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キミはいつか、地球(ほし)の英雄。

 太陽が眠りにつく海の中へ彼女も身を沈めようとしていた。丸くちぢれた髪を潮風に流しながら、セーラー服の彼女は海に向かって立っている。そのしなやかな力強さは向日葵ひまわりのようでさえあった。太陽は己の身体を海に溶かして、波打つ水面を橙に染めている。寄せては返す白波に彼女はを進めた。食い意地のはった波が泡立ちながら、浜についた彼女の足跡をも飲み込んでいく。逆光。濃い影に塗りたくられた彼女の背中は、まるで人の形をした深い穴かのように見えた。くるぶし、膝、腹。徐々に彼女は海に浸かっていき。やがて最後の光を放ちながら西日が頭まで海に沈むと、彼女の姿も波間に忽然こつぜんと消えてしまった。


   ☆☆☆                       ☆☆☆


 あの人の瞳が携えた海のあおを、わたしはまた思い出した。それはきっと、「前日」だからだと思う。だって「前日」って、なんだか胸の下がくすぐったい心地になるから。わくわくする、胸が高鳴る、そんな感覚に多分近いけれど、多分遠くもあって。焦燥しょうそうとも高揚こうようとも違うこそばゆさを感じてしまう。何か始まる予感。そして、何か変わってしまう予感。今、という刹那せつなにだけにしか持てないこの予感を、わたしは全身で受け止めていたい。そう思う。
 文化祭前日。秋色の窓際。陽光を吸い込んで茜に照り輝く、机の上。窓の外には音をなくした海。波のあやのベール。の、向こうに沈み行く陽が、海の色を子供のほっぺたみたいな柔い赤色に染めている。
 わたしは手を止めてしばらくぼんやりしていたけれど、もう少しちゃんと今の景色を目に留めておきたくて。窓を開けた。
 ふわり。
 美人さんの指先みたいにたおやかな秋風が、わたしの顔に触れ、髪をで、教室の中へと滑り込む。ほのかに金木犀きんもくせいの薫り。甘くって、優しい匂い。わたしは好き。
 西高校舎の3階、階段を上ってすぐ右の、2の3がわたしたちの教室。そこから見下ろすと。ハート形の葉っぱの一枚一枚を安全帽みたいな若い黄色に衣替えした銀杏いちょうの木が、連なって運動場を囲んでいるのが見える。銀杏に隠れて見えないけれど、陸上部の一糸いっし乱れぬ行進の掛け声が聞こえる。サッカー部のボールを蹴る音も。4階の音楽室からはそれに被さるように、吹奏楽部の吹くトランペットがこだまする。廊下からはパタパタと、平べったい上靴の音。準備に勤しむ同級生のはじけるような大笑い。声と音が交錯する。わたしはその潮目にいた。漂う海月くらげのように、わたしは身体を左右に揺らす。わたしの全部が明日を待ちきれてないみたいだった。

「綺麗だね」
 声をかけられて振り向くと、そこにいたのは"彼"。瞳に海を携えた彼。彼はホントに美しい。すらりと通る背筋が、夏服の白シャツを一際ひときわ魅せる。その袖から伸びる、色白の華奢きゃしゃな腕。爪のよく整えられた手。指の一本一本が精巧なギリシア彫刻のようで。わたしは思わず息を呑む。
 彼はなぜか、とっても大きなスイカを抱えていた。折れそうなくらい細い彼が抱えるには大きすぎるスイカだ。前世はどこかのお星さまだったに違いない。わたしの熱い視線に気づいたみたいで、「このスイカはね」と彼が話し出す。
「クラスの飾りにスイカ・オ・ランタンでもどうかなと思って。僕が育ててるスイカが大きくなっていたから、持ってきてみた」
 耳を赤くしてはにかむ彼の横顔に、わたしはまた、胸の高鳴りを抑えられない。どうしてこんなにも、わたしは彼が「好き」なんだろう。この「好き」は恋じゃない。まして愛でもない。のに、なぜだかわたしは彼のことを気にしている。彼のことなんて数えるほどしか知らないのに。
 ひとえに彼が美しいせいかもしれない。って、わたしは思う。
 わたし。「息を呑む美しさ」ってものが、ホントはこの世にないんじゃないか、って思っていた。息することすらためらう。それは何かを純粋に美しいと感じてそうなっているんじゃなく、目の前の美しさに気圧されて、その美しさの前にいる"わたし"自身の醜さ、愚かさを改めて見つめてしまって。そこから来る「ためらい」が、息を呑むってことなんじゃないのかな。純粋な心の動きじゃなくて。美しいものと自分を、或いは美しくないものと比べて生まれた「ためらい」なんじゃないのかな、なんて。思ったりもしたけれど。
 彼を見るたび、そうじゃないなって思う。
 美しさは単純明快だから。知と愛のように複雑ではないから。ホントに美しいものを見た時は、なーんにも、考えることができなくなってしまう。魂ごと吸い取られたみたいに。思考と感覚が引き裂かれて、精神の抜け殻になる。わたしは彼の横顔を見るたびにそんな抜け殻になって、早まる鼓動にばかり耳を澄ませてしまって。

 わたしが彼と初めて会った日を思い出す。初めて息を呑んだ、あの日を。


   ☆☆☆                                      


 雑木林を抜け畦道あぜみちを進んでいくと、白波の立つ海が目の前に。畦道から靴を脱いで砂浜に降り、浜辺の道から高台の学校へ。わたしのお気に入りの通学路。まだお月さまの温度を閉じこめたままの冷たい砂を、素足でちょちょいと蹴飛ばして。海を横目に早歩き。そんな毎朝。を、ホントに美しいと思う。
 浜の通学路を歩くとき、セーラーのリボンを潮風に引かれながら、いつも海のふしぎについて考える。海はどうして青くて、深くて、広いんだろう。ふしぎの答えは鳴き砂も貝殻も教えてくれない。だからわたしは時たま、海の底に行ってみたくなる。子供のころ、海の底には王子さまがいて、海のふしぎについてなんでも知ってるんだと思っていた。「そんな王子さまはいない」と今ではわたしも思うけれど、それでもきっと、海の底にはふしぎを解く鍵がぽとぽと落ちてるはずだって信じていた。

 あの日、彼を通学路で見かけたのはたぶん、偶然だったと思う。浜辺でぼんやり海を見る人影。通りざまに彼の横顔を見て、わたしはふと、水底の王子さまを思い浮かべた。
 わたしの、理想の、王子さま。
 頭の中で描いてきた人が、そのまま飛び出してきたんだ。そう思ってしまうほどに。ホントに美しくて、思わず。わたしは息を、ごくりと呑んだ。
「……あなた、だれ?」
 不意にこぼれた言葉のぶしつけさに、わたしはハッとして口を押さえる。でも、あの人は少しも驚かずに。まるで最初からわたしが話しかけてくるのを分かってたみたいに、わたしに微笑みかけた。
「誰に見える?」
 彼と目を合わせたその刹那、わたしの時間の輪郭が丁寧に切り取られて、きらめく浜辺の砂で飾り立てられた、気がした。眼の奥のお星さまが千々に砕け、ぱちぱちと音をたてて鳴く。
「こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど、……王子さま」
 あの人はわたしの答えを聞いて、別段面白がる様子もなく。ただ目線を海に落とした。うつむき加減の彼の横顔は、さっきより深い影を伴っているように感じるけれど、やっぱり美しい。唇をつい、と尖らして、ちょっと考えているそぶりの彼。
「キミのいう王子さまが何なのか、僕には分からないけどさ。でも、今日からキミと同じ高校なんだよ」
「転校生なの?」
「まぁ、そういうことになるね」
「あなたって、わたしの夢じゃないの?」
「おかしなことを言うなぁ。キミってそんなにねぼすけなのかい」
「寝坊したことはないけど。でも、……夢でも見てるのかもって思っちゃうくらい、あなたが」
 綺麗で。っていう言葉が出かかったけど、舌の上の飴玉を転がす要領で喉の奥までUターンさせる。初めて会った人に「綺麗」なんて言われたら、わたしだったらびっくりしてしまうから。むしろ嫌かもしれないから。むぐ、と口をつぐんだわたしを横目に、ウミネコが浜辺を飛んでゆく。鳴く風、潮騒しおさい、鐘の声。それらの音色が胸の中に滲んでいく。
 わたしが音を消してしまう。わたしが音を吸い込んで、消してしまう。美しい音が、全部わたしのせいで、わたしが黙ったせいで、消えていってしまう。もちろん、彼の声も。彼の声さえも。消えて。
 わたしは本気で、それだけは嫌だと思った。彼ともっと話がしたい。そうすれば、……彼の近くで彼の声を聞いていれば、わたしはわたしの水底にある「ふしぎを解く鍵」を見つけることができるのかもしれない。と、確かにそう感じた。

 だからわたしは、今でも彼の近くにいたいのだ。


   ☆☆☆


「ゆあ、おーい、ゆあってば」
 わたしの名前を呼ぶ声が頭に響く。眉間にむむむ、と力を込めて重いまぶたを持ち上げると。そこにいたのは志生しう。同じクラスでただ一人の、女の子の友だち。顎よりちょびっと上で切り揃えた直毛の黒髪、白磁はくじみたいにんだ肌色。いわゆる美人というやつ。そんな志生が、横に潰れたわたしの顔を覗き。目を細め。べにでも塗ったみたいにつやっぽい唇で、ふひゅー、とかすれた口笛を吹いている。わたし、教室で机に突っ伏して寝てしまっていたみたい。机の冷ややかな温もりが頬を通して伝わってくる。
「ゆあ、お迎えに上がりましたよぅ。もう下校時間。帰ろ」
 言葉のままに外を見やる。と、もう日はとうに落ちていて、遠くの燈台のがちらちらと真っ暗な海を燃やしている。月明かりがいやに眩しい気がする。
 夜の海は怖い。波音が朝のそれと違って重く、強くなる。月に照らしだされた人の街のしじまは、海原うなばらの咆哮にいともたやすく掻き消される。そして、いつか自分は海というおおきな怪物に呑まれてしまうんじゃないかってくらいに、深い黒色。誰もいなくなった世界にわたし一人になったら、ずっと眺めていたくなるくらい、深い魅力。夜の海の前に立つ人は、たとえ陸にいてもおぼれてしまうと思う。

