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「メロウイエロー」

 暴力と破滅の運び手さん主催の「エッチな小説を読ませてもらいま賞」に応募した作品です。拙作は特別賞をいただき、受賞作品集としてアンソロジーに収録されました。
 アンソロジーはBOOTHから(匿名匿住所でも)購入できます。
 また、近々電子書籍化する予定とのことです。そちらのほうもまたよろしくお願いします。詳しくは、文学賞のサイトをご覧ください。
 BOOTHはこちら  https://brutetaro.booth.pm/items/4780275
 エッチな小説を読ませてもらいま賞 https://ecchi-syousetsu.com/


 レモンイエローのボールを撫でることを止められなかった。十五ポンドの球体をベッドに置き、固定するように両腿で挟む。摩擦でシーツが傷んでしまうが、胡桃沢じゅんはその点については諦めていた。
 一心不乱に撫でている間、ボールはぐらつく。ぎこちなく動かす左手で感触を確かめる。三つの穴の不規則な刺激も絶妙のアクセントとなる。息が荒い。吸って吐く間隔が短くなっていく。掌に熱を感じる。指先だけが冷たい。内腿の皮膚が擦れ、伸縮する。首筋に小さな汗の粒が浮かぶ。手首から上腕にかけて筋肉が硬くなる。重心を変えるように腰から下、尻全体を押し出す。下着越しに中心のやわらかい部分を当てる。下半身全体で包み込む。喉の奥が震え、湿り気のある声の塊がこぼれる。
 すべてが終わるまで、ボールはゆるやかに回り続ける。
 
 それはパーフェクト達成の証だ。表面には記念として名前と日付が刻まれている。若手中心のプロアマ混合トーナメント、その一回戦での偉業だった。
 むしろコンディションはあまりよくなかった。リリース時の中指の引っかかりが最後まで気になっていた。それでもピンはことごとく倒れる。スコアにストライクマークが連なる。ラスト一投は最もうつくしい軌跡を描き、ピンの群れに突っ込んだ。
 以降、たいした結果も残せず、右手首の慢性的な痛みもあって引退した。特別なセレモニーはなかった。専門誌に小さく記事が載っただけだ。
 決断するのは容易かった。靴やウェアやサポーター、数少ない賞状やトロフィーも未練なく処分できた。記念のボールだけが胡桃沢じゅんの元に残った。
 あるいはレモンイエローでなければ、とっくに捨てていたかもしれない。元々、色の質感と光沢に魅了されていた。本格的な執着心が芽生えたのは、引退して二年が過ぎた八月の夜だった。
 
 真夜中近くになっても気温は下がりそうになかった。帰宅後、すぐにシャワーを浴びてベッドに横たわる。疲労のせいか、なかなか眠れなかった。冷房の効きも悪い。翌日も朝一から出かけなくてはならないのに身体のあちこちが痛んだ。いつまで経っても営業の仕事にはなじめなかった。新しい契約は三か月以上も取れていない。プロ時代もスポンサーへの挨拶やそれに伴う各種のつき合い、ファンサービスなどは苦手だった。
 まぶたを開くとあざやかに発色する球体が視界の隅に見えた。それはカラーボックスの最下段にあった。胡桃沢じゅんは泣きそうになる。さみしい、と一瞬思うが、その言葉が適切ではない気もした。起き上がり、ボールに近づく。固定するためのラバーが敷いてある。うす暗闇の中でもその表面は艶やかさを帯びていた。
 ひさしぶりに抱えてみると想像以上に重かった。ベッドでパンツ姿になり、腿の根元で挟んだ。自然とその格好、その体勢になった。おもむろに手を乗せ、撫で始める。冷たくてなめらかな感触がなつかしく、それでいて新鮮だった。目を閉じて擦り続けた。ボールは固く、どれだけ力を加えても跳ね返すように受け止める。すぐさま呼吸は乱れ、荒ぶりだす。胸から首にかけて汗が浮かぶ。腿全体が熱く、肌はぬらぬらしていた。左手が小刻みに震え、なかなか止まらない。掌の中心は赤らみ、すべての指先が青白かった。
 だいぶ落ち着き、スムーズに眠れそうだった。足元にボールを追いやり、目を閉じる。エアコンはようやく冷たい空気を静かに送り始めた。
 
 胡桃沢じゅんはボールを撫で回すようになった。気分が重苦しいときや疲労を感じるとき、言いようのない不安に襲われ寝つきが悪いとき、レモンイエローの球体と戯れた。それは擦るたびにあざやかさを増していった。
 
 ランチタイムは不規則だ。だいたい出先周辺で済ませている。余裕がなくて、タイミングを逃すことも多い。それでもエギザワさんと一緒に会社近くのエスポワールで過ごせるときは、この仕事で数少ない安らぎを得られる。
 四十代半ばのエギザワさんには孫がいる。いつもムツキくんの話を聞かせてくる。特製のスーパーサラダランチが定番だ。日替わりのスープをゆっくりと飲み干してから、野菜に取りかかる。胡桃沢じゅんはすでに熟成ベーコンのカルボナーラを半分以上食べ進めている。
 遅いのは最愛の孫のエピソードを披露しているからだけではない。サラダやくるみパンどころか、スープやアイスマテ茶もよく噛んでから飲み込む。
「ムっちゃんがな、準チョコばっかり好んでそれしか食べないんよ」
 いつも通り、親しみのこもった口調でつぶやく。人好きのする性格はすぐれた資質に違いなく、エリア内でもトップの営業成績を維持している。太い伝手やコネクションもない中、飛び込みにも強い。ただ、具体的なコツについては本人もよくわかっていないらしい。
「ムっちゃんと接するのとは全然違うんでな」
 胡桃沢じゅんはコーヒーが苦手だが、エスポワールのブレンドだけはミルクも砂糖もなしで飲むことができる。エギザワさんが食べ終わるまで、何度か空いたカップを意味もなく手に取り、結局そのままソーサーに戻す。
 
