『汝の敵日本を知れ』自己像と他己像。

 『汝の敵日本を知れ』は1945年製作のプロパガンダ映画である。アメリカの立場から当時の日本の姿を描き出された内容である。プロパガンダ映画という特殊なジャンルということを踏まえても、僕はこの映画を全ての日本人が観るべきだと思う。

 なぜなら、この映画では日本製作の日本史では語りうらない切り口、表現が多用されているからだ。「八紘一宇」や「田中覚書」(田中上奏文)など現在トピックとして挙げられないワードに着目していることはもちろん、「思想警察」を〝日本のゲシュタポ〟「田中覚書」を〝日本版『我が闘争』〟日本の草の根に渡っての国家総動員体制を〝ヒトラーも垂涎の完璧な統制システム〟と表現するなど、日本史では目につかない表現がなされている。(それでいて、イメージはグッと掴める。)「田中覚書」については、日本では偽書と結論づけられているが、他国では未だ引用される機会がある。ただ、少なくとも僕はこの映画を観て初めてこの言葉を耳にしたし、これについて知らないことは他国認識にも影響が及ぶのではないか。(なぜ怒っているのか理解出来ない。)

 特に考えされられる点は、「靖国参拝」である。現代に生きていると、なぜ総理や政治家が靖国参拝をすると他国で声高に叫ばれるのかに疑問符がつくだけだが、この映画を観ると考えが改めさせられる。先述の表現から日本がナチスになぞらえられていたことは明らかだが、日本史においてはこの関係性についてしっかりと言及されない。(ドイツと手を組んで~、みたいに軽く触れられるだけであった。)ただ、他国の視点に立てば、日本でナチスが忌み嫌われるように、他国では当時の日本を忌み嫌っていることを実感する。例えば、今私達が北朝鮮に対して抱くイメージと同じような感覚ではないだろうか。このことを踏まえると、戦死者を神として祀っている神社を政治家が参拝するという構造は、日本がまた当時の狂乱的国家に立ち戻るのではないか、という不安を他国に与えることは当然だと思う。「靖国参拝に関しては、他国へのしっかりとした説明が必要。」という河野太郎氏の立場を僕も取りたいと思う。

 プロパガンダ映画は確かに事実を曲解して伝えることもあるために、ドキュメンタリーと区分けする必要はあると思う。しかし、戦争でどのようなことが起こっていたかを知るための材料にはなるし、何よりも当時の日本の他己像を捉え直すことで、自己像を再構成することができる。

 大学生になって、かの戦争とは一体どのようなものだったかをよく分かっていないことに対しての問題意識を覚え、プロパガンダ映画などを材料に勉強し直している。高校で教えられる現代史の現状としては、高校三年生の11月~12月に駆け足で教科書を流し読みしかしていない傾向は否めない。共通テスト対策としての日本史・世界史では、戦争についての示唆は得られない。僕は高校教育の段階で『世界現代史』を学び考えることが必要であると思うから、教科として独立させるべきだと思う。(具体的な方法論としては、必修化された世界史Aに専任教員を設ける。)安倍元首相が掲げていた、歴史修正主義とも取れる愛国心教育について、こと戦争に関しては全面的に反対するし、他己像を組み込み自己像を捉え直すプロセスこそ歴史を学ぶ価値ではないかと思う。

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