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メンと向かい合い、駄弁りつつ。

 私は産まれて此の方、過ちらしい過ちをあまり犯してこなかった。と言うより、「生」という決して穏やかでない道の上に反り立つ壁どもを、のうらりくらりとすり抜けてきたのだと思う。真正面から壁に激突して流血し、泣き荒ぶ同級生を目の端で嘲笑わらいながら、人並みにうまぁく生きて来たから。自分で言うのもなんだけど、苦手なことも特段ないし、どんなことでも凡人以上にはこなせた。私はそのこと自体に微かな快感を覚えていたのかもしれないし、そんなことに快感を感じている私自身をちょっぴり嫌悪しているのかもしれなかった。

 だけど。これまでの私の適当な人生の中で、どうしても弊害になっていたことがある。それはせねばならぬことだが、酷く億劫で、酷く非効率な作業だ。「食事」。コイツはロクなもんじゃない。栄養バランスを満たしていて、1日動けるカロリーさえ摂れていれば極論スティック二本でもいいはず。「残さず食べなさい」だとか「好き嫌いするな」とか、子供の頃に言われ続けたのは今でも納得いかない。給食のソフト麺は不味いから嫌いだった。小食缶に入っていた人参と大根の酢の物も苦手だった。そもそも、ご飯の時に牛乳を飲むなんて最悪だ。班を組んで向かい合って食べるのも嫌いだった。小五の二学期に同じ班だった男子の食べ方が汚かったからだ。極めつけにソイツ、私の顔に牛乳を吹いたことがある。勿論故意じゃない。だけどそれから誰とも食事に行けなくなった。馬鹿らしいと人は笑うが、ホントのことだ。真剣な悩みというのは大抵、他人から見れば取るに足らないことなんだろうと思う。

 さて、ここで質問したいのだけど。そこまで嫌いなモノが話しかけて来ることなんて、ある?

 私がおかしくなってしまっているのなら、まだ良し。私の中の住人と話しているだけならば、尚良し。でも残念。私は違法なおクスリを使用つかったこと、一度たりとないし、心の中にオトモダチを飼っているわけでもない。

【事実、私の人生にへばりついて離れない地続きの今、変哲ない真っ当な私の部屋で、確かに、ソレは、起きている】

 これが由々しき問題なのだ。
 いや、しかし。———なんでこんなことに。


❶ねぇ。なんでこんなことに?


 6月中旬。梅雨真っ盛り。冪冪べきべきたる雲沈む空、火曜の雨降り午後5時半。大学の講義を終えたら、電車で二駅、私の寮は些か遠い。地方出身の人たちのみが入れる安くて古めの学生寮だ。帰り際にその近くのコンビニにふらりと立ち寄って、そうだ、夕食を調達しよう。

 カロリースティック 1箱 195円

 まぁ、2本で充分だと思う。朝も昼も食パンとサラダを食べた。そもそも豪勢なものを買うお金なんてない。まだバイトもしていないから。その内、その内と思っていたら、いつの間にか6月になってしまっていた。今年も既に折り返しか、と考えると、時はまさしく飛ぶ矢の如しだ。私が矢ならもう少しゆっくり、二歩進んだら三歩退がるんじゃないかってぐらいにはゆっくりと飛びたい。みんなも時を戻せるなら戻したいだろうし。きっと。

 寮に着いたら3階まで階段で上がって、308が私の住処だ。狭い。けれど、鰻の寝床、とは言わない。ベッドも置けるし、トイレもお風呂もある。6畳ちょっとの限界は超えている。強いて言おう、少し物足りないのは、テレビがないことだ。幼い時分は毎晩バラエティ番組で大笑いするのが好きだったし、それで救われていた部分も少なくなかった。父が蒸発してからは、母も仕事で手一杯。長女の私は母の期待にしばしば応えられず、母は涙を流しながら私を怒鳴りつけた。妹がデジカメを壊したら私の監督不足、弟が皿を割ったら私も悪い。母親1人の収入で不自由なく私を大学まで行かせてくれたし、誕生日には欲しいものを買ってくれた。それだけで本当にありがたいことだし、感謝しかない。でも、それでもやっぱり。溜まるものだ、鬱憤は。晴らすためにお世話になっていたのがテレビだった。今じゃネットに動画としてアップロードされていれば何時いつでも観れるけれど、なんだか気が進まない。テレビはテレビで観たいと拘ってしまうのは、きっと私の頭があの時から進んでいないからだ。

 308号室。ドアを開け、玄関に立てかけた姿見に写る自分に一瞬、ビク、となる。靴を揃えて脱いで。……あれ? 気がついた。ベッドの上に小さな、手乗りほどの小さな、【何か】がある。私は今日、部屋を出て行く時、ベッドの上には何も置かなかった。誰か私の部屋に入った? ここにはまだ、友人も連れてきていないし、親にも部屋を伝えていない。寮長だって勝手に入らないはずなのに。私は玄関で暫時硬直してしまったけれど、意を決して忍び足でその【何か】に近づき、……近づかなければ良かった、と心底後悔した。

