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ヨロイマイクロノベルその9

81.
「僕をのぞく君もまた僕にのぞかれているんだからね」と深淵がささやいた。深淵はぐるぐるのメガネみたいな渦だった。私は頭がいいのでチラ見する程度に留める。深淵の前に手鏡をかざしてやった。深淵は深淵をのぞき、「素敵じゃないか」と言って消えた。それから夕暮れがやって来た。


82.
地震の翌日、雨合羽姿の男が現れて「カラスだ」と名乗った。半透明の生地の下は白いパンツ一丁だ。フードは被らず、太いヘアバンドに鳥の羽根が一本刺さっている。「カラスだ」。男は繰り返す。私は「カケスだ」と訂正した。羽根の鮮やかさが違うし、何しろ鳥のことだけは詳しいのだ。


83.
盛夏を生き延びた庭のほおずきが今になって熱い熱いと呻きだす。不憫なので一つもぎ取り、皮をむく。実の表面はてかてか輝いている。手のひらが熱くて我慢できず、土にころんと転がした。まだほかの実たちは声をあげている。むいた皮は中空でゆらゆら揺れるだけで一向に落ちてこない。


84.
「よりによって」が重なって歩道橋の上で力士にかつあげされた。ジャージ姿でも巨体と髷はごまかせない。飛んでみろ。力士は言う。じゃらじゃら。音が響く。それ全部出せよ。手裏剣です。嘘つけ。どろんどろんと僕は逃げる。追いかけてきた力士は転び、階段の途中で挟まって止まった。


85.
彼女の父親は56歳。ボルチモア出身の消防士で休日は全裸で過ごす。「それがなにより恥ずかしいのよ」。悲しむ彼女は稀代の連続放火魔(未逮捕)だ。サイレンが鳴る中、いつも変わらず夜には祈るよ。彼女の明日一日のことすべてを。そして未来の父親(全裸)が風邪をひきませんように。


86.
毎日同じ時間に法被の集団が身長を測りにやって来る。どこにいてもだ。数値以外は何も答えてくれない。なんと僕は少しずつ縮んでいる。今日は市役所にも現れた。僕たちは婚姻届けを出したところだった。妻の横で僕は測定される。法被の一人が今日だけは一言「おめでとう」とささやく。


87.
陽炎の奥に陽炎が見えると彼女は言う。揺らめきがばらばらで別人格やねん。僕にはそもそも一つ目の陽炎もわからない。ゆるやかな川とたくさんの石、そして空。前方のすべてがクリアに映る。さらに彼女は奥の奥に新たな揺らめきを見た。僕は平らな石を拾い、川面に向けて横手で投げる。


88.
なんと! 逃げ水を舐めることができた。ただ、舌が半分なくなってしまったので、私には味を伝える余裕がない。痛みはないが、何しろ血が止まらない。尚も私は逃げ水の中に立ったままだ。逃げ水は逃げ水で私のことを心配してくれているのかもしれない。完全に赤く染まってるけれども。


89.
夕暮れの少し前までは金色に輝いていた麦畑にやがて夜が来る。薄暗闇の中でも初夏の雨は蒼い色を帯び、静かに降り注ぐ。粒は穂先で弾け、跳ね、伝う。余りは土へと吸い込まれる。夜は長かった。再び光が真横から照らす。この世界で露の甘さを味わえるのは名もなき小さな這う虫だけだ。


90.
麦畑に逃げ込んだものの助けはない。麦が音もなく揺れたあと、そいつは現れる。さっきは間違えてカカシにドロップキックをかました。でもいよいよ追い詰められる。すがるような思いで穂をもいで構える。そいつも真似をした。それから僕らは握った麦を揺らし、ただずっと見合っている。


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