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『「知の技法」入門』

16000字 25~30分

第一章 「人文書」入門

 「知の技法」といいつつ、話としては「人文学」についての語りが展開していく。もちろん自然科学、社会科学は隣接領域として意識されているんだけど、哲学、思想、特に19世紀以降の思想体系についての記述が大半を占めている。そうした「人文書」を大澤はこう定義する。

 この世界に内在しつつ、世界に関わっている者にとって、まさに世界がどうであるかという『真理』を探求している書物

 しばらく後にこんな話も出てくる。文学と狭義の人文書の違いとして、文学は「特異性・単一性を追求」するものであるのに対し、人文書は「特異性から始まり普遍性へと向かう」もの、という話だ。

 否応なく、。僕自身が大学で学んだ文化人類学のことを思い出させる。文化人類学は、ある1つの文化、時には「個人」から出発して、それを「人類」という普遍の存在へと敷衍しようとする。僕の認識では、それこそが「科学」の手つきだった。小説はある特別な人物―それは「主人公」と定義される―が、まさに他の人々と特異に異なっていることを追求する。

 敷衍。それを可能にするものが「理論」ということになるだろう。「法則」と言い換えてもいい。学問というのは、さまざまでバラバラな事象を「法則」に沿って並べる。そして小説は―あるいは芸術も―その中から例外を見つけ出して、法則を混乱させてしまう。この点において、創作と科学は正反対の道をたどる。あるいは、それらは互いに補完しあっている。

 それでも、この本では最初の「特異性」が、学問よりも手前に来なければいけない、ということを高らかに宣言する。ミヒャエル・エンデ風に言えば、「意味が意義に優先する」ということだろうか。

 補足しよう。ここで言う「意義」とは、「利益」と言い換えることも出来る。良く口にされる言葉で言えば「役に立つ」か否か。以前、哲学の講義で言われたように、哲学が(あるいは人文学が)「根本を問い直す」ものであれば、それはこう問うべきだろう。「『役に立つ』とは何か」

 僕たちはそれを容易に予測出来る。個人的なもので言えば「成功」「利益」に他ならない。より一般的には「公共」が含意される。跳躍(あるいは超訳)するなら、それは「計量可能な幸福」だ。

「そうでなければならない。大学は公共のものだ。国民の血税。未来への投資。だから当然、評価が必要で、それは計量可能で無くてはならない。」

 そんなもの、知ったことか。

 この宣言はそう言ってるように思える。もちろん利益が無くていいとは言っていないが、優先されるべきは、ある一人の人間が、学問を通して世界と出会った時に感じる感動や激情や畏怖や恍惚だということだ。

 時よ止まれ お前は美しい

 あるいはそれは、「質」から「量」への挑戦状(それともラブレター)と言ってもいいかもしれない。人文学は、役に立たない。小説も、役に立たない。もし人間が、自分が、何かの、誰かの、社会の、役に立つためだけに生きていると考えているのだとしたら、それは全く不要である。

 小林にとってのニーチェ、大澤にとってのパスカルは、「情報」ではなかった。僕たちは読書するとき、「分かる」ことを重要視する。理解すること。咀嚼して、それによってゼミで議論を行う。レジュメを切り、論文を書く。だが、情報=知ではない。理解せず、誤解した読書体験にも関わらず、

 自分の孤独とつながる真正な世界が開けてある

 これはもう、神秘主義や啓示のたぐいだ。本を「情報を得るため」に読むのであれば、それはレジュメでも構わないということになる。僕がかつて『はてしない物語』を、あるいは(小林も愛読しているシュタイナーの)『自由の哲学』がそうであるように、読書と共に自身が変わっていくこと。対話すること。

 だから、人文書には「情報以上」のものがある。彼ら自身もそれを書き込もうとする。それは時に嘘になる。「情報以上のものは、言わなければ無であるが、言った時には必ず微妙に嘘になってしまう。

#個人の全集を

 人文の世界に入りたいのであれば、まずは個人の全集を1つ読むこと。実はこの指摘こそ、はじめて大学に入った生徒に送るべき言葉かもしれない。僕が付け足すとすれば、これが二倍になってしまうけれど、「小説家」と「思想家」の二人、と言いたいところだ。もっと言えば、日本人と外国人の2✕2の4人の全集を読むべきだと思う。

#問いのないところに思考はない

 小林先生の授業を懐かしく思い出す。「君たちは先週の授業から何を感じたのか」それはまさに人文のレッスンだった。基礎演習で習うべきことだった。授業は情報でしかない。だから、情報以上の何かを作り出すこと。クリエイション。それも、イノベーションつまり利益のためでないもの。村上春樹の「システム」の言葉も思い出す。

第二章 読書の技法入門

 いわゆる「読書術」的な内容も出てくるが、技法的なところはそれほど新しいものはない。大澤の「本への書き込み」についての話は松岡正剛を思い出させる。一例としては、本の書き込みとして、