 ソフト麺 1袋 ⁇円

 まず私の眼に飛び込んで来たのは、このソフト麺、袋の中で蠢いている、という受け容れ難い事実。白くて細くて柔らかい、蟲の幼虫の様なフォルムのものが、ウニョウニョと(この言葉はソフト麺が動いているという状況を表すためだけに生まれてきたのではないかと考えてしまうほどに)、気色の悪い動き方をするのだ。夢? 知らない。夢であろうが嫌いなものが気色悪く動く、こんなことがあって良いはずがない。馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。それに誰かの悪戯だとしても、尋常ではない恐ろしさがある。私の嫌いな食べ物を私の居ぬ間に部屋に忍び入って用意し、しかもそれを動かすなどという。悪趣味極まりない。どこまで私を知り尽くしているのだろう。部屋は荒らされた形跡がない。金目のものも私が持ち歩いているので、盗られていない。何が目的でこんなことをする? 全身の鳥肌が尽く震え立つ。取り敢えず、私は恐る恐るそのソフト麺を、指先だけで摘んで、そっと。今晩出すのを忘れぬために(明日はゴミの日だ)と玄関の前に置いておいたゴミ袋まで持って行き、捨てようとした。

 が。

 悪夢というのは終わらないから悪夢と言える。ビニールの弾ける音がした。私の手元から。小学校の給食でソフト麺が出ると、必ず男子は袋を握り潰し、弾けさせていた。けれど私は袋を指先だけで摘んでいる、………自ずと弾けた、袋が。芋虫の腹を食い破り這い出るハチの子の様に、袋からウゾウゾと、麺が飛び出て来た。心臓がバク転を失敗したのではないか。そのくらいの衝撃が私の臓腑を震わせて、特に胃なんて絶叫だった。嘔気が喉を駆け上がる。声の限り、声の限り、声の限り叫んで逃げてしまいたかった。その麺が一本だけ腰の抜けた私の方に、まむしの如く這いずって来て、
「……えっ?」
と声を発したのだから。私は鏡を背にしてずるずる後退り。声にならない声が喉の奥からカサカサとせぐり上げ、虚空に放たれる。夢であれ。でなければ、浅い眠りに押し潰されそうな夜を、一生かけて過ごすことになる。大体なんだ、肝を潰したような顔をして(おかしなことだけど、その麺には表情豊かな眼が2つ、付いていた。その私よりつぶらな眼を、いっぱいに見開いて、私を仰天の面持ちで見つめてくる)。「えっ?」って何だ。こっちの台詞だバカ。

「……わ、我は麺類の神である!」
 なんか言い始めた。もう喋られても驚かないけど、夢、早く醒めてほしい。これはフェイクだ、嘘っぱちだぁ。そして、自称・麺類の神たるソフト芋虫は、私の手にあるカロリースティックをぢっと見ている。やめて。そんな眼で見ないで。石川啄木も砂撒いて逃げ出すよ。

 とても怖かった。でも得体の知れない生物(?)に無言で見つめられ続けるのはもっと怖い。言語体系が同一である以上、私自身の意思を伝えるのが先決だ。私は震える声で乞うた。

「あの、……私、昔からソフト麺苦手で、……それが動いて喋るのとか……ちょっと思考が追いついてなくて、……。えっと、……さっきから見てますけど、これ、欲しいんですか? 今日の夕ご飯だったんですけど、……どうぞ、持って行っていいですから、あの、……どうか……私の部屋から、出て行って下さい……」 

 私はカロリースティックを掲げて祈るように頭を下げるが、麺神様めんがみさまは一向に出て行こうとしない。どころか、私に
「……これが、夕食?」
と問い返して、キュッと目を細めた。もう怖い。
「はい……え、欲しいんじゃないんですか?……」
「え、いや……んーと……それでは供物として足りぬぅ〜、かな……」
「ええ……じゃあ、どうすれば……」
「ええと……うーんと、……」
 麺神様があるようでないような首を捻って熟考を始めた。まずい。長々と考えてここに居座られたら、私はたまったものではない。慌てて話を変えようとした、

 その、とき。

 私の立っている場所から、陶器が触れ合うような音がして、部屋が崩れた。いや、崩れたんじゃない。床が急に大理石の如く真白に染め上げられ、その床が変形した。レンゲ。中華料理屋に行ったら必ずある、スープを掬うアレ。それになっていた。部屋ごと浮いて、つまり、私たちが掬われている。レンゲは徐々に傾きだし、重力の方向を変えていく。私は振り落とされないよう必死に淵にぶら下がった。レンゲの外を恐る恐る覗くと、深淵も私を覗いている。嗚呼、神は死んだ。麺はずるずると闇の中に引き摺り込まれる。麺神様は抵抗していたが、そもそも掴む手がない。すぐに呑み込まれていった。血の気が引くのを感じる。私はこれから生命のダストの中に、乃至は誰も知らない宇宙の果てに、投げ出されるんだ。でも、ねぇ。なんでこんなことに? 私の意識はそこで途切れた。





 遠くで名前を呼ばれたような。そんな気がして、私はうすらと眼を開けた。視界に映る滲んだ景色、その向こうの壁には無数の御札、……違う。御札にしては長い。そして書いてあることが何より違う。

「カツ丼」「肉丼」「天丼」、「中華そば」「チャーシューメン」、「鍋焼きうどん」「天とじうどん」「他人うどん」「親子なんば」…………

 お品書き? どこだ、ここ。少なくとも私の部屋じゃない。我に返って周りを見遣る、と。私は座敷に正座していた。眼前にこじんまりとテーブルがある。白の天板は長方形、脚は細くて黒い。七味と一味、胡椒、それに割り箸が束になって置かれていて、おしぼりも手元にあった。向かいの席に麺神様が。蜷局とぐろを巻いて鎮座している。ひぃ、と甲高い悲鳴が思わず漏れた。店内で食事していたおじさんたちが一斉に私たちの席に視線を向ける。 

