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地獄に仏は夢逢瀬

 俺こと、阿比留あびる二十八にじゅうはちは『選ばれた』人間である。

 何者とも知れぬ上位存在に、『選ばれた』人間である。

 根拠はひとつ。俺の拾った仏像にある。

その仏像は、生きている。そして。

 そして。…………



KI…


 俺は小学5年の頃から、上位存在たる何者かに『選ばれた』という自覚を確然と抱いていた。かの時分俺の周りには、同志を騙って俺に接近し、あたかも『選ばれた』かのように弁舌する同級もいたものだ。歳を重ねる毎にそういった贋物どもは淘汰され、或いは俺が直々に跳ね除けることによって、俺という本物だけが残った。

 大学まで進学すると、俺と言葉を交わした人間はきまって俺と距離を置くようになった。俺は気高く高尚な人間であるから、凡夫の彼らも本能的にそれを感じ取り、直に触れるのを躊躇ためらうのであろう。

 それでも、特別に鈍感な男が1人、懲りずに俺に話しかけてくる。その男、名を綿丸わたまる涙助るいすけという。小学生の時分に知り合ってからというものへばりついてくる小判鮫のような男で、全く迷惑している。

 ややこしい話だが、彼の体型は小判鮫の尖鋭的な形とは似ても似つかない。敢えて魚で喩えるなら河豚ふぐだろう。俺より頭2つ分背が高く、横幅も言わずもがな。そんな巨体が俺のような孤高の人間に張り付いてくるのだから、目立って仕方ない。

 綿丸とは中・高を通してクラスすら離れたことがなく、同じ大学で同じ学部。そのうえ同じ学科に進学し、同じ講義を履修している。なんたる不運であろう。たとえ遠くの席にいたとしても、授業が終わると俺に手を振り、満面の笑みを湛えてこちらに駆けてくる。

「もはぁ、もはぁ! そこにおわすのはアビー君じゃーないの! これは数奇!すきじゃーないの!」

 苗字の阿比留を文字り、綿丸は俺をアビーと呼ぶ。全く、無礼千万。馴れ馴れしい。許した覚えはないが、今更訂正するのも至極面倒である。

「先週も会ったろうが。何が数奇だ。貴様の気の抜けた、牛の大欠伸の如き呆け面を、毎授業見かけねばならぬこちらの身にもなってみろ」

「もはぁ、もはぁ。手厳しいことを仰るねぇ。ところでアビー君はどーでした? 先程の講義は。刑法は基礎から流石に難しいんだねぇ、僕にはサッパリでしたよ」

「綿丸、貴様は何も分かっていないな。気を抜きすぎじゃないのか?
 その浮輪に似た腹回りの贅肉を萎ませるために敢えて気を抜いているのなら止めはしないが、法学部に入ったのだから刑法程度、嗜みだぞ。俺は講義中に判例をいくつか調べて列挙しておいた」

「ほほー、整ったノートじゃーないの。流石はアビー師匠、やることが違う! そこに痺れる、憧れるというやつ!」

「……だがまぁ、講義の内容はさっぱり聞きとれなかった。教授め、この俺の席まで届くような声で説明しないとは、職務の怠慢だ。嘆かわしいことだな。学究の徒が集うはずの大学も、ここまで零落したとなると」

「高齢の御仁でしたからねぇ、多少は仕方ないじゃーないの。それに、『刑法を面白がる人間に碌な頭の奴はおらん』って仰ってたしね、アビー君」

「その通りだ。そもそも法律の枠に囚われた思索は取るに足らんからな」

「もはぁ、痛いとこを突くねぇ。でもそんならなぜアビー君は法学部に来たんだい? 法学部はその枠にかっちり嵌る学部じゃーないかい?」

 俺はノートを手早く仕舞い、足早に教室を後にした。背後から綿丸の「もはぁ、もはぁ!」と呼ぶ声がするが知るものか。俺は知恵袋ではない。答える義理のない質問に逐一丁寧に解答していられるほど暇でもない。その程度のことは。街頭で若やかな女性が溌剌と声かけする一見して訝しげなアンケートに、わざわざ立ち止まって回答するお人好しにでも尋ねていろ。俺には約束があるのだ。


 この大学の食堂は値段に反して量は多い。だが味の方はといえば。雑な炊き方でべたべたになった白米の上に、古くなり生臭いキャベツの微塵切り。カツは衣だけ分厚く、肉は固い。そこに酸化しかけたウスターソースをかけるのだから、1番人気のソースカツ丼も美味いわけがないのだ。小食かつ菜食の俺にとって、量の多い不味い肉と飯など拷問に近い苦行である。

 それらを踏まえても尚、俺はこの食堂で食べる。特段理由はない。理由はない。約束はあれど理由はない。

 小さなテラスが食堂に隣接している。ガーデンテーブルが4脚並んでいるだけの。

 ソースカツ丼とサラダの乗ったプレートを持ってそのテラスに出ると、隅の席に1人の少女が。膝に手を置いて微動だにせず、眼前に置かれたパスタプレートを見つめている。俺は彼女の真向かいに腰掛けて、

「食べないのか」

と訊く。彼女は目線をパスタから逸さずに答える。

「指を差さないで麺の本数を数えてるの」

「……何故なにゆえ?」

「なんとなく。冷めちゃう前のタイムアタックチャレンジ。喋りながらでも数えてるから、……あ、うーん、どこまで数えたか分かんなくなっちゃった、まぁいっか!」

 ケラケラ笑いながらパスタを頬張り始めた彼女が、俺の約束の相手。嬉里うれり紗陽香さやか




 彼女との出会いは、学部の新歓である。俺と彼女が引かれあったのは神の思し召しに違いあるまい。何故なら俺自身、新歓への関心は微塵もなかったし、まして行く気なぞ更々なかったのだ。が、どこからか「ケーキがタダで食えるらしい」という情報を得た、ケーキと牛肉には目がない綿丸が、俺の腕を引っ掴み。その場に強引に連れ込んだのだった。

 1人で行けば良かっただろう。なぜ俺まで。不満を感じ取ったのか、綿丸はすぐに俺から離れ、ケーキを探しに行ってしまった。俺は独り、丸テーブルを前に取り残された。

 神に選ばれた俺は常に独りを全うするべきである。しかし、孤高の俺のすぐかたわらで大勢の凡愚どもが徒党を組み、延々と駄弁っているさま。否が応でも端目に捉えてしまう。すると、まさかこちらが道を踏み外しているのではないか、真に正しいのは彼らではあるまいか、そんな欺瞞も生まれてくる。俺とて無欠ではない。

 絢爛たるシャンデリアの下、大きな丸テーブルを囲むように生徒たちが喋喋喃喃と。否、彼らは猿だ。出された菓子を貪り、手を叩いて笑い、卑しい目と口をのべつ幕なしに動かす。彼奴らは同類と交わることでしか己を見出せぬ。俺とは数段違う。