1 内容における中核的な部分

2 自分が何かを感じ取った部分

3 引用する可能性のある部分

 といったカテゴリを設定して書き込みをすること。また、「どこで思考がジャンプしたのか」「どこで推論に証明がなされたのか」というポイントに気を配る、というのも参考になるポイントだと思う。

#レビュー

 ここでの記述に頷くところが大きくて、結局こんな文章を書いているのだけれど、話としては「レジュメ」を作るのではなく、「書評=レビュー」を書け、というもの。おそらく、論文誌なんかに載っている書評を想定すれば良い。もちろん大学に行けば単位のためにも大量の書評を書くことになる。

 ぶっちゃけてしまえば、4000~8000字書けということだ。身も蓋もないけど。また、論文誌の書評はおそらく7割内容紹介、3割で他書との比較と自身の意見が入る。僕としては、慣れたのならこれを3割紹介、3割比較、4割自身の意見、くらいにして良いと思う。

 レジュメとは、箇条書きやまとめで構成されていて、内容を相手に伝達するもの、つまり既に提示された「情報」でしかない。レビューは、そこに自分自身の新しい「情報」を付け加える。もちろん「情報以上」を書き込むことも可能だ。むしろ、それに挑戦するのだ、という意味でここで紹介されてるように感じる。

#100・1000・10000

 世の大学生、大学院生を尻込みさせるような内容がこちら。数字は読んだ本の数。100冊でかすかに世界が見え始める。1000冊で世界は確固たるものになる。というより「論文が書ける」そして、10000冊でプロ、つまり博士になる、という訳だ。当然これは「通読」という話でなく、例えばレポートに本を「使う」ことでもカウント出来る。まあ、これは1つの指標にすぎないとは思う。例えば1000冊の「通読」と、300冊を「読み込む」ことと比較してもよい。「それだけの時間をかける」ことと、「考える」ことの重要性を説いている。

#「入門書の読み方」

 というテーマが割に面白い。入門書は善か悪か。むしろ僕自身の持論を展開したい。入門書は、「副読本」として用いるべきだ。そして複数冊を使う。さらに、あるキーターム、鍵概念を理解するために用いる。カントの「アプリオリ」レヴィ=ストロースの「構造」などなど……

 まず実際の著作を読み進めていく。そして「イミワカンナイ……」と突き当たったときに、その鍵概念(あるいはその周辺で繰り返されている言葉)を抜書きして、入門書を事典のように用いる。無論、野矢先生のような「原書に匹敵する入門書」があれば幸運なことだ。

 当然ながら、「本質」にこだわる必要はない。「フーコーはこう言ってる」なんてのは情報なのであって、「フーコーの入門書を通してフーコーの思考に触れて僕はそこでこんなことを思考した」の方が重要である。「正確な理解」というのは、当然ながら一義に定義されてる時点で「情報」だ。

#本を理解すること 。精読

 ここに来て、「情報」ということが再び―そしてクリティカルな問題になる。意味と意義、役に立ったか―立っていないか、という問題系をもう一度持ち出すと、「読書は意義である必要はない。しかし意味の無いものであってはならない」

 これは芸術とも関わることになる。つまり、何かを読んで「何を得たか」―非常に広い意味で。ル=グウィンが言うように、単に「面白いから」本を読むこと、何かを読んで「幸せになること」は、もちろん意義なのだ。ラノベを読んでいっぱい笑っていっぱい泣いても良い。その体験と、カントを読むことの間に貴賤はない。あるものは「何を考えたか」ということ。ここに戻る。だから、その地点から「分かる」ということを考えるべきだ。

 ここでは「分かる」ということ自体が個人的なところへ持ち込まれる。ウィトゲンシュタインが「分かった」として、それが何ももたらさないこともあるのだから。

 一方で、もっと一般的に「分かる」べきもの、ということもある。この本で何度も出てくる、「実存・構造・ポストモダン」というような流れについて。それはもう「情報」みたいなものなので、道具立てを使っても構わない。

 特筆されてるのは、「分からなかった」ものが「分かる」ようになった瞬間、そこにフォーカスすること。これ、割と重要な話かもしれない。

 ここでは「精読」とは何か、ということについても紹介される。単に細かく読むのではなく、ミクロとマクロの両方を使い分けるということが提示される。もっと面白いのは、「読み終えたときにその人以上にその人になっている」という言葉。ほとんど「分人」の考えに近いように思う。あるいは小説家が「自分のキャラクターが勝手に動き出す」というときのような。それはデーモン、仮想ディスク、自分自身の中の別人格。この状況であれば、この人ならこう思考するだろう・行動するだろう、というモデル。