「落ち着いて。大丈夫、ここは……君の地元の、うどん屋さんだよ」
「でも、だって、さっきまでは私の部屋に……」
「いいからいいから。細かいことは気にしないで。何か好きな物頼みなよ」

 麺神様は私の気持ちそっちのけで器用に割り箸を取り出すと、笛の音とともに壺の中から顔を覗かせ威嚇する蛇のように踊った。すると割り箸はひとりでに割れた。意味が分からない。意味が分からないことが起きすぎている。まず、なんで部屋から私の地元のうどん屋さん(確か名前を「笹木屋」と言ったはずだ。幼い頃、父に幾度か連れて行ってもらったことがある)に移動しているのか。部屋が蓮華に変形したのは? そして麺神様は如何どうして動いていて、如何して周りの誰も、麺が喋っているこの状況をおかしいと思わないのか。あれからそれまで尽く、釈然とも判然ともしない。 

 一つだけ分かっていることは、私は今とっても、お腹が空いている、ということ。

 麺神様は鎌首をもたげて、
「すみませーん」
と頭を振った。「はぁーい」。厨房から女性(恐らく店主の奥さんだろう)がドタドタと飛び出してくる。麺神様は既に注文する品を決めているようだった。

「僕は天丼とチャーシューメン1つずつ。……君は?」
「えっ、あぁー、うぅーん。……私は何でもいい、です……」
「ならカツ丼にしなよ。ここのカツ丼、絶品だよ」
「じゃ、じゃあ、それで……」

 奥さんは終始ニコニコしながら注文をとっていた。やっぱりおかしい。麺が喋って動いてるのに。夢なのかなぁ。にしては意識が明瞭すぎる気がする。平生私の見る夢は大抵靄がかかっていて、境界線も曖昧だ。水を多量に含ませた筆で描く水彩画みたいに、抽象的で平面的。だからリアルじゃない。勿論、経験則だから確かなことではないんだけれど、この状況が夢だとも断定できないわけだ。 

「面白いだろ、うどん屋さんなのにカツ丼が美味しいなんて」
 グダグダ考えていると、突然麺神様が話しかけて来た。
「いえ、……父と来たことが何度かあって。そのときも食べた記憶があるので」
「あ、……そうなんだ。味は覚えてる?」
「いやそこまでは。14、5年前なので」
「だよね。15年かぁ。今は一人暮らしをしてるの?」
「はい。地元の大学じゃないので。寮で」
「へぇー。地元のお母さんは元気にしてるの?」
「まぁ。弟も大分だいぶ手がかからなくなったようですし、元気にしてると思いますよ。そう頻繁には連絡取りませんけど」

 話していると天丼、チャーシューメン、カツ丼がそれぞれ運ばれて来た。ラーメンの醤油スープの匂いが脳まで達してくる。待ちきれなくなって割り箸を取り、思い立った。踊って割り箸が割れるのか? 小さく踊って割り箸が割れるか確かめてみたが、びくともしない。麺神様がこっちを不思議そうに見ているのに気づいて、急に恥ずかしくなった。素直に手で割る。

 カツ丼 1つ 680円

 久々に相対する笹木屋のカツ丼。メレンゲ状に泡立った卵が光を帯びて、キラキラ、輝いている。ふわふわと柔らかい卵を掻き分けると豚カツが垣間見える。厚い。サクッ。箸を入れれば、小気味の良い音とともに綺麗に切れる。お肉も柔らかいのか。出汁がたっぷり染み込んだご飯も美味しそうだ。熱いうちに食べよう。先ずはカツから。卵を溢れるほど乗せて、ガブっとひと噛み。口の中に豚肉の甘味。と、溶き卵に包まれた出汁の旨味が一気に広がる。そこに間髪入れずご飯を掻きこむ。止まらない。七味をかけてみる。黄色の卵に紅いアクセント。唐辛子の刺激。ちょっと山椒の香り。またカツにかぶり付く。ザクッ。豚肉の甘味がピリ辛の七味に一層引き立てられていた。 

「どう?」
 突然、麺神様が私の顔を覗き込んできたので、危うくご飯粒が気道に流入するところだった。
「……っぷ、お、美味しいです!久々でしたけど……」
「だろ?」
 麺神様の眼がニヤッとした、ように見えた。口がないから定かじゃない。そう言えば。
「麺神様はどうやって食べるんですか、ソレ」
「ん、あぁ、こうだよ」
 麺神様がまたクネクネ踊った。すると、チャーシューメンがみるみるうちに減っていく。勿論触れていない。天丼に乗った海老天も、尻尾を残して全て消えた。私の心臓のBPMは190になったかもしれない。ナニコレほんと。すごい食べ方もあるものだ、と思う。

「最近は何を勉強してるんだい?」
「あ、えっと、薬学です」
「おお、じゃあ薬学部なんだ。たくさん勉強したんだなぁ」
「それほどでもないですけど」
「いいや、偉いよ君は。お父さんも喜んでたろ」
「あぁ、父は……」
 父も、よく褒めてくれる人だった。一緒にご飯を食べに行くと必ず私の知らない美味しいものを食べさせてくれたし、勉強のこと、運動のこと、お手伝いのこと。なんでも褒めてくれた。とても嬉しかった。でも、何も言わずに。何も言わずに居なくなった。家族は一気に空虚になった。ある程度、元の生活に戻るまで、時間はかかった。嘘も吐き慣れた。今回も嘘を。体良く。「喜んでると思います」。それだけで。

