主体性について(論文紹介&感想)

前回、以下のnoteで、速水敏彦(2019)『内発的動機づけと自律的動機づけ 教育心理学の神話を問い直す』金子書房。 (以下、速水(2019))について紹介させていただきました。

読んでいただきありがとうございました。

今回は、それを基に授業案を作ろうと思っていましたが、作り切れそうになかったので、動機づけに関連する概念である、「主体的」について、考察された論文について紹介しようと思います。

読んだ論文は以下の論文です。

・吉川雅也(2020)「有機的統合理論における自律-他律パラダイムを用いた主体性概念の理解―“主体的に行動しなさい”は矛盾しているのか ―」『関西外国語大学 研究論集』 第111号、pp.193-211。

※以下では、吉川(2020)と表記します。

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吉川(2020)においては、生徒指導提要及び有機的統合理論を基に、主体性について考察している。

この中で、主体性とは、自律や自己決定度合いについての最上位概念ではなく、その中間に位置するものであるとしている。

(図式化すると以下のような物になるという。)


受動的or客体的⇔主体性⇔能動的or自律


また、吉川(2020)では、主体性を「与えられた条件や指示のもと(手段)であっても自分なりの意味づけや工夫によって自分事として取り組むこと(自律)」(p.209)と定義づけている。


このことから吉川(2020)では、能動的ないし自律と、主体性を分けており、どちらを目指すかによって指導が変わってくると述べている。

能動的、自律的な行動は、個人の中の考えをもとに行動するために、往々にして授業の枠組み(教師のねらい)などを超えるないし逸脱することがあるという。

これは一見、良いことのように見える。

しかし、社会科の授業で「国語の勉強をしよう」と意志を持って、授業に臨んだ場合、確かに能動的な行動ではあるものの、授業の当初目標を達成していないことになる。

この際、教授者が、自律性や能動性を求めているのであれば、これを良しとせねばならない。
つまり相当な覚悟が求められるとする。

一方で、主体性を求めるのであれば、意志を持って別の教科の勉強をするという行為は授業の目的にそぐわないために、良しとされることはない。


上記のように、能動的ないし自律的と主体性は異なるものとして整理される。

そして能動的ないし自律的の方が、児童生徒の興味関心に忠実であるために、能動的ないし自律的から主体性へと向ける際は、学習者の自律性を失わせることもあるであろうから、注意が必要であるという。


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以上、吉川(2020)についての簡単な整理でした。

主体性というものについて、類似概念との比較が行われており、違いについて把握することが出来たなと思います。

一方で、著者が5節のまとめにて言及している通り、上記の定義は理論をベースに構想されたものです
そのため、現実に置き換えると多少無理がある気がします。

例えば、能動性について、教師が用意した授業の目標を逸脱することは、基本的に主体性があると見なされないとされます。

一方で、教師の目当てが低次元であった場合、それをより高度な物へと発展させようとする働きかけがあった場合、主体性がないと切り捨てることはできないでしょう。

また教科の授業において、知識・技能、思考力などを向上させようとしていると見れば、あくまで主体的であるともいえます。

つまり、どこにねらいとなる基軸を置くかで、主体性なのか、能動性及び自律性なのかが変わるのではないでしょうか。

他にも主体性については、「学習を調整する」や「見通しを持つ」といった言い方もされています。

そのため個人的には、こういったものも含めて、主体性について考察してみたいなと思いました。

そこで、次回以降では、主体性についての言説を集めて、整理していってみたいなと思います。

その際、西研(2019)『哲学は対話する プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉』筑摩書房、2019年。(以下西研(2019))を参考にしてみたいと思います。

この本では、いかにして信頼に足りうる共通認識を形作るかについての提案が行われており、示唆的であると思います。

そこでまず次回のnoteで西研(2019)について整理し、ここで言及されている哲学対話について整理したいと思います。

そして後に、主体性について哲学対話をnote上ではありますが、試みていきたいと思います。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

また次回もお読みいただけると幸いです。

失礼します。

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