」であって、誰も誰かの代わりに死ぬことはできない(いや、銃弾から身をかばうという話ではなく、主観の喪失の話)でも死について考えるのはものすごいストレスで、いつもその死への不安を呼び起してると鬱になる。よってこれを忘れて楽になりたい。そこで主観をなるべく薄めて、友人たちの価値観の中に埋没していって、自分を「人間一般」みたいに捉えようとする。ここまでがいわばテンプレ。この世界観を軸にして、死に直面して固有性ベースで生きる生き方を「本来的」、「人間一般」として生きる在り方を「非本来的」と区分けしていく…というのが前半の「存在」パート。後半の「時間」パートではおおよそこの「死」に「未来」を結び付けて存在×時間論を展開していく。

4. 死の隠蔽

- ナチズムのイメージせいで、ハイデガーといえば死の権力、つまり警察権力とか戦争とか、「死」をコントロールできる力について語ってる…みたいなイメージがあったけど、むしろ「死は隠蔽されてる」という論が展開されてる。死が常に目の前にあると、上記のように人は「固有性」に目覚めやすい。というわけで、どんな社会だろうと死は隠蔽…というか「一般化」される、特殊なこととはみなさない、というのがハイデガーの論。これはむしろ、フーコーの生=権力とか、養老孟司の『死の壁』とか、伊藤計劃『ハーモニー』とかに近づきそうでイメージがひっくり返された

5. 不安

- この「死への直面」を導くのが「不安」なのだけど、これは芥川龍之介が自殺前に書いた「ばくぜんとした不安」という語そのもの、という気がする。ハイデガーはアウグスティヌス由来、つまりキリスト教の枠で考えてるのだけど、現代から見るとどうしても「うつ」と重ねたくなる。うつのときの「世界と関わりたくない気持ち」が、ハイデガーの「不安が人を『世界』から孤立させる」(彼の言う『世界』というのは「生きる上での私の意味体系」みたいなもの)という概念と重なってくる。

6. 道具論

- この本ってマジで存在論? となるくらい、前半部分では道具についての話が出てくる。とにかくハンマーがあり、釘が打たれ、それは椅子を作るためで、椅子に人が座るためで…みたいな話が繰り返される。これが面白く感じるのは、ハイデガーの時代から今に下って、こうした「道具」が圧倒的に「商品」に変わってしまったこと。ハイデガーはハンマーを使ってるときその存在を忘れてるのだ、と「イチローのバットが体の一部」みたいな話をするが、現代の私たちはそもそもハンマーをamazonで注文するところからはじめ、中華性のこの安いのでいいか、TRUSCOの製品の方が安心できる、等と最初の段階から「客観的な商品」として出会わざるを得ない。ハイデガーは当然この論を時代が変わっても普遍的なものとして書いてるのだけど、読者はこのギャップで躓くことになる。でもこれは思考のための良いギャップだと思う。

7. 哲学は個人を越える

- 個人的に、メタ的ではあるが『存在と時間』を読んで最も益があったと思えたことについて。ハイデガーといえば批判やスキャンダルを抜きにして語ることが出来ず、ハンナ・アーレントとの不倫関係は21世紀になってもノーベル賞作家クッツェーの小説(『モラルの話』)で揶揄されたり、ナチズムとの接近、反ユダヤ主義への接近を示す資料も改めて見つかり、ドイツでますます風当たりが強くなっているそうだ。『存在と時間』では、「死を前にした果断な決断」が本来的だと語られ、どうもこれがナチズムと親和性を持っていた、つまり「ナチズムという本来性に果断に身を投じよ」みたいな語りに結びついた…みたいな論を幾度か目にした気もする。

- ところが実際『存在と時間』を読んでみると、この「果断さ」はナチズムに適用できるわけがなく、どころか例えば反ナチスのデモに持ってくプラカードに書けるような内容として読める。ナチスへの迎合は非-本来的とされた「ひと das Man」の領域に属するし、例えば作家ミヒャエル・エンデが突撃隊への徴兵から脱走し、死の危険の中でミュンヘンでレジスタンス活動をするその行動は「果断さ」以外の何物でもない。

- そしてそれは、ハイデガーがどうにかして、カトリック的、キリスト教的なものを、哲学の、存在論のフォーマットで表現しようと苦心する中で生まれてきたものだと思える。そもそもこの「本来的-非本来的」というどう見ても倫理的な区分も、最初に持ち出したときは「いや、それは価値の違いではないんだ、道徳ではないんだ」と突っ張る。その後を読めばそれは倫理としてしか読めないのだけど、でもそれでは神学になるので、必死に突っ張ってるように見える。僕はそこにハイデガーの真摯さというか、「反ユダヤ・親ナチス」であるより以前に「哲学者」であるという顔が見える。そのため『存在と時間』はハイデガーの評論ではなく哲学だと思えるし、ハイデガー「だけ」の著書ではなく、フッサール、アリストテレスはじめ膨大な関係する項目との協働の中で生まれてきている。これはよくある「作品の価値は作者の倫理とは切り離すべき」という話をしているのではない。

8. 批判:愛と他者

- 読み終えて、批判するポイントとして最初に浮かんできたのが「愛」。というか『存在と時間』では他者がまるっと「共同存在」として自分の固有性を奪ってくヒール的役割になってるのだけど、家族など「愛する他者」はどうなのか。そりゃもちろん「死」を前にしたら他者だけど、自我とか固有性にグッと差し込んでくる存在では? そんなことを思ってたら、ハンナ・アーレントがやはり「ハイデガーの哲学には他者がない」と批判しているらしい。そんなわけで次の一冊としてアーレント『人間の条件』を読み始めましたが、既に最初の方で「死ではなく誕生こそが実存にとって大事」(大意)といったハイデガーを意識した文章を見つけたところ。

9. そして、もう一つの、ごく世俗的な利点

- 『存在と時間』数か月かけて必死に読みましたが、正直これまでの人生で最も難しい本でした。主に言い回し。フーコー『言葉と物』やロールズ『正義論』を越える難解さ。しかしそのおかげで、難しい本を読むテクニックと根性が相当身についた気がします。今ならどんな難しい本でも読めそうだ。もう何も怖くない。(…という言葉がフラグにならないことを祈る)

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