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小説❤︎春風に仕事忘るる恋天使 第二十話

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 調印が終わると買収後の天界と人間界を繋ぐシステム開発をしていたクリスタルビジョンの社員たちは早々に人間界に引き上げ、やがて玲子も最高のディナーとワイン、そして買収合意の礼を言いつつ交渉と時の部屋を後にした。

「俺たちも明日には人間界に戻るか。卒業シーズンまでの数日の間にシステム実証を終わらせなきゃいけないしな。ま、とはいえ、今日はこのままここに泊まろう。さすがに疲れただろう」
「そ、そうですね。大賛成です」

 そして、昨日までとは打って変わって静寂な夜。久々の大浴場を堪能し部屋に戻るが何か物足りない。確か……先ほどのディナーのワインが残っているはずだ。俺は無人の厨房に潜りこむとワインセラーから真空栓されたマルゴーを取り出す。そして、真空栓をシュポッと抜くと、またあの最高の香りが無人の厨房に溢れ出す。

「お、お、おひとりで飲むつもりですか?」

 その声を聞いてびっくりして振り返る。そこには美香が立っていた。そしてその手には……

「デキャンタ? と言うことは、同じ目的か?」
「ふふふ、ま、まぁ、そうかもしれません」

 そこからの美香の動きは素早く洗練されていた。左手のデカンタの角度と右手のボトルの角度がまるで生き物のように、もしくは機械仕掛けのオルゴールのように、いや、まさに天使の呼吸のように美しく滑らかで緩慢な暖かさで、ワインは流れていることすらも感じさせずにデキャンタへと滑り込んでいく。

「……すごい技術だな」

 俺は独り言のように呟く。本心だった。そこらのソムリエを遥かに超えた腕前だ。やはり美香はどこかの英才教育お嬢ちゃまなのだろうか。

「お、美味しそうですよね。翔さん、一緒に飲ませてもらっても良いですか?」
「もちろんだ。今日は美香も頑張ってくれたな。美香のおかげで玲子さんの合意を引き出せた。ぜひ一緒に飲んでほしい」

 俺は美香に渡されたグラスを掲げる。美香も嬉しそうにゆっくりとグラスを持ち上げる。グラスとグラスが少し触れたか触れないか。二人はどちらからともなく口に出した。

「乾杯だ」
「乾杯です」

 俺はマルゴーを軽く口に含ませる。その時点で口の中全体に、そして体全体に多次元の香りのハーモニーが駆け巡った。やはり、このワインの熟成は単なる加速熟成ではない、未知の香りを内包しているようだ。

「そ、それで、一つ聞いてもいいですか?」

 俺はマルゴーの美味しさに気を抜いていたのかもしれない。マルゴーを見事にサーブした美香に対していつもとは違う感情を抱いたのかもしれない。なぜか、俺はこう言ってしまったのだ……

「ああ。なんでも聞いていいぞ」

 美香は眠そうだが真剣な眼差しで質問する。

「し、翔さんは、し、真の交渉相手が誰か、わかっていましたよね? だ、誰だったんですか?」

 俺は腕を組み目を閉じ、これまでの経緯を思い返した。

 高野は一発勝負のオークションをすぐに受け入れた。つまり玲子の協力者ではなくキューピッド株式会社の執行役員の誰かに雇われていたということ。
 当事者のラファエル恋愛部長、その右腕と言われるサリエル副部長、天使データセンターに出向中のイオフェルセンター長を除くと、男性の執行役員は残り二名。四大天使の一人ウリエル熟年愛部長か、七大天使の一人ラグエル管理部長だ。
 ワインを二本用意したのはそのどちらかを見極めるため。仮面男はパスクエッタのキーワードにつられて若いマルゴーを選んだ。つまりキューピッド株式会社のパスクエッタワインの風習だけでなく交渉と時の部屋で行われている超高級ワインの加速熟成を知っている天使だということになる。

「……君の上司。ラグエル管理部長が仮面男だ」

 管理部長なら恋愛部の予算額を知っている。一方で口頭でラファエルにさらなる投資予算増額を認めさせたことはまだ知らないはずだ。だからこそ俺は予算上限があることを強調した。

「う、うそっ……な、なんでわかったんですか? 理由は? ね、ねえ、理由を教えてください」

 ああ、しまった。何でも教えるなんて言わなきゃよかった。今回の仕掛けを全部説明するのは面倒くさい。あ、そうだ。いいアイデアを思いついた。こう言えば一言で納得するんじゃないか?

「実はな。ラファエルの神通力を使ったんだ」
「神通力って……あの羽根ですか?」
「ああ。仮面の中の素顔を見ることができた。だからわかった」

 それを聞いて、美香はみるみる顔を真っ赤にする。

「も、もう。そ、そんな大事なものを使うならせめて事前に相談があってもいいじゃないですか。ひ、ひどいですよ、まったくもう」

 美香は呆れた表情を浮かべながらも、マルゴーをゆっくりと回して優しく微笑んだ。


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