創作小説 熱が出た日
熱を測ったら三十九度だった。残業続きで疲弊している夫に幼稚園の送迎を頼むのがためらわれ、何も言わず自分でこなすことにした。四歳になる娘は私の手を握り「ママの手あっちちー」と言った。
幼稚園から家に戻り、洗面所で洗濯と乾燥モードのボタンを押す。なんとか力を振り絞ったけど、朝食の食器まではとても無理だと思いそのままベッドに横たわる。
「おかゆにのりたまかけたから食べられる?」
「ありがとう」
「のりたまごはんなら佳代ちゃん食べられるもんね」
私は頷いて一口ずつ食べ物を口に運ぶ。
「おでこ出して」
少しカサカサする大きな手が私の頭を撫でる。
「暑いね。つらいね。脇を冷やすと良いから、これを挟んでみて」
ハンドタオルに巻かれた保冷剤を渡されたので、言う通りにする。
「気持ちいい」
お母さんは何も言わず、優しく微笑んだ。子供部屋のフリルの付いたカーテンレースは風に揺られて軽やかだ。
「喚起のために窓を開けたけど寒い?少ししたら閉めに来るからね」
立ち上がろうとするお母さんの手を引っ張る。
「もう少しここにいて」
お母さんは返事の代わりに私の手をぎゅっと握る。
物音で目が覚める。汗がたくさん出ており、身体全体が湿っている。随分と体調が良くなった気がするとのんびり思ったが、すぐに今何時だ?というか、さっきの物音は何だったのだろう?と、慌てた。ベッドから飛び起きて、リビングに向かう。
「起こしちゃった?ごめん、ごめん」
キッチンに夫が立っていて、困ったような顔でそう言った。
「えっ何でいるの?ていうか今何時?」
時計を見ると、十七時近かった。いくら高熱が出ていたとはいえこんなに長く寝てしまったとは…。娘の幼稚園はどうしたのかと焦る。
「ママ、大丈夫?」
娘がソファーから心配そうにこちらを見る。
「迎えに行ってくれたの?」
「そうそう。いつもの時刻に迎えがなかったから、幼稚園の先生が俺にも電話をくれたんだ」
スマホを見ると数回着信履歴があった。
「仕事を早く切り上げてくれたんだよね。ごめんね」
「大丈夫、大丈夫」
「ママ抱っこ」
私と夫が二人で会話をしていると構ってほしくていつも娘は私の足に絡みつく。
「抱っこね。ああでも風邪が移っちゃうから我慢できるかな」
「今日お迎えもパパで我慢したのに」
拗ねた顔をする娘が愛おしい。夫はキッチンから出てきて娘を抱き上げる。
「我慢とは何だ、我慢とは」
夫が強く抱きしめると、娘は嬉しそうにきゃっきゃっと笑う。
「ご飯食べられる?」
「食欲はある…というか体調も良さそう。熱測ってみるね」
隆が体温計を差し出したので、早速測ってみると平熱に下がっている。
「ああ良かった。ゆっくり寝られたからだよ。ありがとう」
台所からはカレーライスの香りがする。夫は困ったときはいつもカレーを作る。
「ママにはこれだから」
娘と一緒に食卓に座っている私に夫がお椀を差し出す。
「お粥?あれ、この白いのは何だろう?」
「大根入り。うちは風邪ひいたらいつもこれだったんだ」
湯気が出るお粥に息を吹きかけて一口食べる。軟らかく煮た大根の甘みが口に広がる。
「ねえ、私もそれ食べたい」
娘がそう言ったので夫が少しだけよそってあげている。
「熱は下がったかもしれないけど、食後にはちみつ入りのホットミルクな」
夫はどこか得意気にそう言う。
娘を寝かしつけて、片付けを終えた隆が寝室に入って来た。寝る前に飲んだ甘いミルクの余韻で体が温かい。
「ありがとうね」
私の言葉に、夫は何も言わずガッツポーズした。風邪をひいた子供の頃の夢を見た。夢から覚めた時寂しかったのは、もう二度とあんな風に甘えられないと思ったから。でも、そうでもないと思った。夫にぎゅっと抱きかかると「今日は、子供みたいだね」と笑われてしまった。
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