 猿の群れを眺めて、俺はなんとか人語を覚えた「ニンゲン」が紛れていないか、探した。猿だとて侮らぬ。玉は時に、光を持たない石の中に混じっているものだからである。だが、どの人間も出立ちから貌立ちまで尽く酷似していおり見分けがつかない。……この際、綿丸でも戻って来ないものかと思い始めた矢先であった。

「食べないの?」

 背後から突然、白雲もふわりゆらりと流す、長閑な春風のように柔な少女の声が、耳に触れた。俺は動揺したと思う。しなかったかもしれない。いや、しなかったであろう。けれども俺は思わず席を立ち、三歩ほど退がりながら上ずった声で、

「ナァ!?」

と言ったと思う。動揺したわけではない。

 声をかけてきた少女こそ、嬉里その人である。嬉里は俺の席の前に置かれたショートケーキを指差し、再度、

「食べないの?」

と訊いてきた。

 俺は生クリームというものを食べ物と認識したことがなかったし、苺に関しては『面皰だらけの思春期少年、その紅潮した顔面』に見えて仕方なかったため、正直、ショートケーキは嫌いだった。

「そ、……そ、……食べ……き………」

 俺はこの日、喉の調子がすこぶる悪かったようで、即座に声は出なかった。心なしか顔も熱かった気がする。

 彼女は俺の返答に首を捻りつつ、再度尋ねてくる。

「嫌いなんだ? ショートケーキ」

 俺は2、3度小さく頷いた。

 と。

 嬉里は俺が頷くのとほぼ同時に、若干顰めていた顔をみるみる綻ばせ。喜色満面、叫んだ。

「わたしもなの!」

 その叫びに。ざわついていた周りの猿どもが、一斉に視線を俺たちに向けた。気がする。というのも、俺はその瞬間、なぜだか得も知れぬ心地良さを感じており。記憶が定かでない。

 ただ。嬉里の黒瑪瑙くろめのうのような瞳の煌めきと。紅の唇だけを、憶えている。はっきりと、憶えている。





 その日意気投合した俺たちは、週に2度、こうして2人で昼食をとることにしている。嬉里とは学科が違う。そのためなかなか授業で会う機会はないが、心を交わすにはひと時だけで充分だった。

 昼食が終わると、嬉里はスマホで流行りの音楽を聴く。今時珍しく、有線イヤホン。苺のピアスが光る耳に、空色のイヤホン。そのRスピーカーを俺に差し出してくる。俺は深呼吸をしてそれを受け取り、左耳に挿す。嬉里が薄らと微笑んでそれを指摘する。動揺したから間違えたのではない。敢えて左耳に挿したのだ。動揺など断じてしていない。

 イヤホンを分け合って聴くと、自然と顔は近づく。嬉里は俺の方にぎゅっと詰め寄り、微笑んだ。

 息遣い。肩が触れる。吐息。髪が揺れる。溜息。嬉里の体温に肌がざわめく。

 彼女の聞く流行の音楽は、それはもう相反するような攻撃的な曲調で。けれども、その刹那に滴る感情は、風呂上がりの髪のように温かな柔らかさを抱いている。

「どうだった?」

 嬉里は興味津々といった面持ちで俺に曲の感想を問いかけた。実の所俺は殆ど曲を聞いていなかったが、

「……まぁ、つまらんものだな」

と、切って捨てた。すると嬉里の表情はパッと明るくなる。花火のように。

「やっぱり。アビーくんならそう言ってくれると思った。わたし思うの。別にこんなこと詞(ことば)にしなくて良い、って。歌ってる人の声は好きだけど、これじゃ作品っていうより感情だよ。感情を文字起こししたって作品にはならないでしょ。
 この歌が流行ってるって言うんだから世も末ね。音楽と愚痴の区別も付いてないんだもん、世間はさ」

 嬉里は流行の音楽をよく腐す。大衆の間で流行する雑物など塵芥に等しき取るに足らぬもの。そう捉えている俺にとって、嬉里のこういった扱下ろしは痛快であった。それは初めて感じる心地良さの一種であったし、幾千時間でもこれを俎上に載せていたいとも思った。もしそんな時間があれば、他の誰と交わす時よりも充実するに違いないのだ。

 嬉里が「次はこれね」と言って、別のロックバンドの曲を流しはじめた。バンド名は『第六天魔王』。俺は音楽に造詣が深くない。故に知らぬ。この曲が良曲なのか、判別はつけられない。造詣が深くない、のだ。

 嬉里は苺のピアスを人差し指の先で弄りながらこう言った。

「良い曲でしょ。ボーカルの声が良いんだよね。わたしこのバンドすごく好きでさー。ドラムの人が死んじゃって解散の危機だったらしいんだけど、わたしはドラム変わってからの方が好きなの。知らない? ま、あんまり有名じゃないしねぇ」

「だが良曲だな。初めて聞いたが、なんとなく判るぞ。コード進行とか、この世間を尖った目で見た歌詞とか……その辺りが」

「アビーくん流石だね!やっぱりよく解ってるなぁ。ほんとに歌詞イイんだよ。……ね、明後日予定ある?」

 土曜は綿丸からも外出に誘われていたのをふと思い出したが、これは毎週のルーティンであり、遠出するわけでもない。「特段ないな」と俺は答えた。

「じゃあさ、ウチ、来る?」

 心臓が前方屈伸2回宙返りをした。気がした。脈打つ音が首を伝って耳まで響く。

「……良いのか」

「アビーくんなら良いよ。ぜんぜん。このバンドの曲もっと聴いてほしいし。一人暮らしだからちょっと汚いかもだけど、……明後日11時に大学の門の前に集合ね。待ってる」







 アビーくんならそう言ってくれると思った。流石アビーくん。アビーくんなら良いよ。ぜんぜん。

 俺は軽く唇を噛んで、綻ぶのを抑えながら帰路に就いた。足取りは軽い。風も騒がない。空はどこまでも青い。同じ道で帰る綿丸も今日はいない。全てが俺を祝福している。そんな気がした。

 浮かれすぎたからだろうか。いや、断じて浮かれてはいないのだが、他人から見れば俺は浮かれているように見えたかもしれない。そのせいだろうか。特段寄り道をしたつもりはないにも関わらず、俺は知らぬ煉瓦道に出ていた。見たこともない喫茶店がある。京緋色の日差しに白文字で「ふぁんたずま。」と。近所にあった覚えはないが、新しく開店したのだろうか。

 その店の前に、「ご自由に」と書かれた段ボールが一箱、無造作に置かれている。中を覗くと、木彫りの仏像がぽつり、独り。俺には、その仏像の顔がまるで泣いているように、見えた。