#自分の言葉に置き換える

 この章の白眉とも言えるポイントで、小林と大澤の意見が食い違う面白いところでもある。対談の醍醐味みたいなところだ。

 大澤は、読んだ体験を、そこでわかったことを、概念を、咀嚼して、自分の言葉で表現してみてほしい、ということを言う。小林は、わからなかったことをそのまま、わからないままで寝かせておいて欲しい、と語る。正直、僕は「考えて、書く」ことに時間を取ればそれでいいと思う。それで分かることだ。わからないままにしておくべきもの、書いてしまっていいものも、そこで判断出来る。そして、分からないならそれなりの反応があり―それこそが貴重なものになる。

Ⅱ理論編 第三章 誰にもわかる「実存主義・構造主義・ポスト構造主義

 さっき「分かる」こととは何か、などと言ってたのに「誰にも分かる」とは何事だ! とツッコミを入れたくなるのだが、まあ、小林先生の著作を読んでればお馴染みの話。ミシェル・レリスとか、ブルデューとか、フーコーとか色々考えると、この切り方でいいの? という感じはあるし、実際フランス現代思想で切ってない? とか色々言いたいこともあるけどまあ気にせずに。

 つまり、サルトル―レヴィ=ストロース―デリダである。言い過ぎました。「主体」って何だ。個人ってなんだ、という長い長い西洋の哲学のピラミッド。人間は自分と世界を把握して、一個の人間として、独立して、世界に、歴史に働きかける。だから自由なんだ! その自由を引き受けるんだ! ほとんどキリストみたい(それは旧約聖書への「異議申し立て」という意味で)世界のために人間がいるのではない。

 あーあー、ほんと西洋的ね、サルトルさん、とそれをひっくり返したのがレヴィ=ストロースなのだと、僕は今のところ把握してる。君のその自由の、個人の考え方こそ本質ではなく「1つのバリエーション」にすぎない、とするもの。主体の19世紀、構造の20世紀、そして両方ともガラガラ崩していったのが21世紀の脱構築、そんな図を描くことが出来る。じゃあこの次は? という問いも出来そうだと思う。1つの答え方はこうだ。

「実存と構造は、もう4000年も繰り返し語られてきた自由と運命、それこそ旧約聖書と新約聖書の対比と同じもので、振り子の極大値である。今の脱構築やらポストモダンやらは、それをより細かく精緻化していくもので、全くの『新しい』事実というものはもう生まれないだろう(生まれるとしたら、それはおそらくナチスのように危険なものだ)」

 もう一つの答え方も出来る。

「21世紀には、脳科学、生物科学の発展により、人間の思考そのものをシステムとして量的に捉えることが出来るようになる。あるいは人工知能の発展が、人間の思考体系に全く新しいパラダイムを持ち込むかもしれない」

 希望を抱いたりはしないが、後者はSFファンとしても面白い考え方だ。コンピューターの知能が1つの「他者」として現れたら、人間はもっと「面白く」なるかもしれない。

#資本主義と実存・構造・ポスト構造

 この本での特別な議論は、この近現代の流れを、資本主義、特に「資本主義システム」が複雑化された20世紀後半〜現代の状況とパラレルのものとして語ることだ。資本主義というのは、いわば「成果物」というのか、「結果」というのか、哲学=マルクスの言う「上部構造」とは別のもの(下部構造)として語られてきたけど、いやいや、実は響きあってんじゃないか、という話だ。

 「自由」主義経済が、実存主義的な考えと響く。第三次産業、つまり情報主体の資本主義においては、デザインに見られるように「差異」を見つけ出すこと。イノベーションを起こして、過去を解体すること、という自らの秩序に「破壊」を組み込んでいるという点で、「脱構築」とパラレルになっている。

 どうも「資本主義」という言葉に取り憑かれているような思いがする。水野さんの本を読んでからだろうか。とりあえず、その言葉を、「資本主義システム」と言い換えるところからスタートしたい。

 それはつまり、単なる経済システム、社会・共産主義とか、封建とか独裁政治とかとの比較ではなく、資本主義+科学技術+情報社会と、それに影響を受けて、その中で生きる人間。言い換えれば「文化」現象としての資本主義の話だ。それは価値観のセットである。

#主体について

 サルトルに向かう「実存」は、カントからヘーゲル+マルクス辺りで準備されていた。カントによって、人間の外側にある「本質」は相対化され、自由は萌芽する。それが「前身」するとしたのがヘーゲルで、それを歴史とかかわらせたのがマルクスだろう。人間は自身の選択、未来に向けて、新しい方向に自身を投げ出すことで世界を「より良く」していく。

 「全能の神の創造」という言葉も出ていたけれど、それならロマン主義もこの準備の一環だ。神の似姿としての人間が創造を行うように、人間も想像力を用いて芸術を作り出すことが出来る。

