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努力は “信仰” するな

サンドウィッチマンのラジオを聞いていて、ふといい刺激があったので書いてみる。

 

テーマは「努力」。
ありふれているようでいて、実は奥深く、落とし穴もある。

 

 

努力は報われるのか?

世の中にいくつかある永遠の問いの1つかもしれない。

私の現時点での結論を言うと、努力は報われないことが往々にしてある
(ほとんどの努力は報われない、という人もいる)

そして、努力は報われないことがあると知っておくことは、努力をする上で大切だと考えている。

 

これを知らないと、努力に対して厳格に見返りを求め始める。
結果が伴わなかったときに、努力した時間や自分を責め始める。
努力すること自体を楽しめなくなる。

努力観念がもはや「呪い」と化してしまうのだ。

 

それと、努力を一枚岩のように捉えるのは大きな誤りで、努力の仕方にも上手い下手があったりする。
そのあたりの努力の質については、後の章に委ねたいと思う。

 

 

学校は選択肢を増やす場所

じゃあ子どもの頃に「努力しなさい」と言われてきたのは間違いかというと、そうでもない。

学校というのは、社会で生きていく上で必要な情報を得るだけでなく、
情緒を豊かにしたり人格を形成したり他者の存在を認識したり、色々な役割がある。

そして、努力に絡めたところでいうと、努力する訓練をし経験しておくことで選択肢や解決方法を増やすことが、学校教育の大きな役割だと考える。

 

努力は報われないこともある。あるが、「努力する」経験をしている・やり方を知っていることで、今後の人生の中に「努力する」という選択肢が増える

小さい頃に訓練を受けていなければ、そもそも「努力する」という選択をとることすらできない。

選択肢を持っていることは武器になる。
そういう意味では、学校ってそれを訓練する場でもあったのかなと。

 

数学の話もそうである。
「サインコサインなんて習ったところで、卒業してから1回も使わないじゃないか」というあるあるの愚痴がある。

それはまったくその通りである。
まったくその通りではあるが、本当に学校教育における数学の狙いはそこにあるのだろうか?

 

教育分野に詳しいわけではないが、私はこう解釈している。

数学を教えるのは、直接的に数学の知識を使うためではない。
 
●社会を形作っている主流の考え方を知っておくこと
●論理的思考を養うこと
●知らない考え方を理解したり応用したりする経験をもつこと
 
の方が何倍も大事だ。

 

現代人はコスパや効率性を意識するあまり、あらゆる物事において「直接的」かつ「短期的」な成果ばかりを求めがちだ。

そうするあまり、大事なことを忘れることもあるので注意したい。
※この効率性の話は、また別で単体の記事にしたいと思う。

 

話を元に戻すと、訓練によって「努力する」という人生の選択肢を増やせることが、学校教育における1つの意義だと感じている。

 

 

努力信仰には陥るな

タイトルにもある通り、努力論はある意味信仰である

努力を一枚岩のように捉え信仰してしまわないよう、努力を分解し一定の距離感を保ちながらうまく付き合っていくことが肝要だ。

 

私が日本で生まれ育ったせいもあるかもしれないが、「努力」は不思議と根性論や自己犠牲を想起させる。リンクしやすい。

(私はどちらかというと、模索や試行錯誤やトライ&エラーやあがきという表現の方が好きかもしれない。)

 

努力至上主義・努力中心主義に陥ると、いつの間にか自分の心と体がボロボロになってしまうので注意が必要だ。

努力するとか諦めないという行為は、ある意味その対象物にしがみつく/執着するということ。
執着心はうまく使えばバネにもロケットエンジンにもなるが、当然ながら悪い方に転ぶこともあるのでそれは知っておきたい。

 

ただ一方で、努力することそのものがおもしろいという感覚は自分にもある。
努力しないと気づけないものや大切なものも当然存在すると思う。

努力そのものを否定したいわけではなく、努力を「信仰する」ことを否定したいのだ。

 

 

努力が影響しやすいもの/しにくいもの

努力は一枚岩で捉えてはいけない。

まず努力には、影響力の大きい領域とあまり影響力を及ぼせない領域がある。
※逆に言えば、一定レベル(元の状態から見た相対的なレベル)までであれば努力でカバーできることが多いということでもある。

 

具体例を挙げるとすれば、努力が影響しやすい規模感(難易度)や種別、と表現できるだろうか。

「日商簿記2級に合格したい」は努力である程度なんとかなっても、
「世界長者番付1位になりたい」は努力すれば叶うとは言えない。

「YouTubeでゲームの実況中継をして人気者になりたい」は努力である程度左右できても、
「あの人と結婚したい」は努力だけではどうにもならない部分もたくさんある。