 見えた。

 右手で毅然と天を指すその仏像は、孤高。気高く、故に美しい。それは正に俺の生き写し、俺自身のようで。とても他人事とは思えない。

 気づくと俺は家の前に立っていた。孤高の仏像を抱えて。湿った風が流れる。雨雲が近づいているようだった。









SHO…



 凡百の猿どもと同等のありきたりな生を享受することを、俺は許されていない。そんな俺でも所謂いわゆる、予想外の事象はある。ありきたりでない生に選ばれたのだから、あらゆる可能性を考慮して過ごさねばならぬことは重々承知しているつもりだった。が、手で水を掬うと少量は溢れていく、つまるところ、人間である限り取り零しがあるのだ。そして俺も『選ばれた』とはいえ、例に漏れず人間である。今回の取り零し。これがまた厄介だ。



 土曜の19時ごろだったか。嬉里の家から俺は帰宅した。あの場にそのまま居たとしたら、俺は理性を失う自信があった。たがが外れると全く碌なことがない。そもそも俺と嬉里は交際していないはずであるし、手順が違う。世の中には順序を考慮せず、欲望の衝動に従う馬鹿者もいるのだろうが、俺は馬でも鹿でもない。料る前に摘み食いをしたところで刹那的な快感に過ぎんのだ。その程度で腹は満たされない。

 『愛』は、満たすことだ。

 ヒトの欠けは人でしか満たすことができない。欠けた場所を埋めるためにヒトは人を渇する。ヒトは人を望む。その状態が、『恋』だ。『愛』は違う。互いの欠けが凹凸の如く互いを満たしあったとき、初めてそれを、『愛』と呼ぶのだ。望むのみでは愛とは呼ばぬ。そのため俺は、『恋』を忌避している。



 我、帰還せり。玄関で鼻歌まじりに靴を脱ぎ捨て、「ただいま」と小さく呟く。呼応するように、奥からやけに大きな物音がした。それは何者か——息遣いある者の立てる物音の類であって。一人暮らしなのだ、俺は。

 我が選ばれた聖域に空き巣とは、なかなかに良い度胸を持った猿めだ。許さん。靴箱の上に置かれていた信楽焼の狸を抱え、俺は忍び入った。大きさの割に重量のある狸である。怪しき者はリビングにいなかった。冷蔵庫が閉まる音がする。キッチンを振り返った。そこには。

 仏像がいた。

 拾った仏像がいた。ケチャップで口元を真っ赤に染めた木彫りの仏像が、片手をひらひら、俺に気さくに挨拶してくる。「ギャギャ」などと、およそ仏とは思えぬ笑い声を上げて。俺は思わず信楽焼を取り落とした。無垢なフローリングに狸の玉袋が落ちる音。やけに鼓膜に響いた。待て。いや、暫し待て。

 仏像が。動いた。喋った。笑った。

 仏像を窺いつつ膝を曲げ、屈み。信楽焼を拾う。握り直した。その手に力が入る。仏像は俺の動きなど歯牙にもかけぬ様子で、皿にぶち撒けたケチャップを舐め続けていた。

 振りかぶる。仏像が何者であろうが関係はない。我が聖域を穢す者は敵。人間か否かはさしたる問題ではないのだ。俺は確実に『選ばれている』。恐れるものなどない。憎き敵の頭めがけ、俺は満腔の力を乗せて信楽焼を投げた。

 だが、信楽焼は仏像に掠りもしなかった。

 想定より鋭い勢いで飛んだ信楽焼が軌道を外れ、壁に激突する寸前。俺の両の眼は確かに捉えた。消滅を。消失を。仏像が「ギャキ」と唱えると同時に信楽焼は中空にて停止し。小さく火花を上げ四散する。そして夜闇に溶け失せる流星のように、仏像の口に吸い込まれ、消えた。

 恐ろしいとは思わなかった。俺はついに手に入れたのだ。夢を。

 夢だろう。夢だろうが。動き、喋り、物を消すことができる仏像、これを俺が拾ったということ。俺が『選ばれた』証拠がここにある。この仏像が俺の羅針盤だった。『選ばれた』理由を指し示す、唯一の。裏付けのなかった確然たる自覚が、今事実を伴って俺の手元にあるのだ。これが俺の夢であろうが。これを夢と呼ばずなんとする。

 幼い頃、未だ日の沈み切らぬ宵の空に、一番星を見た。他より先を行かねばならんがために、独りで大空に煌めく姿。まるで俺のようではないか。そう感じた。

 間違っていなかった。仏像をそっと抱えて、俺は鼻唄を歌う。待てども待てども来なかった夜。今、来たのだ。不遇で惨めだった一番星は、これでようやく輝ける。俺は仏像に「月天がつてん」という名を与えた。俺には日光は相応しくない。日の光の下で堂々と歩けるような罪の浅い人間ではない。俺の道標になるのは月光だ。俺は月天を抱えて床に就いた。






「もはぁ、もはぁ! アビー君ともあろう者が約束を忘れるなんて! 君は毎日暇にも関わらず滅多に外にも出ない、故にボクから誘われた時は最低限外に出るようにしている、そうじゃーなかったのかい?」

 日曜の朝から綿丸のくぐもった声がスピーカー越しに部屋に響く。俺は枕に顎を乗せたまま、気怠く「すまん」と謝意のみ示した。

 綿丸との約束を無視し、俺は断りひとつ入れずに嬉里の誘いに乗った。綿丸と俺との間に断りなど必要ない、はずだが、何故か説教を食らっている。

「ボクはね、アビー君の身体を気遣っているんですよ? 君は放っておくと2週間一切日の光を浴びないなんてザラじゃーないの。お日様も地球も君を生かしてくれる隣人なんだから、たまには顔見せないとバチが当たるでしょうよ、ええ、そうでしょうよ」

「外には出たぞ」

 綿丸は「ええ、そうでしょうよ」と相槌を打つ。しかし直ぐに「ええ!?」と叫んだ。綿丸は鳩が豆鉄砲、もとい、豚が水鉄砲でも食らったような顔をしている。と思う。画面越しであるから顔は実際見えぬ。

「信じられないことじゃーないの。誰かに誘われたのかい?」

「ああ。まぁな」

「お相手は?」

「女さ」

「出会い系はやらないんじゃーなかったのかい?」

「巫山戯たことを抜かすな、俺は阿比留二十八だぞ。"出会う"んじゃなく"出逢う"んだよ。俺は運命の流れるままに生きている」

「と仰るということは、大学の?」

「まぁそういうことだな」

 綿丸は感心したように溜息を漏らした。今までの人生の中で最も聞き心地の良い溜息である。勢いよくベッドから出た俺は、鼻唄混じりに紅茶を淹れる。紅茶は湯からが勝負だ。ミネラルウォーターを電気ケトルなみなみ注ぎ、沸騰するまでは歯を磨く。