 ロマン主義と実存の関わり、というのはあるのかしら? 小林はこうした実存に向かう「個人」「自由」の考えが、世界の進歩を―つまり、資本主義、帝国主義、革命を支えたとして、「哲学は無垢ではない」ことを唱える。そこで唱えていた「自由」や「正義」あるいは「人間」といった本質は変化した―変化するということはそれは本質ではなかったのだけど―つまり、かつての人々にとっては、中国を侵略することも、アメリカを植民地化することも、「世界の進歩」だったのだから。レヴィ=ストロースがやれやれ、と肩をすくめるのも無理ないよね。

 「哲学は無垢ではない」は現在にも当てはまるだろうか。人文学は、20世紀後半では脇に追いやられた? 例えば、「持続的開発」はどうだろうか。「人道主義」は? サンデルを持ち出すまでもなく、ヘイトスピーチはどうか。もっと一般的に、日常的に、教育は、性は、家族はどうか。もちろんお金もそうだ。けれどそれは、誰かが唱えた哲学をみんなが共有するようなものではなくなった。

 現代で最も影響力のある人文学者(?)、その名は「資本主義」である。あるいはメディアかもしれない。大衆かもしれない。『大衆の反逆』のアップデート。でも、誰が言ってるのだろう。もっと消費せよ、もっと安定せよ、もっと一般的になれ、いくつかの型の中から、自分の収まる場所を見つけよ。そんな価値のモデルを、誰かが提供しているわけではないのに。人文学は、いまやその「資本主義」の作り続ける哲学に対する1つの抵抗勢力みたいになってしまった。沈みかけた帝国に対するレジスタンス。

 ◆

 脱構築がレヴィ=ストロースを否定した視点はどこだったのか。1つ、「冷たい社会」ならまだしも、「熱い社会」においては単純なモデル化なんて出来ない。システムは複雑だし、重なり合ってるし、スティーブ・ジョブズなんて1人で1つの文化システムみたいになっちまった。もう一つ、それがダイナミックであること。そのダイナミズムをさらに上から捉えて「構造」って言ってみたくもなるけど、もう世界を巻き込んで、三次元的に複雑に動く振り子を捉えようとすれば、理論は複雑な数式みたいになって、そもそも「世界を把握する」という理論の目的を果たせない。

 小林は、「ハイパーテクノ資本主義」において、人文科学―人間個人から出発するそれが、もはや限界を迎えている、という可能性を示唆する。それは無力なのではなく、資本主義の中にそれを「無力化」しようとする運動があるということ。『君自身の哲学へ』でリオタールについて語ったことを思い出す。逆向きに走るベルトコンベア。反知性主義?

#超入門 ! ポスト構造主義と資本主義

 例えば1つのネトゲを想定する。いや、ちょっとまって。割といい例かもしれないこれ。じゃあ、ソシャゲからはじめよう。単純なソーシャルゲームなら、そのプレイヤーたちの「構造」は多分簡単に把握出来る。プレイ時間、課金もデータで把握出来る。コミュニケーションもテキスト抽出して類型化できるかもしれない。

 FPSならもう少し複雑だろう。そしてMMORPGとなると、スカイプ会議だったり、楽しみ方も相当多用になって、構造を把握するのは難しくなる。それでもなんとか理論を構築出来るかもしれない。資本主義社会で価値観が多用というのは、数百のネトゲ全体を見るようなものだ。人が移動し、異なる遊び方をする。理論を作るそばから新しいゲームが出る。イノベーション。流行。データを追いかけているうちに、理論を組み立てているうちに、社会が変化してしまう。

 そこにあるのは「構造の俯瞰不可能性」である。無限にリゾーム的に触手を伸ばして、あっちの構造がこっちとつながり、影響しあって、それは把握出来ないのだ。

 おそらくこれが、資本主義の逆ベルトコンベアの能力である。「理論化」出来ない人々。構造化しようとすると、そこからこぼれ落ちていくもの。無限の例外。

 ◆

 脱構築の手つきは「破壊と再生」なんていうか、ヒンドゥー教みたいだけど、実際アップルがやってることを考えても良い。それは「イノベーション」である。コンドラチェフウェーブ。タブレットを流行らせ、スマホを流行らせ、つぎはスマートウォッチ。源流には利便性とか、美しさとか、健康なんかがある。終わりなき象徴闘争。

#問い

 「資本主義システム」について考えることは、非常な難しさがある。例えばジェンダー、例えば差別、あるいは教育、を考えるときとは。ある言葉に「○○を変える!」とつけてみて欲しい。