 志生とわたし、二人で裏門から出た。浜の道を歩いて帰る。家がおんなじ方向で良かったな、ってこんなときは思う。今宵こよいも海に浮かぶ月は綺麗。
「随分寝てたみたいだけど、また例の『過去』を見てたの?」
「うん」
 わたしは感情が昂ると、いつの間にか、ばたん、きゅーって。寝てしまうみたい。そんなふうに眠ってしまった時はきまって、『過去』の夢を見る。わたしはこの学校に来るまでの記憶が曖昧だから、欠けた記憶を探すために夢を見ているのかもしれない。と思ったこともあったけれど、夢はどれもはっきり覚えているほうの、……つまり、学校に来てからの『過去』だから、きっとそんなことはない。ふしぎな夢。
 寝てしまうことを知っているのは、志生と、もうひとりだけ。特に志生とはしょっちゅう、『過去』の夢の話になる。
「今日も彼と初めて会った時の夢だった」
「また転校生の夢か。飽きないもんだね、ゆあも。アンドロイドは電気羊の夢を見るかどうか分からないから面白いのに、ゆあは転校生の夢ばっかし。もう分かってきちゃった」
「飽きる、飽きないの話じゃないよ。結局のところ、わたしの中に刻まれてるんだと思う。知らないうちに」
「それは恋じゃないの?」
「うん、と。……やっぱり、なんというか。ちょっとだけ、違う。
 言葉にしにくいけど、引き寄せられている感じ。ふと気づいたら、彼の心の隣にわたしの心があるの。わたしから『愛してる』って、そんな積極的な想いがあるわけじゃなくて。かと言って『憧れ』ほど遠い感情でもない、と思う」
「遠い感情?」
「うん。距離の話。遠くの人の背中に感じるものが『憧れ』なら、わたしの今の感情はもっと親近感のある、それでいて積極的でもないものじゃないかな、って」
「なるほどねぇ……。でも、結局その夢は謎のままだね。推理しようにも手がかりが無いし」
 志生はそう言って首を傾げた。顎まで短く切り揃えられた髪の毛が、すとんと肩まで落ちるくらいに首を傾げていた。あらためて見ると志生の黒髪はとても素敵。月の明かりが映える艶、整えられ柔らかく流れる様子はまるでの濡羽のようで。わたしの硬くてくるくるの髪とは大違いだなって感心して、溜息が出る。志生はそんなわたしに構わず続けた。
「何か思い出せないの? 最初は自分が素直に感じたこととか、思っていた小さなことで良いの。そこにあるズレ、っていうか、違和感から紐解いていけばいいの。
ほら、たとえば過去の夢が現実と地続きみたいに思える、って言ってたでしょ?」
「うん。現実と地続きみたい・・・どころか、地続きそのものなの。夢を見る直前も寝てしまうことに気づかないし、夢を見ている最中なんてもっと無理。目が覚めて、やっと気がつくの。夢だったんだって」
 志生はわたしの言葉にうなずきながら、顎を人差し指の腹の上に乗せて考え始めた。彼女の考える時のクセ。人差し指が、顎の重みでちょっとだけしなっている。このしなりがわたしは好き。そんな志生の向こうで唸る海。浮かぶ月。から。
 どこにも変なところのない、うさぎの都のお月さま。から。

  その月から、だれかが海に落ちていくのが、見えた。


   ☆☆☆


 それは落下というより滑落かつらく。満月のふちから足を滑らせて、人影が海へと消えていく。およそ信じられない光景。目を疑った。目を、奪われた。
「ねぇ!志生!」「わ、どうしたの?」「今、月から人が!っ」「人が?」「落ちたの!っ、海に! 助けなきゃ!!」「……ええ?」「あれを見て!」
 志生が海の方を振り向く、まさにその瞬間。大量の人影が、月から、ばら、ばら、ばらと、雨のように、黒い雨のように、海へと降り注いだ。わたしは聞き逃さなかった。かすかな叫びを。「たすけて」という、波音ににじみゆくかすかな悲鳴を。
 助けなくちゃ。なんとか、助けなくちゃ。たとえ1人でも。わたしは靴を脱ぎ捨てて、海へと足を踏み入れる。「待って!」、志生の制止の声。夜の海は一段と冷たくて、わたしの体温なんてすっかり持っていってしまう。でも、それらはわたしが足を止める理由にならない。

「ユア」
 わたしを呼ぶ低い声。とともに、強い力で浜辺から腕を掴まれた。勢いでおたおたよろめくわたし。振り向くと、大柄な男の子が仁王立ちしている。もうひとりの大事な友だち、天次てんじくん。
 天次くんは、見るからに険しい表情をしていた。月明かりの下で見る天次くんの顔は、鋭い目の下にくっきり残る影と浅黒い肌も相まって、まるで金剛力士像みたいだった。鍛えられた太い腕も大木から彫り出されたものに思えてくる。刈り上げた側頭。頭頂で結われ襟足まで落ちる髪束かんづかを潮風に揺らして、
「今のままのお前では奴らを救えない」
と、重い声で言う。砂浜の方では志生が心配そうにわたしたちを見つめていた。
「でも……! わたしは、絶対に『助け』を求めてきた人のことは、助けるって決めてるの、そうしないと、どうしてか、なにかダメになっちゃう気がするの……!っ」
 天次くんはわたしの訴えに、少し目を細めたように見えた。
「……分かっている。よく分かっている。お前のその気持ちに応えられるよ、俺は」
 そう言うと、天次くんはブレザーの、金の校章が縫われた胸ポケットの中を探り始め。取り出したのは小さなイカのおもちゃだった。おめめがくりくりと丸こくて、ついでに身体もまん丸。色はビー玉みたいに透明で、天次くんが掲げると、月の光を照り返して暗い海にまで輝きをもたらしている。
「これはダンゴイカという烏賊いかの一種だ。今はこうして青豆ほどに小さいが、見ていろ……」
 天次くんは深く息を吐いて、それから深く息を吸い込むと、ダンゴイカのおしりにキッスした。ゆっくり空気を吹き込む。するとみるみるうちにダンゴイカのお腹がぷくぽんと膨らんで、ビニールの浮具うきぐみたいになった。
「これに乗ってあの月の真下まで行けばいい」
「月の真下?」
「そうだ。奴らが落ちる場所。落ち続けている場所だ。今なら奴らを救ってやれるかもしれん」
「ほんとうに?」
真実ほんとうだ。お前は落ちてくる奴らを救え。沈んだ奴らの救出はこの俺がやってやる。烏賊、……もとい筏に跨って行けば間違いなくお前は多くを救える」
 わたしは言われるがまま、ダンゴイカのイカダ、ダンゴイカダにまたがる。「ありがとう天次くん」「なんのことはない」と言葉を交わし、ダンゴイカダを漕ぎだした。ダンゴイカダは波に揺らされながら、月に確かにむかっていく。
「やめたほうがいいよ、ゆあ。行っちゃダメだよ、危ないよお」
 追いかけてくる志生の声。が、少しだけ。雫が大海に落ちるみたいに、わたしのココロに染み込んだ。

 月の真下。黒一色の海面に、月光が仄白ほのじろい穴を開ける場所。人影が月から滑落し続けている場所だった。ダンゴイカダでそこに近づくにつれ「たすけて」救いを求める悲鳴が「たすけて」一段と大きく「た す け て」強くなっていくみたいに感じる。頭がぎんぎんと痛む。
 わたしは必死に漕いだ。助けを求められたら助けなきゃ。そんな気持ちがぶくぶく沸いていた。やかんで沸かしたお湯みたいに。痛みから逃れるには、だれかを助けるしかないんだって、なぜか思っていた。
 だけど。
 結局わたしはだれも助けることができなかった。落ちてくる人を、ダンゴイカダでキャッチして、沈んだ人も天次くんがなんとかしてくれるはずだった。けれど、できなかった。ふと、見上げてしまったから。月を。月に立つ彼を。
 月の縁に立ち、人を突き落とし続ける彼を見てしまったから。

 衝撃が、わたしを眠りに誘い込んでいく。
   ……………


   ☆☆☆                       ☆☆☆


 油蝉の喧しい合唱を、一筋の打球音が貫いた。金属バット特有の、高くて響く音。入道雲に向かって球、の代わりのアルマジロボールが、真っ直ぐ、真っ直ぐに飛んでいく。青空が遠い。応援はない。2人ぼっちのホームランだった。
 わたしはピッチャー。アルマジロボールを投げるピッチャー。天次くんが打ったホームランを真正面から見ていた。天次くんによると、わたしは初めてのわりには投げるのが上手いらしい。おもちゃのアルマジロを。

「空はいい」
 飛んでいったアルマジロを茂みに分け入って探す天次くんが、ふと呟いた。涼風が彼の結った髪の先を靡かしていく。
「空は表情をコロコロ変える。だが大事な部分は変わらない。俺はそこが好きだ」
「空の『大事な部分』ってなに?」
 私が訊くと、
「空間だよ」
なんて、天次くんは言った。
「雲も星も変わっていく。だがそこに何が存在するかよりも、何かが存在できたことの方が大事だと思うんだ。
 だから、変わらないものがあるのに変わっていく空が、俺は好きだ」
 海だって大地だって、それはあるのに。しかも空ってよりは宇宙の話じゃないの。て、思ったけれど、それを天次くんに直接言うのははばかられた。
 天次くんは正直、ちょっぴり怖い。その大きな身体もだけれど。特に、天次くんがときどきわたしに向ける妙に濡れた視線が苦手で。何の気なしに隣に居られるのが苦手で。そしてその全部に気づいているのに、どこか身を委ねている自分も苦手。煮え切らない。天次くんのことを、自分がどう思っているか分からなくて。
「俺は、ユアが好きだ」
 天次くんはそうやって言ってくれる。真っ直ぐわたしの目を見て、言ってくれる。いつでも。
「俺はユアの大事な部分は変わってないと解っている。たとえ記憶がなくなっていてもな。解っているし、俺も待っている。何一つ変わらず待っている」
 でも、わたしには分からない。人って変わりゆくものでしょう? 時間は人を急きたてるように変えていってしまうもの。それに、人の大事な部分ってなに? わたしは全部大事だと思うし、全部変わりゆくと思う。瞬間瞬間で、脱皮するみたいにカタチもココロも変わっていく。それが自然。自然に生きる、ということ。そうじゃないの? 天次くんにとっては、違うの? 分からない。分からないよ、わたしには。
 ……けれど。
 わたしにはここに来る以前の過去がない。わたしは空っぽだから。わたしをわたし自身だと言い切れない。過去のわたしを見返せないから、わたしはわたしの言葉に自信を持てない。言葉に自信がないのに、天次くんに何を言っても分かってもらえないにきまってる。

