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たおやかな食卓

地下鉄の中で、”たおやか”の言葉の意味を調べた。

≪ 姿・形・動作がしなやかでやさしいさま。たわやか。 「 −な乙女」 「 −な山の峰々」 「 −な舞の手振り」  三省堂 大辞林 ≫

たわやかと私が言ったのは、間違いではなかったのだなと心の中で思う。スマホから顔を上げると、目に映るのはくたびれた会社員の寝顔。

16時を過ぎた地下鉄には、外回りで疲れた顔をした大人たちが多く乗っている。地下鉄だから、窓の景色はいつも黒色。

黒色の窓に映る私の顔は、少しだけいつもよりみずみずしく見える。

最寄駅から家までの15分の間に大型のスーパーマーケットがある。

私はコンビニで買い物をしないように決めているし、一人での外食もしないことにしている。代わりと言っては何だけど、スーパーでは好きなものを好きなだけ買ってもいいことにしている。

一人暮らしであったとしても、冷蔵庫に食べ物がいつも満ち足りていることは私を幸せな気持ちにさせる。

前、付き合っていた恋人とは半同棲みたいな形になって、私はよく彼の家に行った。外食を嫌う彼のために食事を作ってあげることもあったけど、彼はそもそも食事にこだわりがないと言い、炊いたご飯と納豆とキムチ。それで夕飯は十分だと言っていた。

私の収入はそう多くなくて、節約をしなくてはいけない身だと自覚しているけれど、ごはんはいつも違うものを、その時に食べたいものを食べていたい。

春になったら筍ごはんが食べたいし、春キャベツをほくほくに蒸して食べたい。食後にコーヒーを飲みたいし、あったかくなってきたから時々、アイスクリームをその上に乗せたい。

実家から八朔をもらった時は、ジャムにした。ピクルスを最近作り始めた。

スーパーで、うきうきしながら食べたいものをかごに入れる。

野菜を中心に、でもビスケットとかチーズとか、さらに豊かにするものも欠かせない。

重たくなった鞄を右手に持って、家路につく。ふとスマホの着信が鳴る。

「今日はありがとう。もう家着いた?」

悟志さんからだった。

「いえいえ、こちらこそありがとうございました。ごちそうさまでした。今はちょうどスーパーを出て家に向かって歩いているところです。」

「電話大丈夫?」

「もちろん。」

悟志さんと私は恋人ではない。まだ。

「そういえば、たわやかだけど、たおやかと同じみたい。」

私はさっき会話に出た言葉について話した。そんな些細なことを話しながら春の気持ちのいい夕暮れを歩く。いつかこの重たくなった鞄を半分持ってくれる日が来るのだろうか。そんなことを考えながら。

電話を切って私は今日買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。魚は一つ一つラップで包んで冷凍庫へ。キャベツは芯をくりぬいて、濡らしたキッチンペーパーを入れる。そんな作業も好きだ。

今日はおひる御飯が遅かったから、トマトとクリームチーズのサラダにしよう。クラッカーがまだ棚にあったはずだ。ふいにたおやかという言葉が浮かぶ。なんだか、それは心や人柄だけでなく暮らしをも形容する美しい言葉のように思う。

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