「ジェンダーバイアスを変える!」「教育を変える!」「差別の状況を変える!」君には賛同者が表れる。そうでない人たちも、とりあえずうなずいてくれる。

 「資本主義を変える!」君のもとから人は去る。早とちりした人々が、君をマルクス主義者だと考え始める。それは、私たちの存立に関わるシステムである。財布の中の、あるいは貯蓄された日本銀行券を、全て投げ出すことは君に出来るのか。それは就職活動と、あるいはアルバイトと、私たちが毎日やっているそれらの日常への、強烈な異議申し立てである。状況劇場が、新宿駅前で「仕事辞めませんか」とビラを巻いたというが、それは当然狂人のしぐさだ。それは「幸福」に関わっている。つまり実存に関わっているということだ。ハロー、サルトル。私たちの実存は、選びとった自由は、幸福を追求するために用いられる。その自由はもちろん―ハゲワシにつつかれる飢えた少女の写真に対して「目をつぶる自由」である。そうしてまぶたの裏の暗闇を見つめながら、私たちは「自衛隊を海外に送って国際貢献」と言う自由を持つ。

 資本主義は1つの解決である。それは強大なシステムというよりも、常識であり、おそらく「地球が丸い」ということとそれほど変わらない。その恩恵の中で私たちは生きている。あるいはベーシック・インカムが、あるいは永久機関を持った労働ロボットが、あるいは水や光から食物を合成してくれるマシンが出来れば―それは変わるだろうか。資本主義。つぶやくたびにそれは呪術的な意味合いを帯びる。システム。そこに意味を持ち込めば、恣意的な不平等を生み出す。マレーシアのブミプトラ政策のように。意味を持ち込まなければ、ランダムな不平等が生み出される。革命よりも技術的イノベーションに期待するけど、それもまた、呪術的。

#2  サルトルから学ぶ20世紀思想

 ここと次の節では、ポスト構造主義から再び「主体」に戻るために、サルトルを振り返る。ポイントになっているのは、ハイデガーとの比較。サルトルが「時代遅れ」になってしまったのは、68年の状況に出遅れたから、という論が出る。

 サルトルの「アンガジェ」の理論というのは、行為を自ら決断し、引き受ける。そうした「理論」だったのだけど、68年のフランスでの変化はもっと直接的にやってきた。アンガジェの理論なんて求められなかった。

 すぐに思い出すのは、日本の現在の状況。いや、もっと遡っていく。安保は、70年安保は、沖縄の反基地運動は、自分に当てはめるのであれば、01年からのイラク反戦運動は、そして現在のSELDsのデモは、「アンガジェ」と言えるのだろうか。私たちは実存の時代を生きているのか。それとも、68年のように、ただ直接に路上が、人々の肉体が燃えているのか。僕はここにきて、ようやくそうしたデモに参加しなければ、という感覚を抱き始めた。けれど準備として考える必要があった。

 サルトルの存在は、現代思想の1つのメルクマールだという。その「実存」に宛てて書かれた大量の反論の手紙に埋もれて、彼の著作は見えなくなっているというのだ。けれど、「サルトルを参照しなければ、構造主義もポスト構造主義もディレッタントに見えてしまう」という。思考のゲーム。

 僕のこれまでのサルトルの理解は、きっとかなり歪んでいる。それは例えば「ハゲワシと少女」の写真を見たときの「文学はこの飢えた少女に何が出来るのか」という言葉、「わたしが第2次大戦を起こした」という言葉。そこに含まれている、行為と責任の観念。そしてレヴィ=ストロースが鋭く批判した、「進歩」の思想。マルクスとヘーゲルを継承したということ……

 僕のイメージの中のサルトルは、いかめしくこう切り出す。「世界はもっと『良く』なり、『人類』はもっと賢くなる」レヴィ=ストロースは、彼の知らないナンビクワラ語で笑う。「『良い』とは何のことか、『人類』とは誰のことか。そこに我々は含まれるのか。どうなのか、白い男よ」

 これは、1つの神話のイメージとして僕の元を訪れる。例えばボイスとエンデ、例えば大江健三郎と小澤征爾の対談、そしてこの、大澤と小林。それはアポリアというより、神話なのだと思う。秩序とカオス、アマテラスとスサノオ、意味と無意味。 けれど、続く部分で、サルトルの「自己欺瞞」の理論が参照される。 

「この自己欺瞞、簡単に言えば、実存は、まさに自分が「それである」ところのものから逃れようとすることですね。そうして自分が「それである」のではないものとして自分をあらしめる……」
「実存的主体というのは、神を人間に写像したようなものです。本当の神ではない者が、神を僭称し、神になろうとすると、そこには必ず挫折が含まれる。むしろ挫折するところにこそ、人間における「神らしさ」が見いだされる。それが自己欺瞞って構造になるんですね」

 再びロマン主義を思い出し、それから、「人間を逸脱したものこそ人間だ」というツェラーンの言葉(実際は鍛冶哲郎の解釈)を思い出す。ハイデガーの「実存」は、「世界と時間」に置かれているのに対し、サルトルの「実存」は、「他者」に置かれているという。それこそ、人類学の言葉じゃないだろうか。秩序=権力=硬直から逃げ出し続けるサルトルの立場。それは、「良い世界」を希求する長老的なイメージとは随分異なっている。それでも、レヴィ=ストロースはその自己欺瞞、挫折、逃走まで含めた人間の「主体」への信頼―あるいは盲信―を、批判したんじゃないかな、とぼんやり考える。

