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「およそ三匹」

「巨大蟹がうろついています。およそ三匹です。一匹は獰猛、二匹目は猥褻、もう一匹はしゃべり倒します」。
 町を巡回する広報車からアナウンスが聞こえてきた。おそらく注意喚起が目的のはずなのに、興味津々な俺は外に出てしまった。
 同志らしい近隣住民の姿が見えた。道路を挟んで、お互いに見合ったまま照れ笑いを浮かべる。会釈をしてから、俺は巨大蟹の様子を見に行く。目の前を通り過ぎたときも、住民は立っているだけで尚もただただ照れていた。

 おかしな季節だった。夏が終わったと思いきや、冬みたいな日が一週間ほど続き、それから少しずつ秋らしい気温まで戻っていった。そして今や、また寒くなり始めた。
 落ち着かない天候のもと、数日に渡り、各家庭に芋が配られた。長くて湾曲した薄紫色の芋が一つ、玄関前に置いてあった。表面には「ふぁっしょいも」と汚い文字で書かれた紙片がテープで留められている。
 誰かが蒸して食べたらしい、という噂は聞いたが、味の感想は一向に俺のところまで届かなかった。やがて芋を見かけることもなくなった。続報も入ってこなかった。

 広報車は見かけないが、ときおり、遠くから例のアナウンスが聞こえてきた。人通りが少ない古い商店街を進んでいるうちに、先のほうから悲鳴がした。急いで車道まで出ると、巨大蟹の後ろ姿が見えた。瞬間、業務用の冷蔵庫みたいな大きさだと思った。いや、ピンとこないな、と俺はすぐに反省した。
 そいつは両方のハサミを持ち上げ、横歩きではなく縦にものすごいスピードで移動する。三角コーンや自転車、薬局のカエルなんかをなぎ倒しながら、直進して去った。あれが一匹目の獰猛なやつなのだろう。近くには男性が倒れていた。巨大蟹に衝突されたらしい。それでも当たり所がよかったのか、うめきながらもにたにたと笑っていた。
 商店街を引き返すと、リヤカーに乗った集団とすれ違った。先頭で引っ張るのは、野獣そのものとしか思えない褐色の肌に筋肉隆々の男だった。俺のことなどちらりとも見ずに、車を引いて走る。荷台の上には猟銃を抱える若い男女の姿があった。二人ともひどく痩せていた。ときどき、銃口をあちこちに向ける。やはり彼らとも視線が合わない。

 すでに同志的近隣住民の姿はなかった。一旦、家に入り、水を飲む。とりあえず気分を落ち着けたかった。コップ一杯分、一気に飲み干した。そして摂取したのと同じ量だけ、トイレで出した。外から再びアナウンスが聞こえてきた。
 あわてて家を飛び出すと、ちょうど巨大蟹が通り過ぎるところに出くわした。斜め向かいの玄関先に置いてあるプラスチックのバケツに飛びつき、激しく身体を揺する。俺が想像する蟹の交尾よりも、類人猿っぽい動きで、完璧に腰を振っているようにしか見えない。だが、バケツとはサイズがあまりにミスマッチだ。あるいはこちらのほうが獰猛タイプなのかもしれない。
 消火栓、変圧器、立て看板、空き缶容れなど、巨大蟹は道沿いの対象物に次々と飛びかかる。腰を振りながらハサミを開いたり閉じたりして、かちかちかち、と鳴らす。そもそも、甲羅なのかその下の何らかの器官なのか、打ちつける音自体がよく響く。相手によってちゃんと音色も変わるんだな、と俺は半ば感心して、激しいピストン運動を眺める。やがて道を左に曲がり、巨大蟹は姿を消した。
 ある程度満足して家に戻ろうと思ったとき、二匹目が進んだあたりから乾いた銃の音が聞こえた。

 玄関前に三匹目がいた。これまでの巨大蟹と違い、黒いハンチング帽をかぶっていた。どうして両目の間に帽子が引っかかっているのか、俺にわかるはずもない。
「どうもです。あのですね、ふぁっしょいも、くばりましたよ、わたくしたちは。ええ、ここにも。それが、ごあいさつのつもりでしたけれど、よろこんでくれましたか。これから、すまわせてもらうよていです、このまちに」
 巨大蟹は早口でまくし立てる。声が甲高くて、中身が頭に入ってこない。
「ふぁっしょいも、うけとりましたか? どうか、そのままたべてほしい。わたくしたちは、いっしょにすんでいくつもりです、このまちに。なかまをみましたか? なかまというよりも、わたくしのこどもたちです。またなにか、くばらせてもらいます、どうですか、ふぁっしょいものそだてかた、おしえましょうか、こんど」
 三匹目はしゃべり続ける。だいたい同じようなことをひたすらくり返す。はじめから目が合っている実感はなかったが、もはや俺のほうを向いてもいない。やがて巨大蟹は言葉を失い、ぷつりと黙る。しゃべりが止まった途端、ひっくり返る。口から泡を吹いている。遠くから、アナウンスの声が聞こえる。銃声も聞こえる。かちかちかち、という無機質な音も人の悲鳴も聞こえる。
 倒れた巨大蟹の横を通り過ぎ、家の中に入った。騒音は少しだけぼやけ、小さくなったが、ずっと耳の奥で鳴っていた。

 しばらく広報車はやって来ない。代わりに、蟹肉が安く出回っているという噂は流れてきた。俺はちっとも食べたくなんてなかった。本物の冬が来る前に、好物を一つ無くしてしまった。耳鳴りは止んだ。そして、芋が再び家の前に置かれることもない。元々、芋類はたいして好きでないから、そっちは惜しくなかった。

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