ヨロイマイクロノベルその18
171.
夏の夕暮れ、口裂け男が商店街に現れた。私はきれい? 頷くとマスクを外す。育ちがいいのか、恥じらいがちなのか、口を右手で覆いながら、これでも? と訊き直す。両頬まで切れ込んだ口の端がはみ出して見える。その腕にはフェスのリストバンドがついたままだ。ロック好きなのかな。
172.
兄はプロペラ、母は銃撃の幻聴を耳にするようになり、家を出た。岩の洞窟に入り、そこで暮らしているらしい。わたしは生まれたときから時計の針の音を聞き続けてきた。音が途切れるのが怖くて、多くの腕時計を巻く。ソーラータイプもあり、いつも夜明けと同時に外へ飛び出したくなる。
173.
夏の真夜中、友達と思いつく限りのいやらしい話をしていたら、順々に溶けていった。透明な水になり、一つにまとまる。乾く前に水を足すか、吸い取って保存するのがいいのか。それよりあの水ってどんな味がするのだろう。いやらしい話の続きみたいな気分でわたしの領域も揺らいでいる。
174.
父の霊が縁側に現れた。ミニサイズの缶ビールをピラミッド型に並べる。距離を取り、白桃を放り投げる。すぐに逸れて庭へ落ちる。桃を拾い、またくり返すが、うまく転がらない。半分も進まずに落ちる。やがて桃は駄目になる。父はビールの山に手を伸ばし、缶を開けてうまそうに飲んだ。
175.
「わたしたちの退行がいよいよ始まったよ」。妻が眠り際に囁いた。温泉街は寂れ、客の姿も少ない。ぼこぼこと大量の湯が放出される音とそのうねりを背中に感じる。妻はすぐに寝息を立て始めた。夜の鳥が短く鳴く。湯の音は続き、私は硫黄の匂いが染みついた右腕を暗闇に向けて伸ばす。
176.
全然スターがいないじゃない。全国民がざわついた「スター☆スカッシュ」は三回で放送打ち切りとなった。スカッシュ? という疑問よりもスター不在への反響が大き過ぎた。以降、司会のシナモン亭麒麟児をテレビで見かけなくなった。現在はキッチンカーでのコーヒー販売が順調らしい。
177.
わたしは桶になった。蟹が現れ、共に敵を討とうと誘う。わたしが猿に止めを刺す計画らしい。え、わたし桶だけど、臼はいないの? 蟹が冷笑する。せめて金盥じゃないと締まらないよ。はいはい、メタは嫌いだよ。目玉をぐりぐりさせて蟹が言い放つ。桶でなければ今すぐ茹でてやりたい。
178.
類語辞典がぷすぷすと燃える音を立てる。「盗み笑い」をどう言い換えるか決め切れず、伏せたままだった。恐る恐る触れてみるが熱くない。ぷすぷすの響きが掌に伝わる。燃え始めたような錯覚に陥る。閉じるとぷすぷすは止む。人差し指で背表紙を撫でると、くしゃん、とやわな音がした。
179.
散歩中、スカートのポケットに彼氏が手を突っ込んできて、スマートフォンを抜き取ろうとする。いつものいたずら。こちらもお返しで蠍を入れておいた。スマートフォンを返す彼氏の右腕は外国の巨大なハムみたいに腫れている。「全然平気だよ、愛してるもの」。蠍の種類を間違えたかも。
180.
AIに祖先の情報をいろいろ伝えて絵を描かせていると銀色でつやつやで人間離れした見た目になってショックを受けているところに新しい一枚が完成してそれはもうただの豆で青々としていて「ゆで衛門」とか知らない名前もついていて自分が進化過程から逸れまくっているような気持ちで夏。
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