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雑記:「俳優の仕事」と「涼宮ハルヒの憂鬱」と

僕がアウトプットする場はブログだったりfb、メルマガ、パンフ、ラジオにpod castに生配信、単発のアフタートークやインタビュー、細々とあるがそのほとんどが演劇人としての言葉たちなので、せっかくならnoteはnoteというSNSの中から飛んできてくれる方向けの、なるたけ演劇以外のことで塩原個人が思っていることを書こうかなぁなどとボンヤリ思っていたのだけれど、いやいやたまにはガッツリエンゲキキジを書くのもいいか。

「俳優の仕事って何?」と聞かれたら何と答えようか?

「セリフを覚えて、順番通りに言う」と答えたら何となく0点回答な感じもするが、究極的に言ってしまえばその通りかもしれないから、俳優の仕事を正確に定義するのは難しい。「舞台上に存在すること」と何処かから借りてきた言葉で答えるのもなかなか良いだろう。アンパイヤによってはギリストライクは獲れると思う。

そもそも「俳優」ってなんだ。
僕は「俳優」から入って演劇を始めた人ではなく「劇団員」が入り口で演劇が始まっちゃったような人なので、現場ではしばしばその弊害が発生する。

その最たる例が時折シナリオに興味が出過ぎることだ。

これについてはちょっと説明が必要かもしれない。
僕が演劇を始めた劇団はかなり特殊で、シナリオについてあーだこーだと議論するのにとにかく時間や労力を費やす。体感だが稽古の7割くらいはシナリオの為にあてられる。脚本家が書いてきたものを「はい、では読んでみましょう」から始まる一般的な演劇の創り方とは異なるので、前提として頭に入れておいて欲しい。

話は戻る。

もちろん興味があるのは良いことだし、シナリオに詳しかったりシナリオのリテラシが高かったり、シナリオの読み込みが深かったり広かったり上手だったりというのはあって悪いものじゃないが、シナリオに踏み込み過ぎると「そんなことよりまずはちゃんと俳優の仕事をしろ」と叱られることは少なくない。

体調管理だったり、本や舞台や映画や様々なインプットだったり、演出家の意図を汲んだり相手役とのコミュニケーション作りだったり、充分な体力作りだったり空気の共有だったり、お肌の手入れだったり喉のケアだったり、社会生活で様々な価値観を獲得したり、セリフを覚えたり販促をしたり自己プロデュースをしたり、他にも挙げればキリがないほど俳優には必要なことがある。

だが「劇団員」から演劇を始めてしまった僕にとって「そんなことよりまずはちゃんとシナリオの話をさせてくれ」になってしまうことが、ままある。これはしばしば、制作の邪魔になってしまう。そもそも、シナリオを書くのがシナリオライターの仕事な訳だから、変に口出しする必要は本来はないのだ。

だからなのか、逆にたっぷりとシナリオの話をさせてくれる現場に当たると、オラワクワクしてしまう。

シナリオの話は、楽しい。

もう全然、俳優じゃない。俺。やばい。
好きな作品の、シナリオの、好きな部分について話してる時が、一番輝いてしまっている。やばい。俳優を取り戻せ。Iはshock.

そんな中、後半の話題に入る。

先日、pod castの最新回の収録で『涼宮ハルヒの憂鬱』について話した。(配信は4〜5月頃になると思います。)

『涼宮ハルヒの憂鬱』は2020年代にものづくりをしている我々にとって、シナリオの話をする為の叩き台としてはマストな作品だと思う。マストは言い過ぎかもしれないが、色々な文脈で登場するので見ていないと議論に参加しづらくなってしまう作品の一つではある。

最近のハリウッドやアメドラのシナリオ作りではゲースロ(ゲーム・オブ・スローンズ)がマストらしいが(やばい、見てない)シナリオの話をする時に「あの作品のあの要素」という文脈でよくよく挙がるタイトルというのは、ものづくりする人間として押さえておきたいものだ。

例えば
「長いツンからのデレ」の文脈で『ドラゴンボール』のベジータや『美味しんぼ』の海原雄山が挙がるように、
「夢だけど夢じゃなかったー!」の文脈で『となりのトトロ』や『夢をみる島』が挙がったり、
「タイムスリップや世界改変」の文脈では『BTTF』や『戦国自衛隊』が、
「負けヒロイン」の文脈で『いちご100%』の東城や『とらドラ!』ではあーみんが一番ですし、
「萌えのガワを被ったゴリゴリのSF」では『魔法少女まどかマギカ』、
「青春とものづくり」の文脈で『桐島、部活やめるってよ』や『色即ぜねれいしょん』とか
「ループもの」の文脈で『ビューティフル・ドリーマー』や『ひぐらしのなく頃に』なども挙がったり、
シナリオ作りでは色々な作品が一部の要素を抜き出して様々な文脈で語られたりする。逆に同じ作品でも、どの文脈で語るかによって挙がったり挙がらなかったりが面白い。