#主体は結局どうなった

 小林が語っていた資本主義の問題が再び持ちだされる。マルクスは大量消費大衆社会においてバージョンアップを求められた。労働から欲望へのパラダイム・シフト。大江―エンデの対談で語られてたように、日本こそがその体現者かもしれない。最もイノセントに、現代型の変貌した資本主義社会を体得した場所。イタリアで、ドイツ語で書かれた『モモ』が、なぜ日本で強いリアリティを持つのか。さよなら、「労働の喜び」、あらゆる人々に消費を!もはや消費することが人権に組み込まれている。健康で文化的な生活という文言のアップデート。

 他のシステムが「欲望のゴール」を設定するのに対し、資本主義は「変数Xへの欲望」によって動くシステムである。それは個人に任される。「自由の牢獄」を開く鍵としての欲望であり、それをドライブする差異と第三次産業。ここでは「デザイン」が挙げられてたけど、コンテンツ、ソーシャルゲーム、コミュニケーションとSNS、情報。それらは、そうした差異の最終形態のようにも思える。リアル―ヴァーチャルの境界が消え去る。誰かは「軽減税率をソシャゲの課金に!」と言うかもしれない。それがバカバカしいとしても、スマホとネット環境はどうか。プロレタリアに「基本無料」のゲームが、違法アニメ動画が与えられる。陰謀論を立ち上げよう。表れては消える基本無料ゲームは、政府によるプロレタリアを骨抜きにするための施策だという。「欲望する機械」にもなれないプロレタリアに与えられる無料の歯車。それは差異を無限に精製する超ローコストの―ファンタズムの歯車である。

 「プロレタリアは、人間の完全な喪失である。労働、意味、価値、欲望の全てを剥奪され、残り物となったものだ」これがマルクスの考えだ。階級の問題ではなく、個人の主体の意味を問うものが。絶望が。

 小林は、「身体」がこの状態の抵抗の拠点になると言う。僕はたしか、『君自身の哲学へ』を読んだときにこの小林の言葉に賛同しながらも、別のことを考えていた。具体的には『ソード・アート・オンライン』の「マザーズ・ロザリオ」だ。身体は拡張する。コントロール出来ないほどに、ヴァーチャルの身体が―「私があなたになること」が―入り込んでくる。どちらかといえば、押井守の方が説得力があるように思える。どうしたのよ大澤さん、エロゲプレイしたんじゃなかったっけ?(『不可能性の時代』参照)

 ここで述べられているのは、身体というのは1つの「機械・機構」ということ。1つの秩序であり、そこには支配がある。だが、『サイコパス』ではないが、僕たちの身体もアンドロイド化されている。

第四章 自然科学と人文科学のインターフェース

 文系と理系の区分が曖昧であることが述べられ、共に理系のバックグラウンドを持つ二人が、人文科学と自然科学の関わりについて語る。最初のトピックは数学、特にその「ループ」であったり「無限」という概念によって、人文科学の地平が広がったこと。そののちに、既に幾度も語られた「人文科学の危機」について。ラストはより広範囲に―あるいはバラバラに、文理の「ハイブリッド」だったり、霊長類学、カオスのエッジ、といったトピックに映る。

#数学

 文理が「離婚」し久しいけれど、例えば「心の研究」だったり、量子力学、生命科学でどうしても人文科学の領域に戻ってくるポイントがある。大澤の最初の著書は、数学に関するものだった。一番大きく取り上げられているのは「無限」の概念だった。現実において、人間は決して「無限」を実体あるものとして考えることは出来ない。それは神の領域である。けれど、数学においては、むしろ「無限」という概念を入れ込むことで様々な問題が解決していく。それによって、現実でも「無限」について考え、語ることが出来るようになる。複素数もそうだけど、数学には「現実の対応物」は存在しない。にも関わらず、数学のシステムは、物理なり天文学なり、現実世界の様々なものに応用することが出来る。

#人文科学の危機

 「今、人文科学が人気がないとしたら、人文科学的なものがもうすべての人に共有されてしまってるからだと思うんです。すべてが情報の雲の中に取り込まれてしまっている。……批評家もいらないわけでしょう。みんなが自分の意見をツイートして、自分の「文化」を発信して、それどころか自分の「哲学」をネット配信出来る。」

 「人文科学的なものが、もうすべての人に共有されてしまっている」というのは良い指摘だと思う。ツイッター以前に、それはブログなりで準備されていた。僕だって最初に触れたのはエヴァから始まるアニメ批評の流れだ。エロゲ批評・解釈だって必死に読んだ覚えがある。客観的な評価を置いて、読者論的に言えば、それらが僕に与えてくれるものは、ベンヤミンなり一流の批評と何ら変わることは無い。専門性がなければ、誰でも語ることが出来る。