 一匹のアリが、茂みの隙間から出てきた。色の焦げた油蝉のはねを運んでいく。自分より大きなその翅を、顎ではっしと掴まえて。ぐぐいぐぐいと進んでいく。目線の先に戻るべき行列がある。わたしの影ぼうしを踏み越えた先に。
 だけど、そのアリは落ちてしまった。アリジゴクの穴に。
 つきん。
 おでこに何か、針を刺すような痛み。そんな違和感だった。見たところ何かおかしいのだけれど、見たところ何もおかしなところはない。わたしは人差し指でアリを穴から助け出して、ほっと一息ついた。これでもう、おでこは痛くない。

「いつまで固まってるんだ、大丈夫か?」
と、天次くんに顔を覗き込まれた。彼の鼻の先との距離があまりにも近くなったものだから、わたしは思わず顔を背ける。目の端で天次くんが眉をしかめるのが見えた。
「そんなに大袈裟にしなくてもいいだろ」
「……だって、無闇に近いのは嫌だし。わたしには、『間』が必要なの。天次くんだって、大事なのは空間だって言ったじゃない」
「何もそういう意味でとらなくたって。もっとポジティブな話じゃないか」
「天次くんの話をわたしなりにポジティブに受けとってるつもり。わたしたちはお互いに……近すぎると思う。
 確かに天次くんとは友だちだけど、友だちだからこそ触れてほしくないところはあるでしょ? 距離が近すぎると、それを見落としてしまうじゃない。間違って触ってしまってからでは取り返しがつかないもの」
 わたしの言葉を聞いているあいだ、天次くんは口を真一文字まいちもんじに結んでいた。込めた力のせいか、腕が小刻みに震えている。筋張った手。ゆるやかに外側へと曲がる爪には泥が溜まって赤茶けている。ささくれの目立つ人さし指、その先端までが、土臭い努力の手だった。
「ユア、お前は」
 明らかに怒気どきはらんだ声。お腹の底に重く響く。チューバみたいに。そうして、天次くんはわたしから逃げるように目線を滑らせた。鋭くて痛みのある言葉だけが、わたしの喉元に向いている。
「お前は、"あれ"の方が、良いって言うのか」
 ……どういう意味か、分からなかった。
「あれはお前を利用しようとしているだけだ。簡単に籠絡ろうらくするな。簡単に奪われるな。あれは、俺たちとは違うんだ」
 天次くんは言い捨てると、わたしの顔を上目遣いで一瞥いちべつした。それは弱々しい視線だったように思う。でもそれだけだった。何も言わずにわたしに背を向ける。肩を落として。普段より小さく見える背中、踏み出す一歩に力はなくて。
 叫びだしたかった。砂でもなんでも、投げてしまいたかった。
 何の説明もなく、ただ怒りを向けられて。傷つける言葉を放ったのに。わたしよりも先に傷ついた顔をして。そんなことして、どうしてわたしが何も思わないと思うの。言わないと思うの。せめて、天次くんのいう"あれ"がなんなのか、教えてくれたっていいのに。そうしたらわたしだって、「ろうらく」なんてしないのに。友だちじゃなかったの、わたしたち。
 感情が沸々ふつふつと煮える。その感情の正体は、「後悔」に近い気がした。でもその「後悔」が、どこから湧いて出たものなのか、わたしには見当がつかない。「後悔」は、過去を振り返ることだから。

 天次くんの背中が見えなくなって、わたしはしばらく立ち尽くしていた。こらえられなくなって俯くと、地面に落ちるわたしの影ぼうしの隣、もうひとつの影がある。その影の線の細さから、わたしには彼だと感じることができた。わたしは影ぼうしから目を離さない。今は彼に顔を見られたくない。きっとひどく情けない顔だもの。
「……天次君と喧嘩したの?」
 普段より優しい彼の声。わたしはぎゅっ、と顔に力を込めて辛抱しんぼうする。格好悪いのはイヤ。
「見てたの?」
「うん。ほんのちょっと、ね」
「……そっか」
「ごめんね。僕のせいだ」
 彼の影の輪郭が、少し、揺らめく。
「僕は、確かに天次君の言う通り、キミの思ってるような……人間じゃ、ない。だけど天次君の言うような、キミを利用してるなんてこと、断じてしていないよ」
 するわけないんだ、そんなこと。と、彼は小声で呟いている。その呟きは天次くんへの抗議というより、むしろ自分自身を問い詰めているような、そんな息苦しさにさいなまれていた。
 それでもわたしはまだ俯いている。頭をもたげる力が出ない。ただ、彼の言葉だけが鼓膜をすり抜けてわたしをくすぐる。それもシャボン玉のように弾けて消えてしまう、すぐに。だから俯いて、地面に落ちるわたしの写絵うつしえ——影ぼうしだけを見る。
 見ているうちに、わたしも影ぼうしの一部になってしまった気がして。わたしが影ぼうしで、影ぼうしがわたし。影ぼうしはわたしだけど、わたしは影ぼうしじゃない。影ぼうしはわたしを離さないでいる。ごぷごぷとわたしと一つになっていく。引力。わたしの身体中にある生毛の先っぽが、それらを感じてぞわぞわする。
「あなたは、大事なものを忘れてしまっているの」
 わたしの声で、わたしの口を通して、影ぼうしが囁く。
「このままだとまた全部失くす。早く、早くここから出ていかないと。早く、早く、早く‼︎‼︎っ」

 わたしは何を怖がっているのだろう。


   ☆☆☆


 寒い。目が覚めて一番に視界に入ってきたのは、だれかの頭。その美しい横顔は、彼。彼がわたしをおぶってくれているのだった。
「目が覚めたかい?」
 彼がわたしの微妙な息遣いに気が付いて、声をかけてくれる。けれど、月から人を突き落とす彼の姿を思い出して、わたしは思わず身を強張らせてしまった。
「大丈夫? 寒かった?」
「あ、えっと……そう、寒かったの。わたし、月の下に向かってたはずだけど、どうしてあなたにおんぶしてもらってるの?」
 彼の返答よりも先に、雑木林が夜風でざわめく。幾重いくえにも重なる木の葉と木の葉の隙間から、こぼれおちる月明かり。を受けて艶光りするカブトムシの翅。
「キミが眠ってしまっていたからね。月の真下で寝てしまったら、海に落ちて溺れてしまうかもしれないだろう。だからたまたま近くにいた僕がキミをダンゴイカダから降ろして、家まで送り届ける途中なんだ」
「わたしの家の場所、わかるの?」
「うん。さっき夕雨ゆうさめさんに訊いた」
「そっか、志生にね。天次くんはいなかった?」
「僕が見たときはいなかった気がする。何か伝言があった?」
 彼に問われて、わたしは「ないよ」とつぶやく。伝言があったわけじゃなくて、わたしが知りたかったのは天次くんの態度だ。さっきの過去の夢がまだ脳裏に引っかかっていて。天次くんのことだから、彼がわたしをおぶって運んでいくのをそう簡単に見過ごすと思えなかった。
 いつの間にか林を抜けて、ひらけた丘に来ている。「着いたよ」。丘の上にわたしの一軒家があった。
 彼に一言お礼を言って、わたしは自分の家に帰る。

 凍える夜には、やっぱり温かいお風呂がいい。汗ばんだシャツを脱ぎ散らかして、シャワーで髪に絡みついた塩を流し落とす。椿のリンスが好き。金木犀のリンスも、あったらいいのになって思う。湯気でくもった鏡。の中の自分はやっぱり美しいとは言えないけど、お目々も髪もくるくるで、なかなか愛くるしい顔をしている。おでこについた大きな傷さえなければ、もっとよかったのになって、ちょっぴり思ったけれど。髪に潮風のしょっぱさが残らないように、丁寧に洗い流した。
 お風呂から出たとき、バスタオルってなんであんなに柔らかいんだろう。お母さんみたいだ。わたしにはお母さんはいないけれど、バスタオルの心地良さはお母さんみたいだと思う。湯気の立つ濡れ髪に絡まった椿リンスの香りで、なんだか少しうとうとしてきた。子どもの頃から家にある、メンダコのぬいぐるみを抱き上げる。抱き心地が良くてお気に入り。わたしはいつも、このメンダコといっしょに寝る。夢で海の底に行ける気がして。でも結局、どこにも行けない。残るのは何もない「わたし」だけ。
 彼は一体何者なんだろう。月の縁に足をかけていた彼。うんと頭を悩ませるけれど答えは出ない。
 一晩寝ると、わたしの今日体験したことの記憶はまた薄らいでしまう。夢がわたしを呑み込む。まるで、夜の海原みたいに。

