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「社会人」を振りかざす日本社会

いつか書きたいと思っていたモヤモヤを題材にします。
それは

「社会人」ってなんだろう?

という思いです。

大学1~2年生の頃はそれほど気にしていなかった気がするのですが、やはり休学して職探しを始めたあたりからでしょうか。
こんな思いが頭をもたげ始めました。

社会人っていうけど、学生だって老人だって、みんな社会人だよな?


「社会人になるのか」「まだ学生だよね?」「社会人としての自覚ある?」
色んな使われ方がされていますが、私がモヤモヤしている理由はこれです。

1.(学生との対比の意味で使われることが多く)大学生をバカで未熟な存在だとする、抑圧が生まれやすいから。

2.学校を出て会社で働いて自分の稼いだお金で生活している人は偉くて一人前で、そうでない人は社会の構成員として価値が低いという暗示になりかねないから。


まず1について、日本では「社会人は汗水たらして働いて大変なのに、学生は呑気に遊べていいよなあ」という語りが定番です。
日本の大学生がゆるいという点には部分的に同意しますが、だからといって学生にマウントをとるこの社会の雰囲気が、私は心地よくありません。
学生でなくなった今も、学生を一律にバカにするような嫌な大人にはなりたくないという気持ちを、忘れないようにしているつもりです。

学生だって精力的に勉強したり、様々な活動に熱を入れたり、起業したり、おもしろい人はいっぱいいます。
大学を卒業して働いている人だって、「あなた大人ですか?」と聞きたくなる人や、しょーもないことをいつまでもやってる人がいます。

学問やビジネスで結果を出す人が偉い、と言いたいわけではありません。
学生でも働き始めた人でも、両者に決定的な違いはないし、すげーやつもバカなやつもおもしろいやつも、同じようにいるんだよということです。

もうそろそろ 社会人 > 学生 という構図はやめにしませんか?


余談ですが、私は常々、日本社会は子どもを必要以上に子ども扱いしていると感じています。
もっと責任をとらせろということではなく、もっと決定権や意見を表明する機会を保障すべきだという意味で。社会のみんなが耳を傾けるべきだという意味で。

ある意味保護は手厚いが、意見を表明する機会や決定権が強く管理され、受動的にならざるを得ない中学生~高校生。
様々な縛りから急に解放されるが、コントロールの仕方を誰も教えてくれず中途半端に浮き足立ってしまいがちで、かといって18歳になればそれなりの責任をとらないといけない大学生。

私には、子どもたちの成長過程におけるこのシステムが、ややちぐはぐに見えてなりません。


仮に、大学生がちゃらんぽらんで社会に悪影響を与えているとしましょう。
だとしても、それを見て「近頃の大学生は腐っとる!」と言うのはお門違いです。
なぜなら、この教育システムを作り維持してきたのは、私たち大人だからです。時代に応じて見直すのも大人の役割です。
それを、何も知らずにまっさらで生まれてきて、現行の教育システム・社会システムの中で育ってきた子どもたちのせいにするなど、まともな「大人」がやることじゃありません。


余談が長くなったので、元に戻しましょう。
もう1つの理由です。

この理由2は、理由1から派生したようなイメージなのですが、
「社会人=学校を出て会社で働いて自分の稼いだお金で生活している人」以外は立派な社会の構成員とは言えない、という考え方を助長する危険性があるという点です。


そもそも「社会人」という言葉がいつ日本で使われ始めたのか。
最新の辞書から過去の辞書に順に遡っていけば、おそらく辞書に載り始めた(=社会の中で一般的に認知され始めた)時期がわかるのでしょうが、高度経済成長の頃には既に使われていたのではないかなあ、という気が勝手にしています。

昔の日本は一億総中流とも呼ばれ中間層が厚く、学校を卒業して就職して結婚して年功序列で一社で勤め上げ定年退職というモデルが多かったため(あくまでも私のイメージです)、「社会人」という言葉も馴染みがよかったかもしれません。


ただ、これだけ生き方が多様化した今の時代において、「社会人」という言葉はむしろ分断を煽ると、私は考えています。
さきほども述べたように、学生と働く人、老人と働く人、失業者・無職の人と働く人、専業主婦/主夫と働く人、、などの間でです。

会社で働く人が偉い
⇒ 仕事ができて稼げる人が偉い
⇒ お金を持っている/生み出せる人は社会において最上位の価値がある
⇒ お金を持っていない/稼げない人は身分が低い
⇒ お金を持っていない/稼げない人は生きている価値がない

大袈裟でこじつけと思う方もいるかもしれませんが、言葉というのは想像以上に私たちの潜在意識にはたらきかけ、実体社会をその言葉に寄せていく力があると、私は感じています。


えー、堅い話ばかりしてきたので、少し緩い話も。

以前、とあるNPOのイベントで同席した参加者との一幕。
「学生さんですか?」と問いかけられ、「社会人です」という答え方をしたくなかった私は、

働いてます

という返答をしました。
あっと気付いた時には、もう遅し。
私が学生扱いされてムッとしていると受け取った相手は顔が一瞬曇り、その後の話もそれほど弾まなかったのでした。

私のように会社勤めの方であれば、「会社員です」が無難かなと思います。
気を付けてくださいね笑
(もちろん私のポリシーの話なので、周囲の知人・友人に無理強いする気はさらさらありません。)


私もゼロか百かの揚げ足取りのような、言葉狩りをしたいわけではありません。

でも、言葉の力はすさまじい。
それ一つで救われ、それ一つで魅了され、それ一つで絶望に至らしめ、それ一つで社会の構造変化をもたらす。

だからこそ、私は言葉を練りたい。言葉「狩り」ではなく、言葉「練り」をしたい。
人生を香りづかせ、ワクワクさせるものなら、なお嬉しい。
そんなところでしょうか。


言葉とは、生き物です。
生まれ、流行り、意味が変化し、略され、合体し、廃れ、、時代とともに移り行くものです。

私はこれからも、言葉を再定義・再解釈し続けていきたい。
そう思います。


※おまけ※
同じ違和感を抱いている人がいるんだ!と嬉しかったので貼っておきます。
   ↓↓↓↓↓↓↓↓


'20/08/25 最終更新(本文)
'23/08/26 最終更新(一部文言・レイアウト調整)

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