さて、ワザとらしい非常に偏った例の挙げ方をしたので賢明な読者諸氏は気付いたかもしれないが、まぁ要するに『涼宮ハルヒの憂鬱』の持つ文脈である。

この作品は「萌えのガワを被ったゴリゴリのSF」という文脈で語る方が一番多そうだが、「長いツンからのデレ」という文脈で語る方も相当数いるだろう。ここで言うツンデレはもちろん、ハルヒではなくキョンのほうだ。実に14話に渡る長期ツン。そして「負けヒロイン」は言うまでもなく劇場版『涼宮ハルヒの消失』の長門や古泉らであろう。
「ループもの」「タイムスリップや世界改変」はお察しの通りエンドレスエイトや朝比奈みくるの時間移動や劇場版の異世界編で、「夢だけど夢じゃなかったー!」は第1期最終話のハルヒのポニーテールに他ならない。余談だがあの場合はファーストキスにカウントされるのだろうか。

このように、どんな文脈で語るかによって幾らでもシナリオの話が尽きないのが『涼宮ハルヒの憂鬱』の好きなところなのだが、個人的にはシンプルに「青春とものづくり」の文脈で見るのが結構好きだったりする。だって演劇人だし。

高校時代、演劇に対する興味は全くなかった(野球部だった)ものの、仮にも「文化」の文言が付くにも関わらずほとんどのクラスの出し物が飲食店という「食文化祭」に物凄く疑問を持ってしまい、そんなに飲み食いしてーなら「まんパク」に名前変えろやと思いつつ(「まんパク」大好きです)せめて俺のクラスだけは…とやったこともないクラス演劇を提案したところ多数決で負け、中庭でとうもろこしとフランクフルトを焼きながら「お前ら、こんなのあと1、2年もすりゃバイト代もらいながらやることになんだからな、、、」と悪態をついていた僕にとって、SOS団が自主映画を作っている姿は輝いて見えた。

現にウチの学年では1クラスだけ自主映画制作をしていたクラスがあって、めちゃくちゃ楽しみにしていたのだが結局文化祭当日までに編集が間に合わず上映できずとなってしまい、そのクラスの女子達が泣いていたのを見て内心「(いいなぁ、、)」と思う反面「ハハ、、」と乾いた風だった。
だから谷口が「映画だと?フンっどうせゴミみたいなものになるに決まってるぜ」と言ったのに対しキョンが「そんなことは言われなくても想像がついている(中略)少なくともハルヒは文化祭に向けて行動を起こしてる、関わろうとしてる(中略)どんなにくだらんもんでも、ここで文句言ってるお前より作ってるハルヒの方がマシだ!」と胸中荒立てながらも、それ以上に自分も谷口と同じ穴のムジナなことにより腹を立てるシーンで、すごく泣いてしまった。

この文脈でいくと文化祭のライブシーンも泣ける。
もっと言うとエンディングのダンスもきっと、彼らの部活動の一環での創作ダンスだと考えれば、そこでも泣けてしまう。

「青春」は渦中の人たちはそれと気付かないけれど、振り返ってみればかくもかけがえのないものと、大人になった朝比奈みくるの目線で高校時代の残滓として語られるのがまた、憎い。あれは俺たちだ。あれだけ色々あったSOS団も、大人になって働き子を産み育てているうちにいつの間にか思い出すことも少なくなっていくのだろう。
「涼宮ハルヒシリーズ」完結の先には、古泉の超能力は消え、長門は普通の学芸員に、朝比奈みくるはお嫁さんに、ハルヒとキョンの間に子供がいてさらに孫がいて、元SOS団は僕らの隣人と変わりなくなり、そこは僕らのよく知っているこの世界に繋がっているのだろうか。

とはいえ僕は演劇人だしこの先もものづくりをしていく人間なのだから、大人になりつつもいつも心にSOS団を、と想像力と面白だけは持ち続けようと思うのだ。


「だって、その方が断然面白いじゃないの!」
(『涼宮ハルヒの消失』より抜粋)

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