「流石アビー君、やるときはやる男ですな。ところで、その女史とは何方どちらへ」

「彼女の家だ」

「もは!? い、家ですかいな!?」

「家だ」

「……っるほどぉ、家……お家、ハウス、ホーム、なるほど、……女史は一人暮らしで?」

「だな」

 俺はなるべく端的に返答する。部屋に充満した紅茶の香りを吸い込んで、鼻を膨らませた。

「しかし朝からボクと通話できているということは、泊まってはいないと」

「引き留められはしたがな」

「と言いますと、まさかアビー君自身が断ったと?」

「ああ」

「なんと……まぁなんと、なんと言うこと。そこは泊まって行けばよかったじゃーないの。アビー君のことだから譲れない美学があったんでしょうけど」

 また綿丸は溜息を吐いた。今度は今までの人生の中で最も苛つく溜息である。紅茶の熱に唇が痛い。

「何を馬鹿な。単にマナーだ。俺とて弁えはある」

「マナー……? はて、色事なんぞにマナーを問われる、これ如何に」

「人と人の関わり合いである限り、そこに必ずマナーはある。互いにそれを守るか否かは別問題だが。俺は守った。それだけだ」

「色事でもですかい?」

「色事でもだ」

 俺は綿丸が沈黙したのを見計らって紅茶を飲み干した。喉の奥から鼻に抜ける香りに眩むほどの至福を得る。しかし、口を開いた綿丸は息苦しそうにこう述べた。

「アビーくん、ボクは思うんですけどね。色事なんてものは猿の域まで降りて来ないとできないことじゃーないのかなって。何時も人間として理性ある言動をすることが正しくはあるんだけど、なにも正しくあることだけが正解ではないでしょう?
 君の嫌う本能だって、必要だから備わっているんじゃーないのかな」






 月天は相も変わらず「ギャ」としか喋らない。が、俺に懐いている様子である。飯を与えると悟り顔で美味そうに食らう。牛肉の味が好みなようだ。俺が振舞った焼きネギ牛丼には特に強い興味を示し、仮にも仏とは思えぬ月天の好物に俺は思わず吹いてしまった。

 炊事以外の家事ならば月天は俺の代わりにこなした。月天が掃除すれば忽ちに、塵や埃なぞひとつもない清潔な部屋に様変わる。月天が洗濯をしたあとの布団は寝心地が抜群に良い。月天が来るまでは雑然としていた本棚も、作者別に並べられ手に取りやすくなった。しかも俺の好きな本だけは中段の手前に並べておくという粋なことをする。

 俺はあの通話のあと、綿丸の言葉を吟味した。確かに俺は浅慮だったかもしれぬ。俺は己の本能というものにいまいち従順になれずにいたが、『選ばれた』者ならば時に本能に従い、更には従えることも厭わない屈強な理性を持たねばなるまい。となると、嬉里は俺にとって何者であろう。

 俺は2ヶ月の間を置いた。その間毎日嬉里と話すことを欠かさなかった。話題にも欠かなかった。5月も半ばに差し掛かると毎晩8時に彼女から電話がかかってくる。声が聴きたいと言うのだ。「わたし、アビー君の声好きだしさ。どうせならメールより通話がいいじゃない?」……可能な限り応対した。大概は音楽の話か、もしくはアニメや漫画、小説の話であった。こんな会話をしたことがある。

「嬉里は平生、何を読んでいる?」

「もっぱら恋愛系かな。それよりアビーくん、私のことは名前で呼んでって前も言った」

「あぁ済まない。……紗陽香さやか

「はい、よろしい。んと、最近面白かったのは、そうだなぁ。『キミというホシの上に立ち』はとっても良かった。雰囲気が」

 耳にしたことのあるタイトルだったが、読んだことはない小説。俺は返答を「あぁ」と濁した。

「三島は?」

「あんまりかな。純文学って好きだけど、三島は独特の押し付けがましさが文全体に横たわってる感じで苦手。キリスト教を信奉してるのに仏が教えを説いてくる、的な」

「……喩えはあまりピンと来ないが、まぁ言いたいことは理解できるな」

「だよね? 私、耽美主義っていうか。耽美派の作風が1番苦手なんだ。美のためなら道徳をも棄却する、みたいな。創作にも道徳はあって然るべきだと思うし、どうせなら整えられた世界が見たいもの」

 実の所俺は、三島も谷崎も夢野もかなり好んでいて、屡々読む。しかしながら、嬉里のこの感覚というのは、摩擦など一切なく俺の中にするりと滑り入った。新しい知見を得たのだ。アメリカ大陸を見つけたクリストファー・コロンブスはこんな心情だったろう。

「最近読んでる量なら漫画の方が多いかもね」

「漫画は読まないな」

「それはアビーくん、もったいないよ。漫画は文化で財産だよ。今なら無料で読めるサイトもあるしね」

「無料で読めるサイト?」

「うん。最近はYouTubeでも読めたりするよ。映画もYouTubeで観れるし」

 俺は漫画やアニメに疎い。趣味といえば専ら読書で、漫画といえば図書館にあった「火の鳥」を読んだ程度だ。真に『選ばれた』者に漫画という娯楽は相応しくないと思っていた。だが嬉里の楽しそうな声を聴くと、案外悪くないものかもしれない。

 家にも招かれた。彼女の焼く茶菓子は毎度のこと美味く、素直に褒めると、照れ臭そうにはにかむ。その顔を見るたび、心の臓の深いところに愛染王の征矢でも射られた気味合いになる。

「アビーくんは初恋の人に似てるの。だから運命だと思って声かけたんだよ。結構勇気要ったァ」

 俺は考えた。またもや考えた。嬉里となら、築けるだろうか。罪に穢れた、愛を知らぬ俺でも。直情に従うべきであろうか。俺は己の使命の片棒を他人に担がせるつもりはなかった。果たすなら独り、そう考えていた。勿論、愛し合えたとして、俺は嬉里に背負わせるつもりはない。だが、嬉里自身が背負いたいと言い出すやもしれぬ。

 俺は迷った。心底迷った。例えば山より高い牛の、その腸の中を、這いずり回る感覚だった。いつ糞詰まりになって野垂れ死ぬかもしれぬ途方もない暗路。戻っても胃液で溶け死ぬ、進み続けてやっと出ても草の臭いのする糞と同等である。前門も後門も正解とは思えない。

 俺は、切り拓くしかないと思った。関係を元に戻すのでもない。ずるずる友人を続けるのでもない。牛の腹を破る、つまりは俺から仕掛けるしかない。俺は腹を決めた。

 恋文を書こう、と。










TEN…



 或る日、綿丸は食堂の焼きネギ牛丼を頬張りながら、こう言った。

「勝負ってのは、避けて通れないなら『勝ち』より『逃げ』の算段をしておくべきじゃーないかな。別にボクらは武士じゃーないんだからさ。退路を確認せずして何が勝負だよ、とは思うね」