   ☆☆☆                         ☆☆☆

 彼の肩に顎を乗せて寝息を立てるわたしの顔を、わたしが見下ろしている。もしゃもしゃ髪。そして赤毛のアンみたいにそばかすだらけの、わたしの不細工な寝顔。アンは可愛いけれどわたしはどうしても不細工だ。
 自分の顔を自分で正面から見ている。鏡じゃないとしたら、と、さすがに自分が夢を見ていることには気づいた。でもおかしい。普段はこんな、一目で夢ってわかるような不自然な夢なんて見ない。わたしが見る夢は、もっと現実と地続きで。今日に限って、どうして。
 そしてこの浜辺。見覚えがある。ついさっき、志生と来た帰り路だ。月から人が落ちるのを見た場所。天次くんに止められて、ダンゴイカを渡された場所。そこにいるのは、彼と、彼に抱えられたまま眠っているわたし。そして少し離れたところに天次くんと志生。じゃあこれは、わたしが眠っている間の……。
 じっくり集中して考えている時間はなかった。わたしの背後で、空気が限界まで入った風船が、内から弾けるみたいな音がしたから。振り向くと、天次くんと志生。顔を背けた天次くんの頬に、薄赤く手形のあとが付いている。音の正体は志生が天次くんに放った平手打ちらしかった。
「……馬鹿なの、あんたは」
 天次くんを詰る志生の声はぞっとするくらい冷たい。わたしは志生の瞳のなかに夜の海が暗くたゆたうのを見た。2人に近づいてみるけど、2人ともわたしのことは見えていないみたいで。浮遊霊にでもなったのかな、と思った。
「悪い。つい……」
「つい、も何もないでしょう。同じ間違いばかり繰り返して。ゆあに残された時間は、もう少ないのに」
「だから、だ。もう『前日』なんだぞ。明日に、もし、アイツが気づかなかったら」
「けれど、こうやって下手な助けをして眠らせてしまったら、時間を浪費するだけでしょ。それだけじゃない。不意のショックで、あの子の魂が千切れてしまったら。破局どころじゃ済まされない。それが一番苦しいのは、あんたじゃないの」
 そう言って、志生が天次くんの胸に人差し指を突き立てる。志生の放った言葉に天次くんの幅広の肩が、目に見えてぶるると震えた。
 志生の頬に一筋、涙が伝っている。
「あんたは何もわかってない。私たちが何のために今日まで耐えてきたと思ってるの。
 あの時代より、あんたの奥さんは頑丈じゃない。もう英雄『ユア』じゃない。ただの女子高生なんだよ。……もう私は、目の前で友達を、失くすの、だけは、再度と……」
 志生の訴えは弱々しく途切れていって、せぐり来る嗚咽おえつに呑まれた。そんな志生に天次くんはかける言葉を持たないみたいで。ただわたしをおぶった彼の方を鋭く睨み、立ち尽くす天次くんの頬に、ずっしりと染み込む影の濃度。まるで、奪われてしまったみたいだった。天次くんの身体が、影に。
 彼はその2人を横目にそそくさと浜の道を歩いていく。天次くんはそれを見て気を悪くしたのか、また口を真一文字に結んで怒っていた。
 わたしは志生の涙を拭おうとする。けれど、指先が志生の顔をすり抜けた。2、3度試してみる。結果は同じ。そっか、これはどうしたって変わらない過去なんだ。そう思った、瞬間。
 突然。
 見ていた景色がごうわ、と大きな音を立てて、早送りのビデオみたいに。わたしの瞳の上を滑っていく。息が苦しい。逆風がわたしの頬を叩く。まるで砂嵐のなかに放り込まれたみたいに、上も下もなくなって。口の中が塩辛い。意識が朦朧もうろうとする。
 遠ざかる意識のなかで、夢がひらめくのを見た。その閃きを覗き込んでいる彼の影さえも、わたしには見えていた。


   ☆☆☆


 カーテンの隙間からこぼれてきた陽光がわたしの顔を照らして。寝覚めの良い朝、とは言えない。昨日の夢を憶えていたから。
 英雄『ユア』。どこか懐かしい響き。懐かしくて、苦しい響き。『ユア』という名前がたくさんの人の叫びと祈りの声で呼ばれる。自分の頭の中で。そのうちの誰の声にも聞き覚えがない。
 わたしは多くの人を守る英雄だったのかもしれない。拳を握ってみる。小麦色でか細く、弱々しい手。こんな手で、誰を守っていたの? ねぇ、わたし。
 丸っこくてふかふかなメンダコのぬいぐるみ。いまは誰も守れない腕の中にあるそれの頭を、わたしは慰めるように撫でた。
 ときに。
「……なんでわたしはこのメンダコを、『子どもの頃から家にある』って知っているの?」
 違和感、が口をついた。おでこがつきん、つきん、と痛む。
 過去を知らないわたしが、なぜ子どもの頃なんて知っているの。昔海の底の王子さまに憧れたことだって、子供の頃だ。どうして。
「どうして……?」
 考えようとすると、またおでこがつきん、つきんと痛む。脳のしわを針になぞられてるみたいに。
「もしかして」
 夢にあった違和感も、今まさにある違和感も、わたしは理解できないけれど。わたしが憶えている過去は、どれも『ユア』に繋がらない。逆に『ユア』に繋がりそうな記憶は、これまで一切なかった。昨日の夢まで。思い返せば、天次くんがあれだけ直接的に伝えようとしているのに、わたしはちんぷんかんぷんだった。それって。
「わたしは、自分で選択して、『ユア』を忘れていたんじゃ……」
 おでこの痛みが、酷くなった気がした。


   ☆☆☆


 わたしはわたしが何者かを知りたくなっていた。どうしても。抑えられない衝動。浜の通学路を素足で駆けた。ふわりと舞い上がった貝殻まじりの真砂まさごが、波の騒ぎに吸い取られる。
 文化祭に絶対何かがある。そういう胸騒ぎ。わたしは確信していた。今日が——文化祭が、わたしがわたしを取り戻すことができる期限なんだ、と。
「おはよう」
 彼の声がした。裏門へと続く階段を今にも駆け上がろうとした足が止まる。見上げると、彼は階段の手すりに腰をかけ、わたしを見ていた。心なしか髪が濡れている。その瞳にはやっぱり、海の碧をたずさえて。手には地球儀みたいに丸いキャンディ。透き通る碧のうえ、緑がまばらに。何の味か見当もつかないキャンディだけど、なんだか羨ましい。
「おはよう。昨日ぶり、だね」
「昨日ぶり。キミ、今朝は急いでいるね。文化祭に行くんでしょ?」
「うん、そう。……そっちは、ここで何してるの?」
「僕は別に……見に行ってただけだよ、海を」
「……なにかわたしに隠してない?」
「隠してるよ。キミ自身が見つけなきゃいけないことを」
 多少おどろいた。あまりにもあっさりと答えてくれたから。
「それは隠さないんだ」
「僕、キミに嘘はつきたくないんだ、本当は。今まで何も訊かれなかったから答えられなかっただけで、僕はいつでもキミに全部を話したい。話せたらって思ってる。
 でも、それじゃダメみたいなんだ」
 彼は、「だからさ」と続ける。
「だからキミがもし、他に何か気づくことがあったら、さ。僕のところに来てくれれば良い。僕にだってキミと話さなきゃいけないことがたくさんあって、堪らないんだ」
 どきり、と心臓が跳ねた。わたしはいつから彼を「無口な人」だと決めつけていたのだろう。思えば彼は、気づくとわたしのそばにいて、わたしに話しかけてくれていた。わたしの方は彼に何か話そうとしただろうか。彼に「あなたは誰か」と訊いたくらいなんじゃないか。昨日の記憶以外がないわたしにはその証拠となるものはなかったけれど、確信めいた予感だった。
 わたしはみんなを、みんなの役割を決めつけて、この世界に縛っているんじゃないだろうか。不意にこんな予感がしたのだ。
 彼は黙りこくったわたしを見つめて、それから海を見た。わたしは海を見る代わりに彼を見た。打ち上げ花火じゃないけれど。下から見上げたって彼の美しさは変わらなかった。美しいということが、わたしの心を動かすのか、それともそれもわたしの決めつけなのか。答えはわたしの中にあるはずなのに、考えようとしても美しいものはわたしを圧倒する。そのせいでみんなの姿も見えない。
 わたしも彼の視線の先にある、水平線を眺めた。この地球はホントに、息を呑むほど美しい。あの水平線をゴールにしてマラソンが開かれるなら。海の上を走るランナーはきっと、ホントの美しさに目が眩むと思う。美しさのなかにひときわ醜い自分がいることに気づいて、泣きそうになるんだ。決して届かない場所に向かって走る、長い長い、長距離走者の孤独。わたしはホントに美しいものにしばらく気圧され続けた。
 彼に軽く会釈をして、階段を今度こそ駆け上る。見えてきた裏門のアーチ。その日陰で天次くんと志生が並んでわたしを待っている。文化祭に、来たのだ。


   ☆☆☆


 彼は一体なんなんだろう。わたしにはどうにも、彼を志生や天次くんと同じような存在に思えないふしがあった。もんもんと考えたけれど、納得のいく答えが出ない。月から人を落とす彼。夢の閃きを覗いていた彼。彼は、月の使者なんだろうか。それとも夢の神様なんじゃないか……。


   ☆☆☆


 文化祭。わたしは文化祭を楽しみにしていた。心から。でもそれは、「いつから?」と聞かれると、あやふや。一年以上前の記憶はわたしにはないし、『前日』の記憶すら、はっきりしない。それでもわたしは文化祭を知っていたし、楽しみにしていた。それって。……

 青空に散りばめられたひつじぐも。それを集めて串に巻きつけたみたいな綿あめの屋台が、学校の中庭に出ている。屋台の名前は「白夜を旅するヒトビト」。となりには変な青色のジュースを売ってる「サイバァ夜」。そのむこうの「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」がアメリカンドッグとフライドポテト、「ノるウェイの盛りそば」は手づくりの星形サングラスと焼きそば。
 どん、どん、どんと、三回。脳の中まで痺れるくらいの大きな破裂音がして、学校の近くにある活火山が噴火した。これが文化祭の始まりの合図。降ってきた大きな噴石が中庭の真ん中に落ちると、大きな歓声とともに生徒たちが食べ物を売り買いし始めた。
「盛りそばは焼きそばのことじゃないだろ……」
 呆れた溜息を吐いて、天次くんは発泡スチロールの皿に山のように盛られた焼きそばをすすった。火山のマグマでじっくり焼いた焼きそばらしい。天次くんのおでこには、太陽の光を照り返す星形のサングラスが、ちょこんとのっている。頭が大きい天次くんには小さすぎるサイズみたいで。かわいい、似合ってると言ったら天次くんに横目で睨まれた。こわい。
「そういう思い切りのある雑さも『ノるウェイ』ってことなんじゃないの」
 天次くんにそう答える志生。の、白鳥の翼を模したに違いないって感じるほど美しい手のなかには。じんわり水滴が浮かぶ、限りなく透明に近いブルーの容器。暗い青色のジュースが入っている。ストローで氷を掻き回す音が、コラランコロン、とはしゃいでいる。
 わたしは綿あめを前歯でもみゅもみゅ喰みながら、それとなくまわりを見渡した。
 ……やっぱり。
 違和感。おでこの傷を針の先でつっつくような、違和感。そのひとつは。天次くんと志生以外に、『人』がいないってことだった。
 あるのは音。そして『影ぼうし』。大量の影ぼうしが文化祭のなかを揺らめいている。ステージからは男子ボーカルが半ば叫ぶようにロックンロールを歌う声。ギターとドラムのうるさい音。屋台から、ポテトの油が跳ねて騒ぎ立てる男子生徒と、それを見て「大丈夫?」って笑いながら訊く女子生徒たちの声がする。ローファーでコトコトと中庭を走る音。油を敷いた鉄板が、火山から採ってきたマグマでじゅわ、と唸る音。全部、音。生きた音だけがあって、生きた人はいない。
 確かに昨日を思い返してみれば、わたしは志生と天次くんと彼以外、彼らの出す「音」しか聞いてない。他にわたしが話したものと言えば、わたしの足元の……、あ。