 

がむしゃらに努力することが悪いとは言わないし、それも1つのやり方だけれども、
努力の性質や取り組み方に少しでも意識を向けることが、努力の「質」を高めることに繋がる気がするのだ。

 

 

努力は結果に繋がるかもしれない ‘1要素’ にすぎない

色々書いたが、結局努力は数ある要素のうちの1つでしかない。

人間が何かを成し遂げたり変えたりする上では、努力だけでなく環境やタイミングなど色々なものが影響する。

 

努力を「信仰」して努力至上主義に陥ることに私が危機感を抱くのは、人間をあり得ないほど強い存在として定義しているからである。

これは、私がいきすぎた自己責任論に嫌悪感を抱くのと根は同じだ。

自己責任論を突き詰めていくと、
「人間は周囲の環境をはじめとした外的要因に関係なく、自分の意思や行動で思い通りに人生を左右していける」
という考え方にたどり着く。

 

そんなわけないじゃん、て感じ。
もしそう思うのなら、もっと広く世界を見渡してみた方がいい。

私は「人間はか弱くて、環境やその他外部要因に大きく左右されながら生きている」という考え方をしており、
人間は想像以上にか弱い存在であるという定義をデフォルトに置くべきだと考えている。
(環境決定論?とかに近いのかな)

 

もちろん数ある要因の中で「努力」は自分でコントロールしやすく工夫のしがいがあるものだ。
取り組むことで可能性を高めることができる。

ただだからといって、「努力がすべてだ」と本気で思い込まないでほしいのだ。

 

 

「努力ストーリー」を消費する私たち

人間は都合のいい情報を自分に都合よく解釈するようにできている。

インターネットが普及したことによりそれが加速し、フィルターバブルやエコーチェンバーなどといった言葉で指摘されたりしている。

 

成功話・達成話と努力はセットで語られることが多い。

もちろん努力が功を奏した例は多いと思う。
ただ、うまくいったからといって必ずそこに努力が関係しているかというと、案外そうでもない気がする。

もちろん可能性を上げるためには努力はある程度効果的かもしれないが、結果にほぼ影響しないこともあり得る。
環境とタイミングがばっちり合って、ポンポーンと本人や関係者の想定を遥かに超えてうまくいくようなケースも中にはあるだろう。

 

さらに言うと、うまくいったことの裏に努力らしきものがあったとしても、それを簡単に「努力」という一言で丸めてしまうのは非常に違和感がある。

 

「マツコ&有吉のかりそめ天国」というテレビ番組があるが、あれは5月28日回の視聴者お便りコーナーでの「絶え間なく努力し続けるって素敵です」という話だっただろうか。

お便りをくれた視聴者Aさんは、
とある伝説的な海外ミュージシャン(ギタリスト?)が、高齢になった今でも体に異常をきたすくらいギターを猛烈に練習しているのを見て、
努力し続ける姿勢が素晴らしいな、という感想を抱いたそうだ。

 

これに対して、マツコさん・有吉さんの2人がこう言った。

努力という捉え方はちょっと違う気がする。
もちろんすごい才能があるのは間違いないけどあの人は単純に音楽が変態的に好きなだけで、努力しようと思って練習してたわけではないと思うよ。

私はそのミュージシャンをあまり知らなかったのだが、このnoteで自分が言いたかったことがドンピシャで出てきて、心の中で「そうそう!そういうの!」と叫んだ。

 

何が言いたいかというと、私たちは無意識のうちに「人は努力の末に成功する。努力は素晴らしい。」というストーリーを ‘消費’ しているのである。
自分がそう信じたいから「努力」と呼んでいるだけかもしれないのだ。

 

本当は、もっと人によって色んな感じ方があるだろう。

楽しくて夢中になっていたらここまでたどりついていた。

責任感と使命感が私を突き動かしてきました。

 

だから私は、本人からはどう見えていたか/どう感じていたかにもっと目を向けたい。

キラキラした努力ストーリーの消費を脇に置いて注意深く耳を澄ませたときにこそ、おもしろい何かが見えてくる予感がするのである。

 

 

努力は報われないこともある。
人間が自分でコントロールできる範囲は、めちゃくちゃ広いわけではない。

でも、だからこそ世界は残酷で、だからこそ美しい。

私はそう思うようにしている。

 

'21/08/05 最終更新(本文内容)
'22/06/19 最終更新(タイトル微修正)

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