「父は、……居なくなっちゃって」
 私の口から出た言葉は、嘘じゃ、なかった。麺神様は目を点にしている。なんでホントのことなんか言っちゃうんだろ。反応なら分かってる。可哀想に。そっかごめん。配慮できなくてごめん。

 麺神様はふう、とため息を吐いて、言った。
「そうか……君のせいじゃないよ」
「え……」
「それはお父さんが、何か事情があって、逃げずにはいられなかったんだ。多分。お父さんが弱かったんだよ。多分ね。だから、君が気に病むことじゃない。大丈夫」

 私は。別に気に病んじゃいない。でも。何故かしこりが解れたような気がした。そうか、あぁ、そうか。なんだか嬉しくなっていた。カツ丼も食べ切った。私が「ご馳走様でした〜」と少し大きめの声で言うと、厨房から奥さんが出てきて、満面の笑みを湛え。「はぁ〜い、ありがとうございました!」と声をかけてくれた。なんだかそれが、とっても嬉しくて。私は満足だ、と目を閉じた。




 再び眼を開けると、いつもの私の部屋。ベッドの上。なぁんだ。やっぱり夢か。ソフト麺が動くことなんてあるはずないもんな。良かった。

 でも楽しかったのは事実だった。久しぶりに、食事が楽しい、と思った。人とじゃなく、麺とだけど。誰かとご飯を食べるって、楽しいのかもしれない。

 今、何時だろ。私何分寝てたのかな。枕元に時計があったはず。私は身体を起こして、……気がついた。

 隣に麺が寝ている……………………!!!

 6月中旬、梅雨真っ盛り。冪冪たる雲沈む夜、火曜雨降り午後8時。1人の女の叫声が、寮中を震わせたのは、今更言うまでもない話。


❷シラナイ。


 ビルども群れる東から太陽顔出す朝6時。天気晴朗せいろうビバ日曜。神も羊も休む日だ。

 怒涛の火曜から1週間と5日経たこの日、私は先週の休日より些か早く目が覚めた。理由は2つある(と前置いてしまうと、「中学で書く作文の典型例」のような、思考の停滞を感じざるを得ないけれど)。1つはアレ。麺野郎。12日間、なんと私はこの麺と2人暮らしだったわけだ。寝食を共にし、一つ屋根の下で。初めての同棲相手がイケメンでもブサメンでもなく、ソフト麺なんて。世界中で私ぐらいだろう。……いや、そうとも言い切れないか。何せ世界は無駄に広い。

 とにかく稀有な体験であることに間違いはなさそうだ。色々と調べてみたけど、そんな幻覚を見る病気も、同様の事例を取り上げた記事やツイートも見当たらなかった。私は2日目にしてこの状況にある程度慣れてしまって(元々そこまで順応性が低い人間じゃないことも災いしている)、自分で自分に多少呆れつつも、書き留めておこう、と。そして突き止めてやろう、と。考えた。麺の居ぬ間になんとやら。私は気付いたことを逐一ノートに記しておいた。

 さて。この12日間、私と麺は何度も同じ地に連れて行かれていた。そう。私の故郷だ。父と一緒に行ったレストランや定食屋、焼肉屋など。私の故郷にある店舗ばかりだった。その場で毎回カレンダーやデジタル時計を確認し、日付や時間も記録した。日付はワープ前と変わらないけれど、時間は経っている。私はこのワープを「連行」と名付けた。「連行」の前には必ず合図のような音がある。陶器どうしが触れ合うような、甲高い音。私の予想だけど、これは「レンゲと器が触れる音」だと思う。ワープさせるのが「レンゲ」だし。「連行」のされ方、つまりレンゲから闇へと滑り落ちてから目的地まで向かうプロセス、これは判然としない。気を失ってしまうからだ。どれだけ気を強く保って、頬を抓り太腿を抓り、耐えようとしても無理。恐らく偶然とアブラカタブラな力でも私に働かない限り、私がそのプロセスを目視することは不可能に近い。誰かに問いただそうとしても、闇はただ純粋に無口だし、麺は何も知らないし。

 闇に呑まれた私たちが目的地に着くと、私は空腹感に襲われる。これはワープ前にどれだけ満腹にしてもそうなってしまう。食べてから満腹になるとまた気を失って、部屋に戻る。部屋に着く時間は出発から2時間半後。これは一定だ。

 更に言えば、麺は「麺神様」なんかじゃない。ただのアニメ好きの麺だ。会話を交わすたびにそれが分かる。彼は何かを取り繕っている。繕って、隠して。そういう神様も、いないとは限らない。でも彼は。彼は「神様」と呼ばれると、明らかに動揺するのだ。表情豊かな目を、キュッ、と細くして。彼は、似過ぎている。