「あなたは大事なことを忘れてしまっているの」
「このままだと全部失くす」

 わたしは、自分の足元にいる影ぼうしをみた。そして気づいた。これは、文化祭を楽しみ揺らめく『影ぼうし』たちと同じなんだ。わたしの影ぼうしは、天次くんや志生の影と違って、地面から少し盛り上がって見える。ときたまわたしに話しかけてくる。「急げ、急げ」と。もしかして、わたしの影ぼうしは『ユア』なんじゃないか。
 志生が「ちょっとトイレ」とわたしたちのもとから離れた。昔、志生は誰かとご飯を食べるのが苦手だったみたいで、麺の神様に会ってから克服したんだよって言っていた。でも長い間ずっといっしょにご飯を食べるのはまだ難しいのか、トイレに行くふりして席をはずすこともある。わたしも天次くんも、それが当たり前だし、志生はそれで良いんだって思う。
「ねぇ天次くん」
 わたしが声をかけると天次くんは、焼きそばをかきこむ手を止めて「ん?」とわたしの方を見上げた。天次くんの瞳は、わたしの向こうにある空をたずさえてはいない。
「天次くんは、わたしの……旦那さんなんでしょ?」
 ぼッ、と天次くんは口に含んでいた焼きそばを吹き出した。それからしばらく咳き込んでいたから、わたしは買っていたお茶を差し出す。天次くんはそれを飲んで落ち着いてから、わたしにこう訊いてきた。
「だれかから教えてもらったのか?」
「うん。夢の中で、あなたから」
「……どこまで知ってる?」
「わたしが英雄だってとこまで」
「そうか……」
 天次くんは立ち上がり、歩き出した。わたしはそれをちょっと後ろから早足で追う。自販機の前に来た天次くん。紙パックの牛乳を2本買って、ひとつはわたしに投げ渡してくれる。天次くんはやたら細いストローを勢いよく紙パックに突き刺した。少しだけ飛び出る牛乳。
「思わぬ相性、ってのがある」
 天次くんがおもむろに口を開いた。
「たとえば、焼きそばと牛乳ってのは意外と合うもんだ。ソースの味の濃さを牛乳のまろやかさで流し込むんだから、よくよく考えたらそりゃ美味い」
 でもな、と、天次くんは声を絞り出す。
「相性が合うだけで、正しい組み合わせじゃない。焼きそばに牛乳なんてのは正しくない。誰から見てもな。だから俺は茶と焼きそば、ビールと焼きそばの組み合わせの方が"良い"と思う。"正しい"ことは、周りの人間から見ても"良い"ことなんだ」
 ちいさな紙パックは天次くんの手の中で、ぎゅこ、と握りつぶされた。にこにこした牛のイラストに折り目がついて、一転、困り果てた表情になってしまう。わたしは天次くんから目を逸らしてイラストの牛の顔を見ていた。見ていた。
「俺はな」
 天次くんは構わず続ける。
「俺はお前に、正しくあってほしい。ココロも身体も強い、俺の伴侶はんりょ『ユア』が戻ってきてほしいだけだ。だが、あれはそれを妨げようとしやがる。あの転校生くんはな。
 お前は転校生にぞっこんだが、あれはお前を利用しようとしている。それが証拠に、お前の魂が完全に千切れてしまう、その直前まで、この作り物の世界からお前を救い出す努力をしなかった。お前のために奔走ほんそうしてきたのはいつも俺たちで、あれは何をするでもなく、ただ黙って俺たちを見つめているだけだったんだ。
 確かに俺たちは一度あれに頼んだ。あちこち壊れ天に奪われてしまいそうだったユアの魂を、なんとか地上に繋ぎ止めたい、とな。あれは俺たちの要求につけ込んできたんだ」
 天次くんはよっぽど不満が溜まっているようすで、所々舌打ちしたり貧乏ゆすりしたりしながら、そう話した。天次くんの握力で牛のイラストがぎゅこぎゅこ喚く。わたしの足元の影ぼうしもそれに合わせてぐらぐら揺らめいた。それを天次くんは指さして、
「元凶だ、その奇妙な影がな」
と言い切った。
「これが……?」思わずわたしも零す。
「これが、なに……?」
「元凶。お前の魂は、今千切れかけているんだ。真二つに」
「どういうこと? この影ぼうしに、わたしの魂が入ってるの?」
「いや、魂は入っていない。影ってのは所詮、魂の写絵だからな。あそこにいる影たちもそうだ。アイツらは生の時間から切り離された、写絵にすぎない。地球の記憶を再現する役割を課されている。
 影は地上にうつる。大地にうつる。影は直接人間と地球をつないでいる。だからこそ、あれにはアイツら影人間どもを生む力がある」
「じゃあわたしのこの影ぼうしも、彼によって生み出されたもの、ってこと?」
「……そうとも言える」
「そうとも言える、って何。分からない。結局天次くんは、わたしになにが言いたいの? 彼はなんでそんなことができるの? わたしの魂は、わたしの影ぼうしはどういうものだっていうの?」
 わたしは牛乳に手をつけない。天次くんは友だちだけど、でも嫌だった。天次くんはわたしの心に土足でずかずか上がる。それが正しいと思っているからだと思う。でも結局、わたしになにも伝えてくれない。独り善がりの話し方ばかりで、わたしにはなにも伝わってない。
「……なんで全部、もっと簡単に言ってくれないの⁉︎ッ 」
 なにかがぷつんと切れる音がした。せきを切って流れる濁流だくりゅうに理性が呑まれて、火花のように弾ける感情に溺れる。
「わたし分かんない! なんにも、なんにも、わかんないよ‼︎」
 わたし自身の声が、海の中で聞いてるみたいに遠く響いた。苦しかった。自分が自分じゃない。でも、前のような後悔はない。ずっと天次くんにぶつけたかった言葉だったから。
 天次くんの肩がわなわなと震え出す。太い腕に血が走る。拳を握り固めているのが見て分かった。
「じゃあ教えてやるがな! あれは……」
「やめて!ッ」
 叫び声が空気を力いっぱい引き裂いて。とっさに振り返るわたしの目に映ったのは、志生。そしてうるんだ志生の目に映っていたのは、涙を流すわたしだった。わたし自身、だった。


   ☆☆☆


「落ち着いた?」
 志生から差し出されたハンカチは、ふわ。百合の香りがする。わたしはそのハンカチで涙を拭った。隣に座る志生は、さっき天次くんになにか言ったみたいで。そしたらすぐに天次くんは校舎の中に入って行った。今はわたしと志生の2人きり。2人きりで、ベンチに座っている。
「うん、落ち着いた」
「よかった」
 微笑む志生。
「ごめんね。私、ゆあと天次の話、全部聞いてた。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、全部。それで気づいたんだ。天次は気づかなかったみたいだけど」
 わたしは志生が何を気づいたのか、少しだけ見当がついていた。
「わたしが、『ユア』を見つけたこと?」
「そうね。『ユア』になる覚悟ができたんじゃないかな、って思った」
「覚悟?」
「うん。折り合いって言った方がいいかもだけど。これまで何も話してなかったのはね。その折り合いがゆあの中でついていないときに話すと、ゆあは眠ってしまうから。そして目が覚めたときにはぜんぶ忘れてしまうからなの」
 それで、と、志生は一息ついて、わたしのほうに顔を向けた。いつの間に。もう陽は傾きかけている。西日が、志生の白い頬の片側だけを染めた。もう片方の頬には影が濃く落ちている。夕陽に照らされた志生の頬は滴る汗もあいまって、まるで洗いたての林檎みたいに瑞々みずみずしく見えた。
「それで、ゆあ。あなたに覚悟がホントにあるのか、話を聞く覚悟ができているのか、ちゃんとあなたの口から聞いておきたい。私なりの確信なんかで決めるんじゃなく、あなたの意思に任せたいの」
 わたしが頷くのを確認すると、志生は遠くに目を向けて。
「まだ昨日のことのように感じるけれど」
って、昔話をするように切り出した。


   ☆☆☆                       ☆☆☆☆


 人間と動物のいちばん大きな違いって、ゆあはなんだと思う?
 私はね、「ココロ」だと思う。「ココロ」があるかないか。
 勘違いされちゃうかもしれないけれど、動物にも人間にも、魂はあるよ。それに付随して感情もある。無情って意味の「心がない」ってことじゃくてさ。ここで言う「ココロ」は、自分の手の届かないものを掴もうとする力の源。人の願いの原動力だと思ってくれたらいいよ。
 人は誰しも「ココロ」を持っているけれど、強弱には個人差がある。ひときわ「ココロ」が強い人間は、願うだけでおかしなことを引き起こすことができるの。たとえば麺の神様になったり、虹の雨を降らせたり。
 ココロを完全にコントロールし、この世界を守る力を手に入れたヒトを、大衆は英雄と呼んだ。英雄は世界のバランスが崩れたとき願いの力で人を救う。私も天次も、もちろんユアも、かつては英雄。
 そのなかでもユアは、特別に強いココロを持っていた。その強いココロの生み出す願いで、たくさんの人を——地球を救ってきた。人々や仲間からは大きな期待をかけられて、ユアはそれに必ず応えてきた。
 限界が来た。来たんだと思う。
 たび重なる戦いで消耗し切ったユアのココロは1年前に神さまに敗けて。壊れて、砕けて、ふたつに割れた。魂はひとつなのに、ココロがふたつ生まれる。それで出来あがったのが「ゆあ」という人格。つまり、あなたなの。
 ユアのほうのココロは時間を歩むのを止めている。止めている、と言うか、まるで足に杭を打たれたようにその場から動かずにいる。罪悪感に耐えきれなかったんだと思う。責任感が強い子だったから。だから、時間の流れに逆らって、深く沈んでる。そうしている間にも地球は回るから、ふたりを繋ぐひとつの魂が今にも千切れてしまいそうなの。片方の時間が止まっていて片方は進んでいるから。ピンと張った糸。ふたつのココロに分けられた「ゆあ」と"ユア"を繋ぐ魂は、ペグを回しすぎたバイオリンの弦のように張り詰めてる。
 あなたがよく夢で過去を見るのは、少しの間だけ魂が引き戻されているんだと思う。でも、ゆあが、身体もココロもユアに近づかないと元には戻れない。
 ……最初はね、説明すればすぐ戻る、って思ってたんだ、私も天次も。でも何度ゆあに向き合って真実を喋っても、忘れてしまう。あの頃は、ゆあ自身がユアを拒否してたんじゃないかな……もしくは逆かもしれないけれど。とにかく私たちではもう詰んでいた。ユアを救えない。
 進退きわまって私たちの前に現れたのが転校生くんだったの。転校生くんはこの場所を作ってくれた。ゆあが"ユア"を思い出せるように。神さまによって奪われた人々の魂を影で写し取ったり、学校を作ったり。ユアが以前にいた場所を再現した。そうして、私たちに約束したの。「ゆあは必ず僕が救ってみせる」「だから君たちも安心してくれ」って。
 ユアが沈んでしまってから今日でちょうど1年経つ。みんなと過ごすはずだった文化祭の日から、みんなが「奪われた」日から、1年経つんだ。そして、今日がリミット。今日がゆあと"ユア"の魂が繋がっていられる期限なの。だから天次は、元に戻そうと必死なんだ。天次がゆあにあえて遠回しに話すのはね、全部説明したあと、ゆあが受け止めきれなくて。また夢を見てしまうのを怖がってるんだと思う。その気持ちはわかるけれど。
 私はゆあを信じる。信じたい。信じたいものを信じることこそ、私たちを救ってきた「願い」の本質だと思うから。