 ふと、この小林、大澤の二人が、東浩紀を、そして彼のプロデュースしてきた思想地図なり、周辺にいる人々をどう考えているのか、というのが少し気になった。もちろん全てではないにせよ、東浩紀や、その周辺の(佐々木敦が『ニッポンの思想』で述べているように、ゼロ年代に「一人勝ち」したとする)グループ、そのいくらかは、ここで批判される対象になるように思えるからだ。

「近代的な意味での「啓蒙」という機能は終わっているんですよ。その次に来たのが、簡単にいえば「異なるもの」「他なるもの」への理解」だったと思います。不可能なコミュニケーションと言ってもいいんですが。それが、単なる「自己表現」とか、最悪のケースでは、自分が好きなものを調べてみます、みたいな趣味のゲームに堕してしまいかねないところに来ている。マスカルチャーの勝利ですね。でももう一度、この時代にあって、人間を問うことはどういうことか、ということを再定義しないといけないと思いますね」

 大澤の『AIR』に対する見当はずれな批評を思い出す。(『不可能性の時代』)「たしかに、美少女ゲームは、プレイヤーに、父になったかのような―ときに超家父長的な圧倒的に強い父になったかのような―感覚を与える」とか、ほんとアホじゃないんですかこの人、という感じですよね。あんた何本ゲームプレイしたのかと。教訓:自分の良く知らない・十分体験していないものを同一カテゴリに放り込むのはやめよう。

 脱線:美少女ゲームは僕の定義では広い意味での「文学」つまり「文章で表現されたもの」(当然映画や演劇も含まれる)なので、単一の意味なり解釈なりは全く出来ない。

 確かにその文章は、社会を、この本でも出てくる「第三の審級」を語るための横断の中の1つだけど、それでもこんなこじつけを行うくらいなら、「趣味のゲーム」の方がなんぼか/もマシ、という気がする。

 「文学の危機」は何度も何度も繰り返される―僕たちが「文学の黄金期」と後から読んでいるような時代も、当時は「文学の危機」が叫ばれていた、という話をどこかで読んだな。(岩波の文学研究全集だったかしら)人文学の危機というのも、これと同じ状況ではないのか。

 むしろ、人文学は大学を離れれば今こそが最も花咲いている時期ではないのか。「全ての人に共有されている」人文科学。オープンソース人文科学。コピーレフト人文科学。基本無料人文科学。問題は、趣味の批評とか、自己表現かどうか、というトピックの選択ではなく、それがどう突き抜けているか、という点ではないか。(まあ、大澤もそれを言ってるような気もするけど)

#クオリア 、チンパンジー、カオスのエッジ

 ここでも、科学と人文学の重なり・つながり・フィードバック、みたいな話が出てくる。

 1つは、例えば脳科学・心の研究で、安易な還元が行われているのだけど、それは危険だよ、という話。以前に一橋大学であった「脳科学で美をつかまえる」みたいなシンポジウムを思い出すところ。ある脳波なり、遺伝子なりを取り出して、「この人は問題に対して諦めやすい人だ」と確定してしまう乱暴さ。

 こういう小説はどうだろうか。数百年後の科学者が、長らく続いてきた不理解をようやく修正する。「人間は、どうも『決定論・運命論』への強い憧れがあるようで、様々な実験結果を無意識の内に歪めてきた。例えば神学、それからデカルトの機械論、それから脳科学と生命科学が続いた。しかしそれは、例えば現実社会の歪みを緩和するため―運命であるならばそれを甘受しよう―の社会的な要請から来たもので、実際は根拠あるものではなかった」

 小林が「ハイブリッド」というのは、無論、人文科学を科学に(もちろんその逆にも)「還元」を行わないということ。「人文科学を生み出すときの脳の働きを発見しました! これをあなたにコピーすればフーコーでもハイデガーでも、誰かのように考えることが出来ます!」で、自分にコピーしてみたら早速そのマシンをぶち壊した、というアネクドート。けれど、それでも人文科学がそうした自然科学のエヴィデンスを無視して古い巣で語ることはナンセンス以外のなんでもない。むしろ積極的にそこに向かうことが必要になる―で、勉強してみると、実は自然科学のフィールドも人文ストーリーに満ちている、みたいな話だ。

 最後に「カオスのエッジ」という話が出る。または「クラス4」クラス1は「固定された解」いわば2+2=4。クラス2は複雑な問題だけど、解決可能な秩序。代数x・yでも、移動する点Pでも構わない。一方でクラス3というのはカオス、解なんて無い。そしてクラス4というのは2と3の境界。「カオスのエッジ」という中二病が好きそうなところ。秩序と混沌のふれあうところ。数学という秩序の体系の中で、「秩序と混沌の境界」なんてダイナミックなものを考えるのは少し楽しく思う。

