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写像

 記憶には音があり、色彩がある。実際に目に浮かんでいる訳でも、耳にしている訳でもなく、概念としてありのまま映し出される。

 気まぐれに本棚から取り出した『スプートニクの恋人』。ページを開くと、僕の脳裏に薫風が巻き起こる。僕はひとけの少ない公園のベンチで、この小説のページを綴った。小説には、そんな役割もある。背景をも切り取ってしまう、そんな魅力的な小説が僕は好きだ。

 耽読していると、ふいに僕の脳裏に波紋が映る。しかし、雨降りの下読んだ記憶はない。どうして波紋が浮かんだんだろう?

 その波紋が僕の集中を邪魔し、一度栞をはさむ。ふぅ。一息つくことで、はっと僕は『スプートニクの恋人』を彼女に貸したことに思いつく。波紋は、彼女が落とした涙であったのだ。彼女の背景をも、この小説は切り取ってしまったのだ。

 小説というものは、時に魔術的な所業を織り成す。僕がめくったページの節々から、彼女は僕の写像を読み取ったのかも知れないのだ。だからこそ小説の交流は、蠱惑的に響くのだろう。僕は栞を取り、ふたたび物語に身を潜める。

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