   ☆☆☆


 志生はぜんぶ話し終えたみたいだった。でも、わたしにはまだ心残りがある。
「彼って、一体なんなの? どうしてこんな世界を作れるの?」
「……言えないよ、私の口からは」
 志生はちいさく首を横に振った。北からの秋風がさらさらと、志生の滑らかな黒髪をすり抜ける。
「……どうして?」
 わたしがおそるおそる尋ねると、志生はちょっと俯いて。つま先で石ころをぽッ、と蹴とばす。飛距離4、5センチ。最高記録。
「彼は自分の口からゆあに話したいはずだから。ここで私から言ってしまったら、彼から貰ったものを無碍にしてしまう」
「貰ったもの……」
「天次は彼のことをよく思っていないかもしれないけれど、私は彼に貰ったこの時間、この場所が嫌いじゃないんだ。
 私たちはこの1年間、3人だけで、ごく普通に生活できた。それは英雄だった頃の私たちにはなかった時間の流れだった。私はゆあが好きになったし、どんどんこの時間を愛おしく思えて仕方なくなっていったの」
 だからね、と志生はまたわたしのほうを向き直って微笑む。けれど、西日に付きまとう影が、その微笑みを真二つに割っていた。
「だからね。転校生くんに会ってきて。転校生くんはゆあと2人で話したいはずだし、私たちはいっしょに行けないけど。きっと大丈夫だから」
 わたしは志生にそれ以上何も訊かない。
「わかった」
 ただそれだけ。それだけ言って、ベンチを立った。


   ☆☆☆


 志生はこの1年を彼から貰ったものだと言った。天次くんはわたしが彼に奪われるのを怖がっていた。ふたりの彼への思いはそれぞれ違う。でも、同じひとりを話している。ルビンの壺を思い出した。見方によって壺にも、向かい合ってるふたりにも見える絵。わたしは向かい合ってるふたりって思うほうが好き。好きなことは、大事なことだって思うから。

 校舎の中を通り抜けて、裏門から海への階段を下ろうとすると。砂浜に天次くんが。わたしに気づいた天次くんが、「ヨ、」とひらひら片手を挙げる。わたしもそれに「よ、」と返す。
「もう行くのか。文化祭は終わっていないぞ」
「うん。もたもたしてたら千切れちゃうから」
「そうか」
 天次くんはわたしのゆらゆらする影ぼうしに目線を落とす。
「……さっきまで、あれと喋っていた。まだあれに、訊きたいことがあるんだろ、ユアは」
「うん……」
 そして、わたしは尋ねる。
「……止めないの?」
 背を向けようとしていた天次くんが、その言葉でわたしに向き直った。目線が真正面からかち合って。ふと天次くんの足を見ると、バレないように少しだけ。少しだけ膝を曲げて、わたしの目線に合わせている。
「もう野暮なことは言わんさ。志生に叱られるのも、お前に嫌われるのも、俺の本意じゃないからな。それに……俺はあれに言い過ぎた節がある……」
 そう言って、照れ臭そうに鼻の頭を掻く天次くんが、ちょっぴり愛おしく感じる。これは現在いまのわたしが感じることで、ユアはどう思うのかっていうのとは違う。
 日の傾きで影ぼうしが海に向かって伸び始めている。その先に人影。細い人影。
 彼だった。彼の、華奢な背中。
 彼はすでに海の中にお腹あたりまで入って行っていた。服を着たまま。彼をさらおうとする波がつぎつぎ皺よせるけれど、その歩みは少しの躊躇ためらいもなく水平線の見える方に向かっていく。そのうちに大きな波が、がぱ、と大口を開けて彼を噛み砕いた。海に消える彼の影。
「心配するな。潜っただけだ。ゆあもあれと話したいなら海の底に行け。全部の不思議の鍵が、そこにあるはずだ」
 天次くんの言葉に頷いて、わたしは靴を脱ぐ。素足だと朝よりも浜の砂は火照ほてっていることに気づいた。ざらざらと貝殻を蹴飛ばして、寄る波にくるぶしまで浸かる。心地いい。波が砂とともに、つま先に溜まった心のそばかすを取り去ってくれる気がする。心についたそばかすは化粧じゃ消えない。冷たい海か、あったかいお風呂に肩までつかって、やっとこさ薄くなるんだと思う。わたしはそう信じたい。
 そうやっておっかなびっくり海へ進んでいくと、背後から肩をつつかれた。振り向く。志生が、わたしのメンダコのぬいぐるみを抱えて、砂浜に立っている。天次くんも隣にいる。わたしにメンダコを差し出す志生の声色が、わたしは好き。
「これ、持って行って。海のなかで頭を撫でたら、きっとゆあを助けてくれるから」
志生は、たくさん舐めて小さくなったいちご飴を噛み潰すときみたいに、口をむぎゅ、として。「言えなかったことがまだあるから、」と続けた。
「ホントはね。私、ゆあに行って欲しくないよ。こうやって送り出したくもない。だって、1年間私たちと過ごしてきたゆあは、"ユア"が目覚めたら消えて——……いなくなってしまうかもしれないから。
 私、"ユア"とはそんなに仲良くなかったけど、ゆあとは友だちになれた。親友になれた。友だちを目の前で失うのは、私は一度経験してるからさ。耐えがたいことだって、十分に分かってる」
 わたしの肩におかれた志生の手。志生の手の温もり。これが志生の温度なんだって、それを覚えておこうって思えるのは、今の「わたし」にしかできない。
「でも。考えたんだ。『友だちだから』送り出すんだって。ゆあが進む方向は間違ってないから、私の我儘わがままなんかで足を止めちゃダメだもの」
 目元にじわり、熱が広がる。その熱は涙になって、わたしの視界をちいさな海に変えていく。
「私は、信じたいことを信じる。ゆあが絶対帰ってくることを、私は信じてる」
「俺もだ」
 だんまりだった天次くんも口を開いた。
「俺もだ。ユアだかゆあだか、ややこしくてかなわん。ユアは1人でいい。だが……仲間がゆあの帰りも待つというのなら、信じる。それがユアのためになるなら、俺も信じる」
 こぼれる涙が波間に溶ける。そんなことで海の塩辛さは薄まったりしないはずだけれど、その一滴が落ちたとき。わたしの目に映る海の色は虹の輝きでまたたいた。飛沫しぶきが踊る。潮騒が笑う。わたしも笑った。零した涙を取り返すみたいに、笑った。
 ふたりと小指を絡めて。ふたりともわたしの大切な友だち。そのふたりから信じられている。それは嬉しいこと。幸せなこと。
「約束するよ、わたし。ぜったい、ぜったい、ぜったいに。今のわたしの心も失わずに帰ってくるって」
 ゆびきりげんまん。いまのわたしには覚悟があるって、はっきり言える。

 信頼を、背負う覚悟が。


   ☆☆☆


 彼は一体なんなんだろう。わたしの影。それともユア自体。いやいや、実は本当に、ただの転校生かもしれない。納得のいく答えをわたしは出せなかった。あとは、彼に訊くしかない。

 さて、前に進むたび、海はずんずん深くなってくる。陽もずんずん沈む。夜の海が迫ってくる。そのうちに海坊主みたいに真っ黒の海がひっそりと立ち現れて。ちっぽけで弱いわたしを食べてしまおうと、ナプキンをつけはじめたように感じた。
 ぼぷッ。
 って音がして。突然、視界が大勢の泡に襲われた。とっさに底を蹴ろうとするけれど、そこにはなにもない。足が流れにさらわれて引き摺り込まれる。息が……。
「海の中で頭を撫でたら、きっとゆあを助けてくれる」
 志生が言っていたのを思い出した。わたしは抱きしめていたメンダコの頭をなでる。すると。メンダコは折り畳み傘みたいに勢いよく、人ふたり分くらいの大きさに広がって。わたしを包んだ。
 息ができる。わたしはメンダコの頭の中に座っていた。透明な材質でできたメンダコの目。そこから見えるのは、たくさんの人の影を重ね合わせて溶かしたかのような暗い、どこまでも暗い海。ただ、その目を滑りのぼって水面に向かう泡粒を見て、底へと沈んでいることだけは分かった。潜水艦に乗ってる気分。ちょっとうきうきする。
 傘を広げて飛ぶメリー・ポピンズみたいに、ふわふわ、くるくると海の底へ落ちていくメンダコ。月の光が届かない場所まできた。目に見える景色は闇一色だけれど、ふしぎと引き摺り込まれる感覚はない。怖くない。彼の居るほうに向かっているだけなんだ、そう思った。なぜって、海の底にはふしぎの鍵がぽとぽと落ちているはずで。そこでひとり、待っているのが。