 綿丸のその言に俺は凄まじい嫌悪感を抱いた。危うくソースカツ丼を吐くところだった。

「……綿丸、勝負という土俵に上がった瞬間から、人は悉く戦士になるのだ。無論俺たちは武士もののふではない。しかし何も、武士だけが勝負をするわけでもない。
 人の生を歩むなら、数多の勝負事が降り掛かる。そして、その結果によって推進力を得たり、或いは減速したり停止したりする。確かに停止するリスクを考えれば『逃げ』は一つの有効な手段だ。有効なだけ。正しくはない。何も産まないのだから。
 手元に残るのは『逃げた』という事実のみ。成績表に残る惨めな赤点のみだ。故に俺は逃げない。勝負というのは己の正しさを全うさえすれば、止まることはない。決してない。歩みが鈍かろうと、躓こうと、沼地に嵌ろうと、罠にかけられようと。最後に辿り着けば勝つのは俺なのだから」

 今思い返すと、あの時の会話はこの為にあったのかと思える。



 俺は恋文をしたためた。初めての恋文だった。美しい文字は書けない。情熱的な文言も書き難い。とはいえ、己のありのままを的確に描写する表現を見つけるなど、そう易いことでもない。

 7日間悩み尽くし、原稿用紙10枚にも及ぶ超大作を2枚までに落とした。字体と文体を整えてから便箋に清書し、押し花を飾った封筒に入れた。

 嬉里が欲しがっていた漫画も全巻買い込んだ。リボンと包装紙で丁寧に包む。小さいが勿忘草で花束も作った。彼女の誕生日が近づいている。俺は満を持して2人きりで会う約束を取り付けた(と言っても常日頃から2人きりで会って遊ぶことが多いため、誘い慣れてはいる)。

 スケジュールはシンプルだった。まず彼女の好きなバンドのライブ。の後にディナー。そこで胸の内を曝け出す。浪漫的に。以上。これ以上に何が必要だと言うのだろう。ちり紙よりも薄い恋よりも、俺なら1日に賭ける。そう考えた結果のプランだった。





 だが、予定とは往々にしてとち狂う。気付けば彼女は俺の家のソファーに座っていた。ライブのチケットは書棚に閉まったまま。「アビーくんの家に行ってみたい」。あくまで嬉里の誕生日なのだ。彼女の希望を優先したいと思った俺は、練ったプランよりもその一言を取った。

「アビーくん、一人暮らしなのに綺麗にしてるね。男の子なのに」

 部屋の掃除は月天が俺の代わりに毎日やっている。俺は答えに詰まって、

「まぁな」

とだけ返した。嬉里は口角をあからさまにあげてニマつきながら俺の顔を覗く。今日も苺のピアスをしている。

「わたしが来ると思ってたんじゃないの?」

「断じて違う。予定外だ」

「……ふゥん。じゃ、いいけど」

「飲み物は?」

「コーラ。ある?」

「もちろん。炭酸の泡に脳まで浸かってしまうぐらいな」

「砂糖で溶けちゃうね。そういえばこの前写真で送ってくれた信楽焼は?」

「あぁ……不注意で落としてしまってな。壊れた。だから新しく仏像を買った」

「残念。可愛かったし、見てみたかった。今日はアビーくんの信楽焼と私の赤べこでトントン相撲して、どっちが強い特産品か決めようと思ってたのにな」

「信楽焼でトントン相撲なぞ出来んだろう。重過ぎる。ポンポコ合戦が関の山だ」

「アハハ。その返し好きだな」

 嬉里はケラケラと笑って床に寝そべった。白抜きで『第六天魔王』と刻まれた黒Tシャツ、盛り上がった胸の上の文字がやけに目立つ。ショートパンツからはみ出した太腿が床にぺと、とはりつく。氷と麦茶を入れたグラスに水滴がじわりと浮かんだ。

「今日は泊まるつもりで来たんだァ」

 氷が、カラン、と音を立てて崩れた。

「アビーくん一人暮らしだから良いかなって。……迷惑だった?」

 迷惑なはずがない。ただ青天の霹靂ではある。俺から誘う腹積りだったのだ。願ってもない提案だったが、あまりに順調に進んでしまう。

 寝転んだ体勢で本棚を物色していた嬉里が、俺に背を向けて話しかける。

「アビーくん、漫画はあんまり持ってないんだね、というか本が少ない」

「あぁ。最近は目当ての本を買う金もない。図書館で済ませるものは済ませてしまうな」

「じゃあ、あんまり漫画は読まないんだ?」

「そうだな」

「へぇ勿体ない。今はネットで無料で読めるんだよ」

「インターネットには疎くてな。良ければ見せてくれ、後で調べる」

 「ん」と返事した嬉里がスマホを見せてきた。ポップな字体の『マンガ銀行』が画面に躍っている。その隣には爪楊枝を加えた熊のキャラクターがいて、これが妙に腹の煮える顔立ちをしている。一通り目を通すと、俺でさえも小耳に挟んだことのある人気漫画が出版社の枠を超えて全て無料で読める仕様になっていた。

 どう作者に収益が配分されるのか、そもそもどう収益を得るのか、出版社の枠を易々と無視できているのは何故か、サイトの作りが粗悪なのは何故か。種々の疑問が浮かんだが、しかし俺はインターネットについて造詣が深くない。無知な者が口を出せるような代物ではないと判断できる程度の分別はある。

 そもそも俺には、嬉里に対する猜疑心が微塵もなかった。彼女の正しさは俺が身を持って知っていた。俺にはまず彼女しか居なかった。


 嬉里と夜になるまで話し込んだ。息をつくための沈黙でさえも空気は繋がっているような気がした。俺は日が沈むのを見計らい、皿の上にグリルチキンとサラダとパスタを盛り付けて、

「誕生日おめでとう、さやか」

 とだけ声をかける。花束とプレゼントの漫画も取り出した。嬉里は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに喜色満面、「ありがとう!」と叫んだ。

「わぁ! これ欲しかった漫画だ! ありがとうアビーくん!」

「さやか、もう一つプレゼントがあるんだ」

「なに!?」

 俺は一度深呼吸をした。肺で濁った空気を全く出し切り、新たに吸った空気で全身の血を鮮やかに塗り替える。ああ、大丈夫だ。俺はもう大丈夫。そう感じられる。

 俺が手にしたのは封筒。恋文の入った。苺柄の封筒。飾り付けに押し花を。両の手で端を慎重に摘み。俺は言った。

「君が好きだ」

 俺は愛を選んだ。背負うべき罪よりも。嬉里となら紡げると思ったのだ。雪げると思ったのだ。愛は俺にとって、夢であり、また希望でもあった。母は父と俺を早々に捨て、ネオン煌く歓楽街を遊び回った。父は母の残した借金の返済で精神を病み、俺を殴ることを生き甲斐にしていた。中学の頃からのアルバイトで貯めた金、そして奨学金。全て利用して独りで家を出た。どこに行っても独りだった。生憎成績だけは良かった。俺は『選ばれた』。故に他人ひとより辛酸を舐めねばならなかった。泥水を啜らなければならなかった。愛は、小説の中だけにあった。俺の愛は夢。そして俺が愛を選べる人間であるということ。これ自体を俺が自覚することは、未来の俺への希望に他ならなかった。