 例えば、焼肉に行ったとき。肉を焼きながら麺が急にこんなことを言い出した。
「肉を焼いているといつも思うなぁ。アニメや漫画じゃ偶に肉を焼いて食うことが残酷な行為のように描かれるだろ?」
「あー。『不殺生アヒンサーの戒から醒ませ』とかそうかも」
「うん?何それアニメ?」
「……違うよ。漫画」
「知らないなぁ。アヒンサーがタイトルに入ってるくらいだから、そうなんだろうな。僕は思うんだけど、肉を焼いて美味しくして食べる行為ってのは、全然残酷じゃあない」
「どうして?」
「そりゃアレだよ。『美味しく食べよう』という真心が根底にあるからだよ。確かに動物を殺す、という行為のみにフォーカスすると、それは一見酷く残忍な行為に見えがちだけど、……それを焼いて、味付けして食べる。この過程に詰まっている数多の人間の真心を無視して話すことはできないはずだろ? だから僕らは気にせず、美味しく食べるべきなんだ」
 牛肉の脂が落ちると、炭がその身体を赫赫と赤らめる。煙が上がる。いつの間にかトングを持った麺が、網の上で育てた肉を私の皿に3切れ、自分の皿に3切れ。取り分けてから、タレに2回潜らせて、真っ白なライスに3回バウンドさせる。
「それにさ」
 麺は思いついたように口にした。
「動物だけが生き物なわけじゃないだろう。野菜だって生き物だ。動くか動かないか、……人間が感情移入しやすいかどうかで、残酷の基準を決めているから。人間はいつまで経っても、尊大で悪い子なんだ」


 私が朝早く起きた理由はもう1つ。今までに聞いたことのない音が、耳の奥を揺らした。形容し難い音だ。大きくて、重くて、柔らかいものを、勢い良く地面に叩きつけるような音が。何度も部屋中に響いていた。私が目を覚ますと、麺も早起きしたようで、姿見をじっと睨めつけている。

「今の音、何?」
 その後ろ姿に問いかける。麺は目を見開いてこっちを向いた。
「いや……分かんない」
「……そ。気のせいではなかったの」
 麺は沈黙している。何かあるのだ。麺は今、気がつかれたと思っている。あの変な音と、自分の関係を。一言ではとても表せないTruthを。このまま詰問すれば、吐くかもしれない。私はベッドから身体を起こして、素足を床に。手に抱いていたアザラシのぬいぐるみが、コロン、と落ちる、と、

 その、とき。

 陶器の鳴る音がした。部屋が真白に染め上げられた。私たちは掬われた。そして、闇の中に放り込まれる……。






 目を覚ますと、見覚えのない場所に立っている。曲がりくねった煉瓦道、その道の上をどこまでも続く無口な雑踏。道の側に疲れた川面が煌めき、古く錆びてボコボコの自動販売機を照らす。その傍ら。私の眼前に建っているのは、喫茶店だった。京緋色の日差しに、小さな白字が並んでいる。「喫茶・ふぁんたずま。」 私は吸い込まれるように、この店のドアノブに手をかけていた。

 コラランコロン、コラコロン。

 鈴が店内に響く。店の中央に純白のグランドピアノ、そのピアノをL字型に囲むような席の配置。1番隅の席、柿渋色の丸テーブルの上に、麺は座っていた。私もその真向かいの椅子に腰掛ける。同時に麺が口を開いた。

「良い雰囲気の店だよなァ、ここ」
「そうね」
「運が良ければ演奏も聴けるらしいぜ。何でも天才小学生が度々弾きに来るんだってサ。幼いのに、まるで波乱の人生を過ごして来たような、激情的な演奏——って、前に来た奴が言ってた」
「へぇ。それはちょっと……聴いてみたい、かも」
「次来る時、居るといいな。その子」

 私たちがそんな話をしていると、立派な口髭を蓄えた壮年の男性が注文をとりに来た。私がココアを一杯頼もうとすると、モーニングセットが付けられるのだと、男性は言った。麺はお茶とご飯と味噌汁と卵焼き、私はココアと小倉トーストのモーニングにした。

「いやしかし、アンタ朝からパンを食べるのか」
「……朝はパンでしょ。あんたこそ朝からご飯とか重くないの」
「いやー、朝は米でしっかり体力をつけねェと。それに俺、米至上主義過激派の一派だから」
「麺のクセに何言ってんの」
「だって朝『ご飯』だぜ? ご飯はライスだろ。ライスは米だろ。日本人は米を食べるのが宿命なんだ」
「朝食って言い方も、朝餉って言い方もできるよ」
「いや、そんなのはアンタの語彙感・価値観だ。俺は俺の心臓から溢れ出した、俺の言葉を信じる」
「10歳児未満の考え方」
「何をゥ。白米を食べられなかったら鬱になるんだぞ、ソレが存在しないことの絶望でな」
「随分マイナーな鬱への陥り方だね。絶望で良かった。普通、なるのは脚気か通風。食べ過ぎは良くないよ」

 そうこう言い合う内に運ばれて来た。赤だしの良い香りを嗅ぐと、私もご飯にすれば良かったかな、と。一瞬思った。でも麺野郎の勝ち誇ったような眼を見てしまったから、今のナシ。ノーカン。

   ココア(モーニングセット) 1杯 520円

 私の方には頼んだ通りのココアと小倉トースト。甘い✖️甘い=甘ったるい、が原則な世の中だけど、経験上、この組み合わせはそうじゃない。ココアの内に身を潜ませるカカオの苦味が、小豆とココアの相克を上手く仲裁してくれている。こんがりと焼き目のついたトーストに、小豆とバターをたっぷり塗りたくる。するとどうだろう、神々たる変貌を垣間見ることができる。あんなに頼りなげだったトーストが、今はまるでギリシア神話のティターンの如き強大なオーラを放っている。「貴様に我を喰らう資格があるか?」と今にも絶叫しそうなほどの立体感。慄きつつ手に取って、一口頬張る。天に浮かぶ雲のように柔らかいトーストが、小豆の甘味を抱擁しつつ口内に転がり込む(雲なんて食べたことない)。それをココアで流し込む。ティターンを打ち滅ぼしたゼウスの如き甘さと熱さで、私の口内を、喉を、肉を、骨までもを蹂躙し、溶かし尽くしていった。もう一口。トーストを齧れば私の身体はバターと粒あんの絶妙かつ巧妙なタッグによって再構成されていき、不死鳥の如く蘇る。