 店を出て、午後からの営業に向かう。別れ際に大量のチョコレートをもらった。
「ちゃんとしたチョコレートだから、ムっちゃん、ちっとも食べてくれなくてな」
 百円均一ショップで見かけるようなビニール袋で包装されていた。ずっしりとした重みを掌に感じる。エギザワさんがにやりと笑い、またね、と言った。
 
 その夜、胡桃沢じゅんはチョコレートを口の中で転がしながらボールを撫でた。ほぼ溶け切り、仕上げに犬歯で砕こうとする。唇から欠片がこぼれた。転がり、三つある穴のどこかに入った。指を突っ込んでみると何の感触もない。穴が下になるようにひっくり返して揺する。それでも出てこない。落とした視線の先にパーフェクトを達成した日にちと大会名、自分の名前が浮かんでいた。
 もはやボールを撫でることに集中できない。チョコレートをもう少し食べてから、ティーバッグで和紅茶を淹れる。エアコンで身体の内側が冷やされないうちに眠りにつく。
 
 ボールに小さな茶色い染みがあった。前日には気づかなかった。チョコレートの名残だろうか。表面を舐めてみる。何の味もしない。這わせた舌がぴちょりと張りつく。ひんやりとした感触にうっとりする。ただ、その行為に固執しない。あくまでも基本は撫でることだ。
 もらったチョコレートは数日で食べ尽くした。気になって店頭でも準チョコかどうかをチェックしてしまう。買ってきた板のチョコレートを口に運ぶ。それからボールを撫でる。この流れがルーティン化する。
 
 しばらくエギザワさんの姿を見かけなかった。一か月近く仕事を休んでいるらしい。家庭の事情、というざっくりとした噂を耳にする。それ以上は誰も詳細を教えてくれない。連絡先を交換していなかったが、知っていたとしてもどのような言葉をかけていいのか、わからなかった。
 
 夜な夜な、胡桃沢じゅんはボールを両足で引き寄せる。チョコレートを口に含み、レモンイエローの表面を撫でる。穴に指を入れてかき回す。きつくてうまく動かせない。チョコレートの欠片が依然として詰まっているところを想像する。穴から抜いた指をくわえる。甘く感じるのと同時に舌先がびりりと痺れる。
 この穴を拡張したい。そんな思いに駆られ、翌日にはやすりを用意していた。穴の内側から少しずつ削る。
 暗く狭い穴の奥に粉が溜まる。それは黄色味がまるでない。ファンデーションのパウダーが乾燥し切ったように見える。手に取って匂いを嗅ぐ。少し焦げ臭い。舌に乗せると焼いた米みたいな味がした。
 集めた粉を透明のパックに入れて持ち歩く。それを営業回りの合間に舐める。快楽や心地よさはないが、膝が短く震える。胃の下のあたりが熱くなる。鼻の奥から焼けた匂いの記憶が抜けていく。そのあとで甘みがかすかに広がる。
 
 エギザワさんは会社を辞めてしまった。胡桃沢じゅんはエスポワールを訪れ、スーパーサラダランチをはじめて注文した。甘さと酸味が混ざった、すりおろし人参ドレッシングが癖になる。スープには苦手なしいたけが入っていて、飲み切れなかった。一人きりの食事はあっという間に済んでしまう。トイレで粉を舐めてから歯を磨く。午後の外回りに向かう。営業成績が上がり始めていた。めずらしくチーフから褒められた。エギザワさんのことを尋ねるが、何の情報も与えられない。
 大病した家族の世話をしているとか、横領があったとか、強引な勧誘があったとか、それに性的なものが絡んでいたとか、退社に関するさまざまな噂は絶えず流れてくる。どれ一つとして信じることができない。
 
 ボールの穴は拡大していく。指を入れてもまるで安定しない。やがて三つの穴がつながり、一つになるのではないか。胡桃沢じゅんの胸は躍る。ボールを太腿で挟み、腰をぐいと押し当てる。チョコレートを溶かしながら表面を撫でる。舌を這わせる。穴を削る。指のはらに粉を乗せて口に含む。改めて両足に力を入れる。激しく左手を動かす。掌を焦がす。刹那の喜びを重ねながら、頂上まで昇りつめる。
 
 平穏な眠りの領域に落ちる間際、一つの光景が浮かび上がる。
 
 胡桃沢じゅんはレーンに立っている。周りには誰もいない。レモンイエローのボールを慣れた姿勢で抱える。指を入れても穴はぶかぶかだ。球体が落ち着きなく揺らぐ。腕を振っても力が入らず、真下に落ちる。こんな投げ方のプロボウラーはどこにも存在しない。まともなルートを取らず、遅々たるスピードで進んでいく。最後にはいびつなカーブを描き、三角形のほぼ先端に当たる。ピンがゆっくりと押し倒される。横滑りして、あちこちに散らばる。
 一本だけ残ったピンがゆらゆら揺れている。十八メートルほど先のその動きを見つめ、胡桃沢じゅんはこれまでにないほど長い快感を得る。甘く、とろりとした唾液が口内で糸を引く。内腿が熱を帯びる。指先はずっと前から濡れ続けている。
                              〈了〉

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