 しかし。

 眼前にある嬉里の顔が示しているのは、戸惑い。

「……友達のままじゃダメ?」

 刹那、心臓が異常な鼓動を刻んだ。速まった血流のせいか、鼓膜が余計に振動して嬉里の声が遠のく。

 ほら、わたしたち、そんな仲じゃないじゃない。アビーくんなら大丈夫かなって思って泊まりに来ただけだし。別にそういう感情はなかったっていうか。アビーくんも見せなかったじゃない。わたしには分からなかったなァ。わたし、自分への好意ってすぐ分かる方なんだけど、普段。ほら、わたし気になってるひといるんだよね。イケメンなんだけどさ。あるバンドのボーカルなんだけど。その人が初恋なの。でも別にアビーくんが嫌いってわけじゃないよ? この関係を続けられたらって思ってるし。友達として。あとわたし、男の子同士がくっついたりするのを見るのが好きなんだよね。わたし自身に彼氏を作る願望はないっていうか、結婚願望もないし、本当の友達感覚っていうか。とにかく今は、……というかこれからも、考えられないなって。アビーくんとは。

 一通り言い終えると、彼女は「帰るね」と立ち上がった。その手に漫画を持って。花束は置き去り、封筒は開けもしない。

 そうか。彼女は俺を愛していたわけではない。「第六天魔王」などという、梲の上がらないインディーズバンドの、ボーカルを。俺の声と姿を通して見ていたのだ。その男に愛されている自分、そういう虚像に酔いしれていたかったのだ。であるから、『俺』自身の愛など。

 ノイズでしか。ないのだ。彼女にとって。

 俺は消えてしまえ、と願った。嬉里に賭けた全て、間違っていたのだ。愛などない。初めから幻だったのだ。当然だ。夢なのだから。紡ぐどころか掴めもしない。立ち去る彼女の腕さえも。袖さえも。

 消えてしまえばいい。消えてしまえば。俺は俺で居られる。

「……何これ? 動いてる」

 玄関から嬉里の当惑した声がした。見ると、玄関の扉の前に、戸棚に隠しておいたはずの月天が立ち塞がっている。月天は俺に目配せした。ように見えた。

「ギャキ」

 月天が一度そう唱えると、嬉里は物も言わず、月天の口に吸い込まれるように消え失せた。月天が満足そうに腹を撫でる。あとには俺がプレゼントした漫画だけが散乱していた。

 片付けねば、と俺は臍を固める。






SHI…


 そうだった、俺は『選ばれた』存在なのだ。俺が消したい物は何者であろうと消せるのだった。熱い。全身。血がじわじわと煮える感覚。滾る、とはまた違う、絶望から来る感情のうねりだった。

 俺は『選ばれた』。ならば、俺が片付けるべきは何なのか。




 玄関に散らばった漫画を壁際にまとめる。その最中、苺のピアスを拾った。奴が着けていたものだ。我ながらよくもこんな、ちゃちで乳臭いピアスに見惚れていたものだ。奴の顕示欲が詰まったような代物に。

 奴は苺のピアスをする理由を、俺に一度だけしたことがあった。

「苺って。かわいくて、ちいさくて、なんだか親近感わくよね。ずっと手のひらにおいて愛でていたくなる。だからわたし、苺が好きなんだ。
 それなのにショートケーキは、苺がメインの食べ物のくせに名前は『ケーキ』なの。ひどくない? 苺のかわいさで売れてるくせに、自分がかわいくなったみたいな顔してさ。『苺の萌借るケーキ』っていう諺作りたいぐらい嫌い」

 奴は、信用できる友人が少ない、とも言っていた。

「わたし、友だちが少ないからアビーくんみたいな人、貴重なんだよね。話も聞いてくれるし、寄り添ってくれる。心が近いっていうか。ね、アビーくんもそう思わない?」

 思わん。今となっては。

 俺はやっと理解したのだ。奴はただ、俺を使って、己を満たしていただけなのだ。愛の交わし合い『ごっこ』だったのだ。愛擬き。互いに満たすだけでは愛になり得なかった。俺は大きな勘違いをしていた。初めから愛など幻の概念に過ぎないのだ。

 嬉里、奴こそが苺だった。愛らしい姿で惑わせ、自分を1番に仕立ててくれる人間の元で我儘に暮らす。ケーキのような主張の強い、或いは苺に勝てるポテンシャルを持った人間とは連まない。自分より下、自分の言うこと、やりたいこと、それを素直に聞くような人間が彼女にとって大切なのだ。その為に奴は俺と。愛でも、恋でもなく。ただ、我儘を気兼ねなく言える、都合も居心地も良い、初恋のボーカルによく似た、擬似恋人。

 やはり、俺は苺が嫌いだ。






 外に出た。風の死んだ夜。湿気が頬に張り付く。俺は構わず歩いた。月天は俺の後ろを歩く。月に向かって笑いながら。俺も月を見た。半月。俺の使命はこの月天と共にある。そう。であるから。自分自身の使命が何か、己に今一度問い質す。

 俺が消すべきものは。消したいものは。

「……愛、だ……」

 口を衝いて出た。その言の葉の重みに、俺は耐えかねて俯く。

 俺が信じた『愛』という偶像は、既に欠片もない。俺は『愛』を愛していた。数多の物語に描かれた、『愛』に焦がれていた。しかし、そんなものは罪深い俺には無理だ。月の影をその手に取ろうとする猿ほどに、身の弁えがなかった。

「そんなことはないんじゃーないの?」

 綿丸の声がした。

「綿丸。お前は俺が来て欲しいと思った時に必ず来てくれるよな」

「そりゃもう。アビー君が寂しい時はボクにはすぐ分かるんですから」

「そうだよな。お前は、俺の頭の中にしかいないんだから」

「…………」

「知らないわけがない。俺が望んで、知らないフリをしていただけだ」

 溜息をするだけで喉が軋むように痛い。肺の奥まで空気が届かない。綿丸が少し微笑んだ気がした。

「お前は俺をずっと見ていてくれた」

「ええ、そうですとも」

「……小学生の頃、お前と同じ名前の同級生がいてな。俺とそいつは親友だった。」

「……ええ」

「2人でよく空想の世界の話をしたな。喋るソフト麺だったり、虹色の雨に降られた街だったり。地球の処遇を決める会議も開いたし、人間の頭のネジを締め直す仕事をしてる人の話も作ったっけな。暫くはいつでも2人だった。掃除も、給食も、休み時間のドッジボールも。
 でもな、俺はいつからか、自分が『選ばれた』特別な人間なんだと思うようになった。その唯一性を担保するためだけに、俺は多くの人を跳ね除け、傷つけた。綿丸もだ。
 綿丸が転校することになっても、挨拶ひとつ交わさなかった」

