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湘南 My Love--夕暮れの腰越駅で街全体が微笑んで見えたとき、ずっと好きで住んだこともないのに、一〇〇回以上遊びに来て、五〇〇回以上作品にも書いた湘南の街に住もうと決心した日のこと--

 僕が初めて湘南に来たのは、小学校六年の春だったかな、よく覚えてないけど、学年で新幹線貸し切って、修学旅行で鎌倉と箱根に二泊三日したときのことで、修学旅行を担当した女性の教師っていうのが、どうも変わった女性で、問答無用で宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を全員に暗誦させたり、「数学なんて呑み会の計算に使えればいい」とか平気で小学生相手に口にしたりするとんでもない教師だったんだけど、そんな教師にあたった不幸の中にも幸いはあるかな、修学旅行だけは湘南で張ってくれた。
 それ以降、上京してからずっと楽しい気分に浸りたかったり、なんとなく嫌なことがあったりすると、だいたい湘南に来てたし、友達と遊ぶときも湘南はいいところだからって必ず遊びの提案した。
 芦奈野ひとしっていう、『月刊 アフタヌーン』で『ヨコハマ買い出し紀行』っていうマンガを連載してた作家がいて、そのマンガを大学のとき、勉強の合間にしつこく読んでたけど、その作品の舞台も三浦半島、だから湘南だ。
 この作品を読むと、受験勉強が辛くなって、一日くらいゆっくりするかってことで、三浦半島の南端の港町までバス乗って行って、結果、ゆっくりするどころか歩き通しの一日で、次の日は疲れ切って、次の日もあんまり勉強になんなかったのを覚えてる。
 俺がしたいのはそんな話じゃなくて、その日の夕暮れ過ぎ、陽が落ち切ったとき、三浦半島の寂れた漁港から見た島と島を繋ぐ橋が、光の粒を夜の闇の中に瞬かせてる瞬間で、このときからなぜか湘南だけはもう裏切れないような気がしてた。
 文学ははじめて今年で十三年になるし、数えてはないけど、作品にはもう湘南に少しでも関連がある作品っていうのは、ゆうに五〇〇回は書いてるんじゃないかな。
 実際に来たのは、一〇〇回ちょっとだと思うんだけど、そのくらい湘南が好きで、いつか湘南に文学教室の事務所建てたいなとは漠然と思ってた。
 その下見じゃないけど、文学教室とかこれから作る文学ポータルサイトのブランディング、要するにキャラ付けのために湘南の力を借りようって魂胆もあって、この頃、湘南のホテルに滞在して、一生住んでもいい土地がどうか、リモートワークを駆使しながら仕事しつつ、見極めている。
 この日はからだが重くて、仕事そのものはやる気十分なのに、頭がぜんぜん冴えない。それでもこういう場合、寝てるともっと悪化するから、心機一転するために、鎌倉のヨリドコロっていう食堂に江ノ電に乗って行くことにした。
 建物は木造で古いし、入り口の戸もガタガタいうくらい立て付けが悪い店で、いいところばかりでもないけど、店員の愛想の良さと、ほっけ定食、それについてる味噌汁が尋常じゃないうまさで心の底から大歓喜し、味噌汁について聞いたら、気立のいい女の子の店員、「胡麻味噌を使ってるんです」ってなことを言ってた。
 店を出た後も、湘南移住のことを考える。
 正直、迷ってた。
 東京なら友達も当時やってたコトノハ文学教室の講師やメンバーも何人もいるけど、親戚以外には湘南に知り合いはいない。これからの人間関係はどうやって作っていくんだろう。突然、湘南に住んだら周りから変な顔されるんじゃないか。一生、この土地に住む覚悟はあるのか。
 この頃、北朝鮮のミサイルのニュースとか、不幸でネガティヴで暗いニュースばかりが嫌に目について、気分が乗らないことも相まり、考え方もどんどん負ける方向に向かっている最中、江ノ電から遠い水平線の向こうに夕陽が沈むのを見た。
 TUBEの「夏を待ちきれなくて」がイヤホンから流れる。

 波音が騒げば やがて夏の合図
 涙は似合わぬ季節
 きっと素直になれる 許せる気がする
 冬を越せる 恋な Say Goodbye

 TUBE 「夏を待ちきれなくて」より 

 何を迷ってたんだろう。もう心は決まってるのに。そんなのずっと決まってた。なのになんで信じられなかったんだろう。周りの意見に振り回されて。誰かに脅されたら、なんでも明け渡すのかお前は? 湘南に骨埋めるって覚悟決めたんなら何があっても貫いて、生きて死んでくべきなんじゃないのか。病めるときも健やかなときも、ずっと自分を裏切らなかった土地に。
 腰越のクリーニング屋に寄るために、駅で下車する。
 ちょうどイヤホンからは「湘南 My Love」が流れていた。
 どんなに危険なものから恫喝されたって、一回好きだって決めたら自殺してでも貫くんだろ。
 そう思って顔を上げたとき、江ノ電から降りた男性の駅員が手を振って笑ってた。夕暮れも過ぎて、街は静かに翳っていく瞬間、不思議と街全体が微笑んでる気がした。
 一生湘南で生きて死んでこう。これから何があるかなんてわかんないけど、それでもこんな気分になったのははじめてだから。
 人間、出生地は選べないから、故郷が外れクジだってことは現実にある。それでも、好きな土地に住み直せば、人生はやり直せるもんなんだろう。
 これが、俺が湘南に住むことを決意したエピソード一つ。
 ちょっとしめっぽいテイストで決めたけど、どっちにしてもTUBEは最高だよ。なんたって湘南の遊び人だからさ。
 みんなもTUBE聴こうね。芦奈野ひとしのマンガも最高だし。
 そんじゃまたねグラッツェー。
 
 
了 


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