「そーいえばさ」
 私はココアを飲み干して、一息吐いてから、言った。
「ウチは朝食によくパンが出るから、弟が朝ごパンって、呼んでた」
「グフッ」
 麺は茶を啜っていた途中だったらしく、激しく咳き込む。それから、ガハハ、と景気よく笑った。
「やめてくれよなー! 茶を飲んでる最中に笑わすようなこと。吹いちまったらどうすんだ!」
「そんなに面白いことでもないのに」
「笑ってお茶とか牛乳とか吹き出すなんて古典的だよね。『ノウショウ』でもそんなシーン、あったっけ。確か」
「『ノウショウ』な!『脳の髄まで雨瀟瀟』だっけ? そんなシーンはなかったと思うけどな。あのアニメ、終わり方があんまり好きじゃなくてさァ」
「へぇ。私はあの作者のやりそうなことだと思ったけどな」
「まぁなァ」

 私はこの時点で、一つ確信を抱いていた。不可思議だった点と点が、星座のように繋がって形を成して。私だけがこの世界から浮いていて、マルとバツの境界線を彷徨しているような、そんな揺れる想いが、やっと定まる場所を見つけていた。  
 ただ一つ。私の心の隅で足掻いていたのは、私の裏側の私。
「合っていたとして、どうするの?」
 私の確信が、果たして事実に限りなく近いカタチであったとして、どう伝えれば正解に辿り着くのだろう。おびえた心のアクセルを全開に吹かして突撃し、流血する醜態を、私は嫌悪している……違う。恐れているんだ。怖い。怪我をしたら見限られる。「ほらやっぱり」「おうちに事情がある子は大変なのよ」「だから言ったろ、アイツはいつか失敗するってさ」。後ろ指さしてほくそ笑む。成功してる間、信じたいフレーズを並べてたクセに。人の不幸に寄り付く蟲どもは絶えず這い回る。私の頭の上、足元、指先、脳のうち。私は怖かったのだ。

 その、とき。

 陶器が鳴る音がして、グランドピアノがぐにゃぐにゃと歪曲した。レンゲの形へと変わっていき、私たちを席ごと掬い上げた。おかしい。今まではこんな例1度もない。店から「連行」されて寮に帰るとき、レンゲは現れなかった。目を閉じて、開けると部屋にいる。それがルーティンだったのに。私たちはまた闇へと放擲され、同時に気は遠のいて………………





❸笑えば良かった。


 6月という、夏の模造品のような季節に空を見上げると、燕がひゅるひゅるとジェット機よろしく飛んで行くのがしばしば見られるだろう。私は思う。何の躊躇いもなく飛ぶのは楽しいか。そんなに楽しいか? それに意味はあるのか? 大体「土食て蟲食て口渋い」なんて鳴くのなら、はなから蟲なんて食わなくていい。私はそんなこと、望んじゃいない。

 橋の上の、雨に壊れたベンチ。目を覚ますとそこに座っている。私のよく知っている場所。幼い頃、まだ外で遊ぶという習慣があった頃、よく通った広場。私の故郷だった。傍らを流れる水路から、湿った風が頬をぺたぺたと触っていく。風の先の終わり、こぶし咲くあの丘に見える、中華料理屋。外観はまるでイタリアンのような清潔さで、ともすれば高級料亭にも間違われかねない。しかし、一歩入口に踏み込めば、座敷あり、カウンターありで、混雑時には相席も出る。「るろ剣」「こち亀」などの漫画や、「ウェンズデイ」などのゴシップ誌も置かれていて、注文を待つ間、中年男性たちはそれを読んで暇を潰す。安くて美味しくて清潔。地元で愛される中華料理屋、名前は「三粋さんずい」。

 洒落た檜の引き戸を開けて中に入ると、テーブル席に麺は例の如く座っている。
「おはよう」
 麺が静かに声をかけて来た。だから、私は、こう返答する。
「おはよ、お父さん」
 麺——もとい、麺の姿をした父は、キュッ、と眼を細めた。私は更に続ける。
「それに、あなたも。誰かは知らないけど。今日、朝食を一緒に食べた人」
 割り箸の入った箱の陰からのそのそと、もう一本、麺が出てきた。その眼は大きく見開かれている。
「……いつから気付いていたんだい?」
 父は私に訊ねた。
「お父さんかな、という予想がついたのは最初にご飯に行った時からずっと。確信に近づいたのは昨日。でも今日、2人の態度があまりにも違っていたから、少し戸惑ったかな」
 ところで、やっぱりお腹は空いている。3人とも焼き餃子を1人前頼んでから、私はそこにエビチリとご飯、父は坦々麺、もう1人は天津飯を注文した。