 きっと、王子さま、だからだ。

 気づいた。沈むにつれて、底から七色の光が溢れている。外を泳ぐキンメダイのうろこもその光を照り返すものだから、目が眩む。光の出どころには焼きたてアンパンくらいにふかふかそうな、おっきなタコノマクラがあった。目立ったトゲはないけどたしかウニの一種だ。タコノマクラには花柄にちかい模様があしらわれている。その模様がプリズムみたいに七色の光を散らしていた。花柄の真ん中にぽっかり、瓶の口に似た穴が開いている。メンダコはその穴に自分の身体をなかば詰め込むようにして着陸して。口からぽんッ、とわたしをピンボールみたいに弾き出した。タコノマクラのなかへ。思わず「ひゃあ」と声が出た。穴はかなり深く、多分底まで繋がって、ゆるやかな傾斜をつくっている。わたしの身体は「ひゃあ」を持っていく暇もなく転がり出す。鼠の穴に落ちるおむすびみたいに。「ひゃあ」は穴の口に引っかかったまま落ちてこないみたいだった。
 転がっていたわたしの身体は尻餅でゴール。怪我はしていない。お尻が柔らかくて助かった、この時ばかりはそう思った。見渡すと、船室みたいな場所。扉がひとつと、窓がひとつ。窓の外は真っ暗だ。そして、一面海藻に覆われている。ゆらめく藻の緑が海の影に包まれ、黒を織り成す。ところどころに多種多様のヒトデがひっかかっていて。星。まるで海の中に夜が彫り込まれているみたい。そう、月のない夜が。
 影ぼうしが伸びる先。船室の隅。月の代わりに、年季の入った潜水ヘルメットがひとつ、無造作に放置されている。赤茶けて錆だらけの、月より丸こいヘルメット。どこか見覚えがある。顔を出すところにもまんまるなガラスが嵌め込まれていて。中を覗く。とヤドカリが2匹、カニが1匹、ヒトデが1匹、ウニも1匹。あとは巻貝と小魚が数匹。潜水ヘルメットが小さな水槽になっていた。
 わたしは昔、この潜水ヘルメットの水槽をいたく気に入っていた気がする。わたしが「ホントに美しい」と思うものに似ているから。——それは多分、月じゃない。地球だ。褐色の錆は大地に似ている。水槽は海に似ている。船室は星の浮かぶ夜空に似ている。
 海や、空や、大地、つまりそれを携えた地球は「ホントに美しいもの」だ。「ホントに美しいもの」はわたしになーんにも考えられなくしてしまう。思考と感覚を引き裂いて。まるで、ユアとゆあに分かたれた今のわたしみたいに、精神の抜け殻にしてしまう……………………?

…………彼も、海を、『携えていた』。

 わたしが一瞬、思い至ったことは、とんでもないことだった。あり得ないこと。でも、でも。だったらこの世界だって、あり得ないんじゃない? わたしは、今のままじゃ本当にふしぎちゃんだ。ふしぎの鍵はぽとぽと海の底に落ちている。わたしが『ゆあ』であるために、わたしの記憶を閉じ込めた、鍵のかかった部屋を、ここで。いまここで。開かなきゃいけないんだ!
 決心したわたしはお腹の下に力を込めた。ちっちゃな拳にも力を入れた。触手のひっこんだイソギンチャクみたいな、弱っちいにぎり拳。わたしは自分の決心と、そして影ぼうしにグータッチするみたいに。その拳で扉を押し開けた。

 扉の先には彼がいた。


   ☆☆☆


 彼がいたのは、キッチン。部屋の奥にあるキッチンだった。理想の王子さまみたいな彼の背中。王子らしい絢爛けんらんな服の代わりに無地の青エプロン、紐が彼の腰に手を回している。蝶々結び。その垂れた余りの紐は、動きに合わせて彼のお尻を申し訳程度に撫でつける。クリームシチューの匂いだ。背中越しに桃色の寸胴鍋が火にかけられているのが見えた。
 丸テーブルと椅子が二脚。彼がテーブルを指差したから、わたしはキッチンから遠いほうの椅子に腰掛けた。赤いシチュー皿と木のスプーン。テーブルの中央にはタコノマクラ柄の鍋敷き。ぽふぽふと淡い湯気のたつ寸胴鍋をその上に置いて、彼は「やっと来てくれた」とちょっと嬉しそうに、……乾いた声で言った。
「……僕に、訊きたいことがあるんでしょう」
 わたしは頷かない。「訊きたいことなんてないよ、さっき、なくなったの」。そうやって、言う。
「わたしはただ、あなたと、ちゃんと、話してみたいだけ」
「……そっか」。わたしの意思を聞いて彼は微笑む。彼の微笑みの、刹那の輪郭が切り取られて、あの時みたいにわたしの中で飾り立てられる。彼はわたしのお皿にシチューを注いで。「海は冷たかったでしょう。とるもとりあえず、シチューで身体をあたためて」、と。
 ひと口、シチューを口に運んで。それからわたしはひと息つく。ふつうのお店のものとはひと味違ってひと癖あるクリームシチュー。黒い果実がひと切れ入っている。ひと飲みで平らげて、それからまたひと呼吸おいて、わたしはひと思いに切り出した。
「……わたしには最初から、ずっとあなたをひと際美しいと感じていた気がするの。それはもう、あなたがただの『ひと』とは、到底思えないほどに」
 彼は自分のスプーンをテーブルから取上げて、少し考えるようなそぶりを見せる。シチューに手をつけずそのスプーンをテーブルに戻すので、わたしは「どうぞ気にせず。尋問じゃないから」と言った。「いや、違うんだ」と彼。「バゲットを忘れていた」。どこかに目配せする彼。すると、隣の部屋からバスケットを頭に乗せたヒトデがとてとて走ってくる。ヒトデはバゲットをバスケットから取り出してお皿に置いていった。
「それでね」わたしは続ける。「わたしはまず、あなたがもし『ひと』でないんだったら、なんなんだろうって考えたの」
 夢の神様。月の使者。ユア。わたしの影。どれもそれっぽくて、どれもそうじゃない気がしていた。だから、彼に訊こうと思っていた。
「でもそうじゃない。必要なのは考えることより、感じること。素直に感じたことから紐解いていくこと。志生がそうやって言っていたの」
「夕雨さんは賢い人だね」。彼は感心したのか、ほぉ、とため息をついてバゲットを頬張る。「そうだよ。夕雨志生は、わたしの親友は賢いの」。得意げに相槌あいづちをうつわたし。
「だから、あなたほどにわたしが美しいと感じているもの——ホントに美しいと、息を呑むほど美しいと感じているものはなんなのかって思い返してみたの。そしたらね」
 心臓がドリルのようにぎゅるぎゅる回転している、そう思ってしまうくらい、血の巡りが早くなっているのを感じた。ほっぺが熱くて、耳たぶも熱い。思わず目を伏せてしまう。だけど言わなくちゃ。
「あなたはね」
 言わなくちゃ。
「あなたは、……その……、間違っていたら恥ずかしいんだけれど、でもそれしかなくて……」
 言うんだ、わたし。
「あなたは」
 顔を上げる。と、もちろん当たり前なんだけれど、彼と目が合った。途端にわたしの緊張は泡みたいに弾けて消えていく。彼の海を携えた目の中に、わたしはどう映っているんだろう。

「『地球』、なんでしょう?」

 いつしか音も消えて。ここはきっと、2人だけの宇宙に、なっていた。


   ☆☆☆


「最初は自分が素直に感じたこととか、思っていた小さなことで良いの。そこにあるズレ、っていうか、違和感から紐解いていけばいいの」
 志生のこの言葉は、今思えばわたしの「感じ方」を知ってのことだったんだろう。わたしは志生のように賢くないし、天次くんみたいに難しいことを考えるのは得意じゃない。だから、最初から考えるより、感じたことに従えと言ったんだ。そこから糸を手繰たぐり寄せるみたいに、遡って考えていけばいい、って。
 それでわたしは思い出した。自分がどう感じていたのか、を。彼という存在に感じたことと、一番似た感覚があったものはなんだろうって。
 その答えが、わたしのいる場所。地球だった。
 普通じゃあり得ないけれど、思い至った時ぜんぶが繋がった気がした。彼がこの世界、地球自体だから、地球の記憶に刻み込まれたみんなの影ぼうしも再現できる。彼は地球だから、常に目に海を携えている。彼が地球だから、わたしは彼に恋でも憧れでもない、特別身近な感情を抱いている。英雄だったユアが何度も彼を救っているから、逆に今、彼はわたしを救ってくれようとしている。
 わたしに無邪気に笑いかける彼の顔は、まるで初めて会ったあの日の続きみたいだった。
「ご名答。僕は、地球の魂。やっと答えてくれたね」
 バゲットの入ったバスケットも、シチューのお皿も、もうすっかり空。またヒトデがとてとて出てきて、食器を洗い場に運んでいく。「食後に紅茶でも」。巻貝の殻でできたティーカップは妙ちくりんで可愛らしい。ダージリンの香り。
「地続きの過去の夢も、あなたが見せてくれていたんでしょ。わたしが『ユア』に戻るヒントを与えるために」
「うん、結果的にはそうなるかもしれない。僕は引っ張っていただけなんだけどね」
「引っ張る?」
「そう。……少し外に出ようか」
 おもむろに立ち上がった彼はわたしの手を取って、キッチンの方に。キッチンシンクの下の戸棚を開けると。どう、と海水が流れ込んできて、瞬く間に部屋を青で満たした。海に繋がっていたんだ。視界が塩水で青い。青くて痛くて。脆いわたしは慌てて鼻を摘んで息を止める。「大丈夫。僕がいるから、息はできるよ」。彼がそう言ってわたしの手を握り直すと、身体から一気に痛みが引いていくのが分かった。
「どこに行くの?」
「地球の内核。キミのココロが眠る場所さ」
「内核? 地球の中心ってこと? じゃあ、海底を掘り進んで行くの?」
「いや、……掘ったりはしない。擦り抜けるんだ、内核まで。肉体を脱げばできないことじゃない」
 わたしの背中に彼が手をかざす。と、浮いていくような感覚とともに、わたしの意識はわたしの肉体からまろび出た。ちょうど少し前に見た夢みたいに、わたしはわたしの顔と正面から向き合う。
 振り向くと彼も同じように、肉体から意識だけを取り出しているみたいだった。彼はわたしの手を握り直すと、「行くよ」という言葉とともに、地球の内側へ落下していく。海底火山、岩盤、マントル、マグマ、……。景色が変わって行くうちに、わたしは大事なことを思い出した。
「あなたが月から落としていたのは人じゃなく影ぼうしなのね。どうして月から影ぼうしを落としたりなんかしたの?」
「ああ、あれはね、海の材料なんだよ」
 彼はあっけからんと答える。そこには微塵もよどみがなくて、およそ嘘をついているようには見えなかった。
「海の材料?」
「過去に星に住んでいた生物や人々の影が折り重なって、海はできているからね。折り重なった中からひとつ影を拝借して、生物は影と一体になって過ごし、やがて肉体が死ぬと影のみ海へと還っていく。海は母であり、影という『記憶』の墓でもある。キミの影ぼうしが海に惹かれるのも"ユア"の記憶があるからなんだ。
 地球と太陽、まあ太陽ってのはつまり影を地球に刻む光源なわけだけど、……その中継地点になるのが月で。月は満ち潮、引き潮に深く関係しているけれど、その満ち引きの差が最大になる満月のとき、僕は地球の影を集めて海に落とす。つまるところ、この星の環境を保つために海を作る仕事をしていたのさ」
 リサイクルみたいなことだろうか。初めての生物は海から産まれたと聞くけれど、それ以前の海はなんの影なんだろう。彼に聞こうとして、やっぱりやめた。別に、今のわたしには関係ないことだもの。