「……そうでしたね」

「転校して一年、お前の顔をニュースで見た。線路に身を投げ自殺した、お前の顔をな」

 綿丸は一言も発さず、ただ俺を見ている。

「なんて悪い冗談だ、と思った。思ったね。綿丸が自殺なんてしてたまるか、とな。もしアイツが自殺をしたら、そこまで追い込まれていたとしたならば、……アイツを傷つけ謝罪もせず、追い詰められている時に傍にいてやれなかった俺にも責任の一端はある。中学の俺には、到底背負い切れなかった。
 翌日から、お前が見えるようになった。初めは信じた。ニュースは見間違い、聞き違いだったのだと思った。綿丸が無事に帰ってきたんだと。
 だがお前は、俺以外の誰にも見えやしなかった。そんなことには気がついていた。人は信じたくない事実を目の当たりにすると、新たな真実を作ってしまう。俺もそうだ。俺はお前を唯一無二の友人と信じた」

 月明かりの下、油蝉の耳障りな声が腹まで響く。

「ボクはね、アビー君。アビー君みたいに強いわけじゃーなかった」

「弱いさ、俺は」

「いいや、君は強い。ボクは君に憧れていたんですから。……君が辛いこともボクは分かっていたとも。だから、ボクが君のせいで死んだなんて、そんなこと思わないでくださいよ。少し冷たくされたくらいで、親友を信用できなくなるような人間だと? その程度で命を投げ出すような人間だと? アビー君はボクのこと、そんな風に思っていたんですかい? あんまりじゃーないか」

 俺は頭を振って否定した。綿丸はそんな人間ではなかった。が。

「遺された者は、それでも悩まなくちゃならない。悩む余地がある限りは悩まなくちゃならないんだ。責めなくちゃならないんだ。生きているだけで罪人なのだから。
 失われた人間の心は戻らない。幽霊なんてのは存在しない。遺された者のエゴイズムからくる幻だ。
 俺はお前が見えたその日から、腹を括った。俺はまだ赦されようとしている。責任から、罪から逃れようとしている。俺のエゴであるお前と向き合い続け、その上で俺は罰を受けようと、そう考えたのだ」

 ……にも関わらず。

「俺は『愛』に甘えた。罪に向き合うのを疎かにして、俺だけ『愛』を掴もうとした。その結果がこれだ。今更赦されようなどと思っていない。使命を果たさねば。俺に課せられた使命を。
 俺は、人々を誑かし、惑わせ、貶めてきた愛を、消す」

 先刻まで月を見ていた月天が、俺の足元に立っている。俺は屈んで月天と目を合わせた。そんな俺を、綿丸は息苦しそうな表情で見下ろして、

「ダメです」

と制止する。

「ダメです。アビー君、考え直して下さい。そんな大事なものを消したら、この世界は一体どうなってしまいます? アビー君の目指した『愛』は決して幻なんかじゃーなかった。今回は上手くいかなかったかもしれないけれど、あれは向こうだって落ち度があったんじゃーないの。まだやり直せるはずです。まだ遅くない」

「黙れ!!!ッ」

 俺はもう耐えられなかった。

「もう俺は!ッ……もう俺には!ッ。 それしかないんだ! 愛を消さぬ限り、俺は同じ誤ちを繰り返すだろ!?ッ…………
 俺が造り出した幻影のくせして、一端の正論を語るなよ。俺は正しくありたいんじゃない、俺は俺でありたいだけなんだ。『選ばれた』俺でありたいだけなんだ。特別な人間でありたいだけなんだ。たかが愛くらい、消して何になる。罪と向き合わず、お前を失うより、よっぽど……」

 口を噤んだ綿丸が、目を瞑って俯いた。月天を見る。腹を抱えて笑っている。油蝉に負けないほど甲高い声で笑っている。俺も笑った。月天の肩に手を置いて。そして願った。

 消せ、と。

「ギャキ」

 突風。俺は目を固く瞑った。最初は衣擦れのような音から始まり。裂帛の叫声が風をも貫く。嘶き。遠吠え。戛然。地が震える。崩壊の音。……最後に、ゴクリ、飲み下す音。俺は恐る恐る目を開けた。

 そして、その目を疑った。

 眼前に広がるのは、ただ、真白。何処も彼処も単調的、整然とした無味乾燥のみで構成された、白。

 俺にはもう、殆ど残されていなかった。





KAIMEI…


 俺には殆ど残されていなかった。暑く盛る夏の夜も、騒めく油蝉も、寝静まった住宅街も、月も、……そして綿丸も。

 全てが白の世界。その中で。白紙を切り抜いたかの如く不自然に色付くのは、月天。白の世界を割くように、大口を開け「ギャギャ」と笑い狂う。底の見えない闇が、月天の口の中に広がっていた。

 突然、月天の顎が鈍い音を立て外れ。筋肉質な両腕が口内から伸びる。そののちに頭も現れ、全身が這い出で。徐に立ち上がった。立ち姿に些か気圧される。白と黒の斑模様の髪はマッシュカット、盛り上がった胸筋がよく際立つ黒いタンクトップ、その隆々たる肉体に不釣り合いな童顔と切長の目。握り拳は俺の顔ほどの大きさである。

 俺はこの大男に、微かな見覚えがあった。

「久方ぶりだな」

 大男は俺を見下ろして溜息を吐いた。それは俺のこれまでの人生の中で、最も苦しい溜息だった。「期待していたのに」と泣き叫びながら俺の頭を殴った父親の顔が脳裏に過ぎる。「邪魔」と吐き捨てて俺を押し退けた母の香水の匂いが鼻の奥で露わになる。

 大男は白くなった世界を見回すと、俺の肩に手を置いた。大きな手だった。骨まで重さがのしかかるような。厚く、固く、それでいて、陽に当てられた大地のように頼もしい手。この手を俺は知っている。

「ワシを覚えているか」

 俺はぎこちなく頷く。そして、彼の名前を肺から押し出した。

「ゴズキさん……」

 大男——ゴズキの肩に、一瞬だけ力が入ったのを、俺はゴズキの手を通して感じた。その力の正体は、悔恨だった。目を伏せ、歯を食いしばり、ゴズキは心底悔しそうにしていた。俺も口を真一文字に結んで黙していた。間違えたのだ。そう察した。

 やがてゴズキが口を開く。目線は俺と合わせずに。

阿比留あびる幸一ゆきいち。それが本当のお前の名だ」

 俺は全てを思い出した。




 小学5年の頃、俺は憔悴しきっていた。大人にも、教師にも、親友の綿丸にも言えぬ日々だった。本物の地の底に直面したとき、それは黒ではない。白く見えるものだ。人は地の底に落ちた途端、目を閉じてしまう。閉じた目は、瞼の裏にある光の記憶だけを頼りに白を模造する。

 だから俺は毎晩、公園で独り、ブランコを漕ぎながら目を閉じた。その日の光だけを思い出そうと。朝になるまでそうしていた。

 或る日突然、俺は瞼の裏の白さえも見えなくなった。躍起になって光を探した。見当たらない。見あたるはずもない。俺の目は既に潰れていた。潰れる直前、号泣しながらゴルフクラブを振り回す父親の姿を。俺は悪い夢にでも紛れ込んだのだと思っていた。