「さて」
 私はまるで何処かの常識のない名探偵みたいに、指を一本立てて話し始める。
「そもそもおかしいな、と思ったのは、『麺神様』と名乗ったときの態度。明らかに狼狽していて、今置かれてる状況がよく判ってない、って感じだった。でもお父さん、多分鏡を見たんだよね。そこからどう思考したか分かんないけど、お父さんは結果的に、ごまかした」
「そうだね。ごめん、僕もなんであんなこと言ったのか、よく分からないんだ」
「それから、一人称が不自然に変わっていた。神様、と言われたら『我』、肩肘張らず話すときは『僕』。ここまでで、神様というのが嘘なのは分かる。所作や話し方の端々から、私を出逢う前から知っている、ということも推測できた。だから『現在のお父さん』だと思っていたの。
 でも、違う。違った。今、私の目の前に座っているのは、『過去のお父さん』……蒸発する前の、お父さん、なんだね」
 父は黙って頷いた。
「覚えてる? 先週、笹木屋でご飯を食べた時にお父さんが訊いてきたこと。
『薬学部に入った君を見て、お父さんも喜んでるだろ』
 この言葉、もしお父さんが『現在のお父さん』だとしたらおかしな発言だよね。だって自分が蒸発しているんだから、私がどの大学のどの学部に入ろうが、分かるはずないんだもの。お父さんが、『喜んでいる』わけがない。知らないんだから。私のことも、家族のことも、何も。そして、それをわざわざ訊いてくるってことは、自分が家族と音信不通になっている状況を、知らない、若しくは知らないフリをしてる、ってことが分かる。
 それで、知らないフリをしているか、本当に知らないのか。確かめるために『アヒンサー』って作品の話をしたの。『不殺生アヒンサーの戒から醒めろ』は10年前のアニメね。お父さんはアニメが好きだったし、麺になっている間もアニメの話をしていた。それで私が鎌掛けしたのは1期の1話の内容ね。タイトルを聞けばアニメってことは分かるはずなのに、あなたは『それはアニメか?』と訊いてきた。だから私は『漫画だ』と嘘をついた。お父さんはそれになんの疑問も持たなかった」
「蒸発してからはアニメを観ていなかった、ってことは?」
「そうだね。蒸発して『から』ならね。お父さんが蒸発したのは8年前。あなたがそのアニメを私に教えてくれたの」
「………ご明察だよ。僕はまだ君が7歳の時、現在から12年前の、君の父親だ」
 私はフゥ、と一息吐いた。同時に餃子とエビチリが運ばれて来る。

 三粋特製焼き餃子 1人前(5個)  300円
 三粋特製エビチリ 1人前 820円
 小ライス 1つ 100円

 この店の餃子は面白くて、まず皮がかなりモチモチしている。タレは2種類。1つはラー油に酢に醤油というシンプルなタレだけど、もう1種類は違う。濃い、とにかく濃い。色が見るからに深い。甘味噌だ、正体は。甘味噌に、磨り下ろした焼きニンニク。どうせなら他では中々頂けない味をば。甘味噌ダレに餃子を、贅沢、2度づけする。ご飯にバウンドさせる。足りない。もう1度つける。茶碗を持って、溢さぬように、一口。厚い皮をゆっくり前歯で裂く。と、舌の先に迸る肉汁、皮に閉じ込められていた愛のバクダンが威勢よく爆発する。それに、ドミノ倒しの如くニラとニンニクの香りが畳み掛ける。熱い! ご飯が進む。

 エビチリも面白い。エビやネギだけじゃなく、何か、チリソースに隠れて不確かな果実が顔を出している。破れそうに膨らんで真赤に熟れた果実……トマトだ。このトマト、チリソースとの相性が良すぎる。お互いを潰し合わず、引き立てあい、まるで付き合う前の男女のような尊いハーモニーが、このエビチリを「ただ辛いだけの料理」に落とさない。勿論メインのエビも並外れ。私の口の中で今にも、らるらりらと暴れだすんじゃないかというほど、ヤバみを感じる弾力だ。これが餃子とも合う。進むご飯に茶碗のキャパが追いつかない。ライス小を頼むんじゃなかった、と今更ながら後悔した。

 このままだと夢中で食べ切ってしまいそう。一旦箸を置く。
「それで、あなただけど」
 私はもう一本の麺(この場合、「1人」が正しいのかもしれないけれど)に顔を向けた。麺の背筋(と言えばいいのかな)がピッ、と伸びる。
「あなたが別人だと判断できた1番の理由も、アニメなの。そもそも言動がお父さんとは似ても似つかなかったし、訝しんではいた。確定したのは『ノウショウ』の話をしたときかな。『脳の髄まで雨瀟瀟』は、来週から始まるオリジナルアニメ。お父さんが、知ってるはずない。でもあなたは、まるで先の展開まで知っているかのように話した。だから、未来から来たお父さんとは別の誰か、だと推測したの」
「恐れ入るなァ。合ってるけど、恐れ入り屋の鬼子母神、だぜ……」
「恐れ入る、ってこういう時に使う言葉じゃないと思うんだけど。で、あなたは誰なの?」

 私の問いに彼は暫く口を閉ざしていた。いや口は元からないのだけど、口を閉ざしていた。気の不味い沈黙を噛みしめる。苦虫みたく。時間にしてみればほんの玉響たまゆらのはずなんだけど、1秒が幾星霜にも感じられる。私はジグザグの無感情を抱えたまま、待っていた。

 彼は運ばれてきた天津飯を半分ほど平らげてから、やっと一言、
「……小五の時、覚えてる?」
 と、私の顔色を伺う。
「覚えてるよ」
「俺、小五のとき、クラス一緒だったんだァ。海部かいふって名前。2学期は同じ班だった。
 ずっと、謝ろうと思ってた。
 10月だったと思う。給食の時、班ごとに分かれて食べるよな。あの時、アンタと向かい合って食べてたのが俺だった。10月、だったと思う。笑わされて、アンタの顔に飲んでいた牛乳を吹いちまった。相当嫌だったと思う。俺だったらガチギレしてる。でも、アンタは何も言わなかった。俺は怖くて。……違う。当時の俺はプライドばっかり高くて、自分の失敗に動揺してて。碌に謝ることができなかった。
 それから君は給食を保健室で食べるようになった。風の噂で、君が誰の食事会にもいかなかくなったのを聞いた。
 あの時の出来事は、俺の中で、ずっとずっと、心の痼りだった。
 許してもらえるかどうか分からない。でも、ごめん。本当に、ごめん」