 たくさんの景色が過ぎ去って、半時が過ぎた頃。わたしの目の前に、真っ黒な大きな丸い球が現れた。それは言わば、黒い月。表面には血管のような管が浮き出ていて、どくどくと脈打っている。
「これが地球の内核。キミのココロが眠る場所だ。あの部分をよく見てごらん」
と、彼が指を差したところには星形の刻印のようなものがあって、青白く光っている。中にはわたしと同じ顔をした『ユア』が体育座りで眠っているのが見えた。さらに目をこらしてよく見てみると、なるほど、幽霊みたいなわたし自身の意識と、バイオリンの弦より細い糸で『ユア』に繋がっている。
「この内核にキミの魂の片割れが眠っている。僕はキミが眠っている間に1人でこの糸を引っ張ってキミを引き戻そうとしたけれど、今のキミの意思と反発して、キミが過去に引き戻される状況が続いた。キミの影が泡立っているのは、その反発が原因だろう。
 だけどキミ自身、今はユアを引き戻そうとしている。僕と力を合わせれば、キミは元に戻るかもしれない」
 これを引き抜けば。このユアを黒い月から引き抜けば、わたしのココロにユアが戻るんだ……。それはなんだか胸がどきどきすることだった。今のわたしに心臓はないけれど。
「僕が合図をするから、いっしょに引き抜くんだ。良いかい?」
 彼は畳みかけるようにわたしに確認してきた。うん、と思わずうなずくけれど、彼のさっきの船室での雰囲気とは違う勢いに少し押されてしまっていた。なにか、彼の様子がおかしい。
「じゃあその糸を手で持って。僕はこっちを持つから」
 糸を持つと、なんだかひんやり温かい。変な感じだ。黒い月の脈打つ鼓動が、糸を通してびりびり伝わってくる。彼も同じように糸を持って、「せーの」と合図をした。2人合わせて力を入れる。なんだか、体育祭の時の綱引き、いや、「大きなかぶ」みたいだなって思った。びりびりで腰が抜けないように注意して、うんとこしょ、どっこいしょ、と力を合わせた。今この時だけは、彼と本当の意味で通じ合っている。そんな実感があった。
 ウナギみたいにぬるぬる掴みどころがなくて、印象がどんどん変わって行った彼だけど、わたしは彼をずっと仲間だと信じていた。わたしが彼に向ける感情は、愛でも恋でもない。ただ、今自分が暮らしている星が好きだと、一心に思う感情。そういう身近で、けれどいつの間にか意識することさえ忘れてしまうような、たったひとつの感情なんだろう。これを愛と呼ぶ人もいるだろうけれど、これを愛とは呼びたくない。呼びたくなかった。
 彼は息を荒くして、顔も青くして、額に脂汗までかいて、わたしのため一生懸命に糸を引っ張ってくれている。わたしも本気で踏ん張った。すると。
 ぽんッ。
 サイダーを開ける時みたいなアンポンな音。星が、黒い月から抜けた音だった。中からユアが出てきて、ゆあのわたしと混じり合う。どこかの国の絵物語みたいに伝聞でしかなかったたくさんの記憶が、実感となってわたしの意識を駆け巡った。
 そう、あれは1年前のあの日。


   ☆☆☆


 1年前のあの日は、文化祭。高校生として青春を謳歌しながら英雄業も両立するわたしが、1番に楽しみにしていた日。
 けれど、その日はなんなく破壊された。いとも容易く。一瞬で。友だちも、先生も、文化祭も、みんなちりになった。
 わたしは最後の力を振り絞り、志生や天次くんと協力して、なんとかその強大な神さまを退けることに成功した。
 そう、「成功した」んだ。
 だから、わたしが自分のココロをこの黒い月に封印したのは、別の理由があるんだ。

「ごめんなさい!っ…… わたし、自分のことしか考えていなかった……あなたのこと、考えているようで全然考えていなかった……!っ」
 突然膝から崩れ落ちる彼。を、抱きとめてわたしは泣き叫んだ。黒い月からユアを引き抜くってことは、彼の心臓を崩してしまうということだったんだ。
 1年前のわたしたちの戦いの跡は、地球に大きな傷を残した。黒い月は、地球の心臓。そして、彼の心臓。傷跡は黒い月まで達してひび割れていく。彼の悲鳴がわたしの耳にとどろいたとき。今にも壊れそうな彼を救うために、わたしは自分をくさびの代わりにした。天次くんにも、志生にも内緒で。大好きな地球を、今度は自分一人で守るために。だからわたしはずっと躊躇ちゅうちょしていた。ユアの記憶を封じ込めて。ゆあのまま暮らす決意をした。自分を取り戻すことで、彼が壊れてしまうのが怖かったんだ。友だちも、先生も、そしてわたしたちの生きるこの星すら守れない、無力な英雄"ユア"に戻るのが嫌だったんだ。
 彼は力無く微笑んで、わたしの涙を拭う。ああ、幽霊、じゃないけれど、意識どうしなら涙も拭えるんだ。温度だって感じる。彼が、足先から凍っていくみたいに段々と冷たくなっていくのも、手に取るように感じる。
「違うよ。キミは自分のことをこれまで考えてこなかった。無論僕は、理屈ぬきで他人に尽くそうとするそんなキミの姿に惚れこんでしまったわけだけれど。
 でもね、恩っていうのは、回って自分のためになるものなんだ。キミにも当然回ってくる。回ってきて然るべきなんだ」
 いつの間にかわたしたちは黒い月から海の中まで押し出されていた。大きなタコノマクラの前に。見上げると光が溢れていて。イワシの群れのうろこがきらきら、ミラーボールのように輝いている。彼は海を携えたその目で海を仰ぎながら、わたしに話した。
「僕は、キミが僕のために自分のココロを犠牲にし続けるのが耐えられなかった。それは夕雨さんも、天次君も同じ気持ちだ。みんなそれぞれ、自分たちのやり方でキミを案じていたんだ。
 キミはそれだけたくさんの人を救ってきた……いや違うな。この言い方はフェアじゃない。
 キミは、『僕』を救ってくれた。だから僕も、キミに無理をしてほしくない。ただそれだけなんだ」
 静かだった。あまりにも静かだった。今にも、この星の魂が消えてしまいそうだというのに。
「こんな僕を最後まで、守ろうとしてくれてありがとう。キミは胸を張って良い。僕がここまで惚れ込んだ人間なんて、キミが最初で最後だ。
 世界なんて、キミなら一から取り戻せる。だって、キミは無力なんかじゃない。人のココロの力は無限なんだ。キミがキミ自身を信じてあげなくてどうするんだ」
「……お願いだから」
 わたしの涙も鼻水も、塩水に溶けて消えていく。でもわたしの感情は消えないんだ。
「お願いだから、いつまでもそばにいるって、そう言って。わたしはあなたのことが、あなたという星のことが、本当に気に入ってるの。海も、空も、大地も。また何度でも、わたしが命をかけて守るから」
「朝が来るまではそばにいる。だけど、やっぱりそれまでだよ。そばにいるってことはきっと、救いにはならない。キミが救われるには、キミ自身を信じて前を向くしか、ないんだ」
 信じる、という言葉はどうしてこんなにも残酷なんだろう。信じることは別れに直結している。でも、彼の言うこともわたしには分かる。ココロの底では分かっている。志生や、天次くんは、わたしを信じてくれた。だから、最後はわたしが。
 自分を、信じてあげなくちゃ。
 わたしの腕から、彼の形はすでに跡形もなく消えていた。世界が少しずつ、向こうのほうから消えていくのが見える。けれどそんなときに、ヒラメがわたしの前をぬるぬると泳ぎ去った。彼らは呑気に自分を信じている。自分を信じて、「ごく普通の」今を、存分に。きっとそれが救われるということで、きっとそれが、本当の意味で、「人」を救うことのできるココロなんだ。そう思った。

 海の底はまだ暗い。けれど、わたしには、波間から斬り込んでくる一筋の光が見えた。
 少し、救われた気がした。


   ☆☆☆                       ☆☆☆☆


 太陽が山の向こう側で目醒めると、時を同じくして彼女も海から上がってきた。塩水を一振りで払い落し、朝陽を浴びて彼女はまた、向日葵のようにしなやかに立った。彼女の仲間の2人もそんな彼女の肩を抱いて喜ぶ。
 星は消えかかっていた。西の海から順々に、真っ白な世界へと塗り潰されていく。それでも彼女は泣かなかった。ただ少しかがんで。浜辺の砂にひとつ、くちづけをした。それは彼への意思の表れだったのかもしれないし、それだけではなかったかもしれない。
 朝日を浴びて彼女は微笑む。木々も、花々も、シオマネキもヤドカリも、新たな彼女の門出を祝福した。光と影の両方が、今度は彼女の輪郭にかしずいている。彼女は今にも星を呑もうとする白の世界に毅然きぜんと向き合い、そして、ただ一言叫ぶのだ。


 わたしは地球ほしの英雄、"ゆあ"なのだ、と。



(了)




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