 そこに現れたのがゴズキだった。ゴズキは俺の目に再び光を与えた。そして、ちょうど今のように、俺の肩に手を乗せてこう言うのだ。

「ワシはお前を選ぶ」

 呆気に取られる俺に、ゴズキは「ワシは地獄から来た。獄卒だ」と続ける。

「獄卒の仕事は主にふたつある。ひとつは罪人の管理。もうひとつは地獄の使者、『獄吏』の選定だ。
 『獄吏』とは、ワシら獄卒が人間の世界に出向けぬ間、世界全体の均衡・輪郭を崩れぬよう保つ人間のことを言う。
 お前はその『獄吏』の二十八番目の男として、ワシに選ばれたのだ。人間の世界の均衡を保つためにな」

 俺はその時、盲いた俺の目を開き、光を与えたその大男のあまりにも突飛な言に、容易に鷲掴みにされている自分を俯瞰して可笑しくなっていた。そしてその可笑しさは、自分に起きた奇跡に対するものでもあった。小学生の俺は、無いものを『ある』と信じて疑わなかった。ハリーポッターのように箒に乗って空を飛び、Dr.ドリトルのように動物と喋って旅をするのが夢だった。ノーチラス号に乗ってみたかった。アニーのような妹と、秘密の時空旅行をしたかった。

「だからワシはお前を選んだ。いいか、ワシはお前のヒーローなどではないぞ。お前の、誰よりも強い心の叫びに従ってここに来た。
 心の叫びが強いと言うことは、心の力が強いと言うことだ。心の力が強い人間は、願うことで世界を変えるトリガーを引くことができる。それは人ならざるワシらには無い力なのだ。世界の均衡を何者かが崩した時、お前が、お前たちが救わねばならん。
 だがしかし。肝に銘じろ。その願いの力は、ひとたび道を踏み外せばお前を地の底の晦冥に引き摺り込むぞ。何があっても容易に世界を改変しようとしてはいけない。いいな。自分の思う通りにしていくことと、思い通りになる世界を求めることは根本から違う」

 俺は幼く、全ては理解しきれなかったが、ゴズキの真剣な眼差しにあてられ、しっかりと頷いた。

「お前の記憶からワシのことは消えるが。ワシが次にお前に姿を見せた時、自ずとお前はワシを思い出すだろう。
 お前が俺の言葉を忘れぬよう、そして俺がお前を別の世界から見守ることができるよう、お前に『二十八』と名を授けておく。次に本名を呼ぶ時が、お前の任が解かれるときだ。
 折れぬ自信と、屈せぬ勇気を持て、阿比留二十八。お前は特別なのだ」





 分かっていたはずだ。何もかも。俺は変わらず阿呆だった。見下していた輩と何ひとつ変わらぬ。ただ、自分を特別に扱ってくれない世界に腹を立て、そして。

 間違いを、犯した。

「……このような形で再会せねばならんとは。残念だ」

 ゴズキは目を伏せたまま、呻くように声を上げた。その言葉のひとつひとつが、錐のように鋭利で。

「いいか。お前が消したと思い込んだものは、全て消えていない。月天は緊急避難用のトンネルだ。この世界で何か重大な問題が発生した時に、任意のものを空の世界に飛ばすことができる、ワープトンネルだ。お前が消そうと願ったものが本当に消えないように、俺が先に別の世界に送っていた。
 最近のお前の不安定さにまさかと思って月天を送り込んだが、本当に多くのものを消そうとしたな。終いには『愛』まで。
 『愛』は単純な繋がりじゃない。満たし合いでもない。『愛』は命そのものなのだ。生きる証そのものなのだ。いいか、命の灯が消えぬ限り、愛し愛され、愛に悩み苦しみ、愛に悦びを見出す。
 それを丸々消すと言うことは、この世界から命を奪うということだったのだぞ」

 ゴズキは言う。この世界は無になったのだ。『選ばれた』お前を残して。

「獄吏に選ばれた時点で、お前はこの世界の不死の番人だ。だからお前はこの無になった世界に居残らねばならない」

「……1人でですか」

 ゴズキは申し訳ないが、と前置いて頷く。

「上が決めたことでな。ワシにはどうにも出来ない。お前は、危険だと思われた。この世界はやがてお前を残して封鎖される」

 この白い、どこまでも白い世界で、永遠に、独りで。

「……1人はいやだ……」

 俺は自分の零した言葉に虚を衝かれた。同時に、その言葉が最後の一藁であった。俺の心に溜まっていた黒い濁流が、理性の堤防を切って何もかも呑み込む。

「1人は嫌ですお願いします、お願いします独りは嫌なんです、もうしませんから……!もう何かを消したいなんて、2度と言いませんから……!誰かに認めて欲しかっただけなんです……1人でいたかったんじゃないんです……選ばれたのに、自信がなかっただけなんです、特別に思われたかっただけなんです……だからこれから気取った言葉遣いもしません、誰かを見下したりもしません……友達を作る努力もします、人を許す努力もします……綿丸にも酷いことを言いません、だからお願いしますゴズキさん、綿丸だけでも、綿丸だけでも返してください……! 俺が孤独を感じたら駆けつけてくれる綿丸は、俺の頭にしかいないはずの綿丸が、さっきから何度も助けてと願っているのに出てきてくれないんです……!無二の親友なんです……お願いしますゴズキさん、ゴズキさん……!」

 ゴズキは俺の肩から手を離し、背を向けた。

「お前は誰からも愛されていなかったんじゃない。綿丸はお前を愛していた。お前の中に、綿丸の魂は本当に『いた』んだ。
 だがお前は愛を消そうとした。綿丸には愛があった。それ故にお前の前から消えたのだ」

 ……ああ、そうだったのか。

 俺は何もかも、間違えていたのか。

 綿丸は逃げることも大切だと言ってくれた。罪に向き合おうと、形だけ向き合って限界に達するぐらいならば、一度道を逸れて休んでからでもいいじゃないか、綿丸はあの時、遠回しにそう言ってくれたのだ。己の罪に向き合おうとするがあまり、そして己の使命に固執するあまり、隣人の言葉を受け止められなくなっていた俺に、逃げてもいいと。ひとつ息をついて、阿比留幸一としての人生を生きても良いと。そう、言ってくれていたのだ。今思い返すと、あの時の会話はこの為にあったのかと思える。

 だがもう、全て手遅れだった。

「ワシはお前を選んだことを間違いだとは思っていない。あの時のお前は、正しかったからだ。
 今のお前には、もう何も言うまい、幸一」

 そう言い残すと、ゴズキは月天を抱えて風に吹かれる塵のように、姿を消した。

 あぁ。

 あぁ。

 真っ白な地の底だった。そしてその白もいつしか消えた。元に戻ったのだ。ゴズキが起こした奇跡は世界が遮断されたとともに元通りだった。不可逆の。恒久の。晦冥に叩き落とされたのだ。……………






 あぁ。………








 …………暗いよう。………

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