 海部は私に深く頭を下げた。気がした。私の視覚は、多分この辺りからぼやけてしまっている。けれど、私はこう返答した。それは覚えている。
「許さない」
 そして相手の言葉を待たず続ける。
「故意でもそうでなくても、私が楽しく食事をでき得る8年間はない。ないの」
「……そうだよな」
「でもね」
 私はふぅっ、と溜息を一つ吐いた。想いを伝えるのに言葉なんて要らないなんてウソ。胸の内に募る膨大な「想い」という名のエネルギーを、遥か遠い、遠い笑い話になんかにさせないために。言葉を尽くして、尽くして、尽くして、尽くして、唇切れて喉枯れるまで、私たちは伝えることを選択しなきゃならない。どれだけ慎重に言葉を選ぼうが、人だから間違える。それでなくても、人は年を経るにつれ、言葉をぞんざいな感性と立派な無神経さで扱うようになるのに。

 私はあんな奴らにならない。たとえ間違えてたって、誰よりも美しく間違えていたと、胸を張って言いたいから。

「……でも、今日は一緒にご飯を食べてくれた。嬉しかったよ。今日1日楽しかった。本当にありがとう」

 振り絞った。正解かどうか分からない。私はきっと伝えきれていない。もっとこうすればよかったって後悔するんだ、きっと。単に嬉しかった、楽しかった、では伝わらない感情がある。でもそれ以上に当てはまる言葉も見つからないのだから仕方ない。円周率は3.141592653589793まで言えるのに、言葉はいつだって狭霧さぎりのよう。私は、どうしても、もどかしくて悔しくて、ぎゅっ、と目を瞑った。







エピローグ。



 目を開けるとそこは私の部屋だった。拍子抜けだった。私はまた、玄関に立っていた。姿見のある玄関。手にはカロリースティック。日付は最初にあの麺と、お父さんと出会った日。

 夢だったんだ。

 そう思った。きっと疲れていた。長い長い夢だったんだ。そりゃそう。あんなこと、あるはずないもの。私の見た夢。リアルだったな。玄関で寝ちゃうなんてこと、あるんだ。邯鄲の夢とは言うけれど、夢の中では2週間ぐらい、あっという間なんだなぁ。こんな夢を繰り返し見ていたら、誰もが無二の思想家になれそうだ。

 私の言葉に対しての、彼の言葉を聞けていない。

 夕食を摂ろうとして、ふと、携帯にメッセージ通知が1件、来ていることに気づく。



 私は暫く画面を眺めていたけど、心に決めた。


「お待たせ、待った?」
「そうでもないよ〜。でも珍しいね、ゆーちゃんご飯あんまり人と食べないでしょ」
「そうかもね」
「もしかして……私に奢りたくなっちゃった!?」
「違いますー、気分ですぅー」
「ケチィ」

 カフェオレみたいな巻き髪をしたこのゆるふわ女子、マイカは、大学に入って初めてできた友だちだ。私がたまに行く飴細工のお店でバイトしていて、たびたび顔を合わせるからすぐに仲良くなった。彼女が一人暮らししている場所も近いので、よく2人でショッピングしたり、カラオケに行ったりする。しかし、一緒にご飯に行くのはのうらりくらり、断ってきた。
「何頼む? 私はマルゲリータ!」
「私はパターテかな」
「Hey Hey Hey、ゆーちゃん、結構ガッツリ行きますね!」
「お腹空いてるの」
「私も私も〜。私ピザ屋の彼女になりたいもん。毎日ピザでいい」
「絶対飽きるじゃん。マイカ多分3日目ぐらいでそいつと別れたいって言い出すよ」
「言い出さないって!ピザ好きだし」
「あははっ……」
 景色が、歪んだ。
「えっ、ゆーちゃん、なんで泣いてるの!?」
 私だって分からない。私はなんで泣いてるんだろう。でも1つ、1つだけ分かった。あのレンゲに「すくわれて」いたのは、私だ。

 たぶん、この世に生きる喜びなんて、些細なことなんだと思う。人生の意味なんて、探すものじゃない。寧ろ私たちが意味を付けるものなんだと思う。燕は生きることに意味があるから空を飛ぶんじゃない。空を自由に飛べるから生きるんだ。彼らは強い。私たちより、ずっと、ずっと。見出せないなんて弱音なんだ。私たちの思っているよりずっと近くに、生きる意味なんて小さな物、ごろごろ転がっているんだ。
「ゆーちゃん、ゆーちゃん、負けないで!」
「ごめん……別、……べづに゛、何にも゛……負けてな゛い、から」
 私は涙を拭かなきゃならない。マイカは私が何度断っても食事に誘ってくれる。今だって私との時間を楽しく過ごそうとしてくれる。ピザだって美味しいはずだ。彼女は優しい。優しいから、甘えさせて欲しい。

 私の道に立ちはだかっていた壁の真前で、私は堂々と座り込む。そこでピザを食べる。壁に立ち向かうために。壁を突き破るために。まだ私は、まだ、人生の意味づけの途中なのだから。

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