 小林の「統合人間学」というのは、(実質は別として)コンセプトとして一番近いのは人類学だと思う。少なくとも、その「統合人間学」の中に精神分析と人類学のフィールドワークは入り込むだろう。

 この章のラストで「知の面白さは、異なるものを関係づけるところにある」と出てくるのは希望だと思う。人間は意味の生きもの。関連付けてないといられない。知を「面白い」ものとして見ること、世界に驚くこと、センス・オブ・ワンダー。たとえ恐ろしい虐殺でも、悲劇でも、そこに何かの法則を見つけ、驚き、喜びを見出すことは不謹慎ではない。ル=グウィンが「小説は面白いから良い」といったように。シラーが「美とは遊ぶだけにすべきだ」と言ったように。

Ⅲ 知の技法とは何か

 おっさん二人が適当に対談したもんだから、書籍のタイトルに無理やり帰ってきたものの焦点のぼやけたものになってる。むっちゃ面白いのですが、タイトルみたいな入門書でもなんでもないです。ここでも大澤と小林の対比が繰り返される。大澤が、知を①役立つもの ②面白いもの ③知ることが解放になるもの と定義するのにたいし、小林はその「役立つ」に意義を唱える。問題を解決するためでなく、問題を掘り下げるためにあるとする。村上春樹は「小説を書くことは、あなたの救いにはならない、あなた自身をより深く知るだけだ」と書いていたけど、それと同じことを言っているのだと思う。もちろん、それを救いと取る人もいる。たとえば僕のように―

 小林はそれに加えて、人文学はどこかでジャンプを……これまでの知の累積を全部ひっくり返す必要に駆られるということを言う。巨人の肩に乗っかり―そこからジャンプする必要があるという。バタイユの非―知というように、知を組み立てて、それをぶちこわすモーションが必要だという(そのプロセスが、前章で触れた資本主義の「破壊と再生」のようにも聞こえる、というのは穿ちすぎかしら)

 二人がどうにか同意する「知は知識ではなく行為だ」というこの点は、僕が小林先生の授業で学んだことだ。いや、それは実際、僕自身がずっと考えていたことだった。

 「ぼくが授業で話すことなんて全部どうだっていいんだよ。それを聞いて君たちが何を考えたかが重要なんだ。さあ、君たちは何を考えるんだ?」

 そのとき、僕はようやく人間になった気がした。そうして、自分の発表の会に自作の小説を持って行って一席ぶったのだった。知の技法とは、知と行為―act もしくは interact することを学ぶことだ。その行為の究極を、小林はDance することと呼んで―その最終講義で Danceを踊ったのだった。知と踊るということは、自分が動くだけではなく、知の方も変化し、動くもの、動的なものと考えることだ。エンデならSpiel 遊びと言うだろう。

 もちろん僕もそう言うだろう。けれど、「知の技法」ということを、より具体的に―「テクニック」として語るのだとすれば、まず「書くこと」を伝えようと思う。いいですか、まずはシラバスをうんと眺めて、取れる限りのレポート提出単位のコマを取ります。東大駒場なら必修はしょうがないとしても他を埋めて25コマ目一杯で20本くらいのレポートを書くことになるでしょう。ガイダンスを受けたらその足で図書館に向かって資料をひっくり返せ。1本のレポートを書くのに、引用するのは10文献として、実際に読むのは30冊。これで半年で600冊に目を通すことになる。そしてそれらのレポートを、可能な限り独創的なものにしよう。「可」がついても構わない。むしろ「可」がついたらそのレポートを持って教授の事務所に乗り込むのだ。乗り込めるくらいの―強度を持ったものを書くこと。20本を5000文字書くとして、10万字。これは本一冊の内容だ。これを一年で二度繰り返して40本のレポートと1200冊の本のリストが出来る。 それを9年(学部4・修士2・博士3)繰り返して、一万冊を超える。そこまで行かなくても、それだけの速度で一度学ぶこと。そうして「考え」「書く」ことを自身の中に染み渡らせること。

 書くという行為は、否が応でも自己反省を突きつけてくる。小説でも、批評でも、論述でも、論文でも、そうしてあふれんばかりに書くこと。様々なスタイルで、様々な私になって。そして「私」が書くこと。一冊の本を書いてみるのも良い。僕が人文学の授業をデザインするのであれば、4年間で、論文とは別に一冊の本を書かせる。小説でも、単行本でも、新書でも構わない。編著でもいいけど、書籍より難しいことを知るべきだ。人類学なら民族誌だ。ああ、今僕はモノグラフを書きたい。それは僕たちの一部になる。そして「知の技法」の出発点になる。僕もまだ途上なんだ。さあ、書いていこう。

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