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脳の髄まで雨瀟瀟

 平平凡凡と流れ去っていく時間ときは、或る日を境に掠め奪われたようである。少なくとも黒永晴哉くろながはるやにとっては、ほとんど悪夢に等しかった。虹色の雨が街に降る。ヒトが「人」を失う理由としては、これでも充分過ぎるほどだった。


 晴哉は微塵たりと覚えていない。その雨の降り始めた日のことを。ただ、晴哉が異状を認識し始めた頃には既に、虹色の雨が街を、大地を、海を覆い、元の世界の色と混濁してしまって、悪趣味な極彩色が目につくようになっていた。
 馬車馬の如く働いていたサラリーマン、……或いは、分不相応に騒いでいた女子学生ども、……乃至は、閑かで豊かな暮らしを営んでいた老夫婦。街から、彼ら彼女らは、消えた。

  街から、「人」は、消えた。

 最早人々は、「人」でなく、まして「ヒト」でもなく。錆びれたネジ巻き人形のように、壊れるまで踊るのみ。

 踊るのみ。

 踊る、のみ。……………







イチ、雨は虹色・は黄色


 太陽を赤一色で描いていた時期が、晴哉にもあった。晴哉が4、5歳の時分、「らくがきちょう」に描き込んだ絵には、耳のない丸顔と関節のない手足を持つ人間、不自然に曲がった草木、やけに角ばった雲。そして赤色のクレヨンで塗り潰された太陽が、ぎこちなくニタニタ笑っている。晴哉は昔の自分の絵を見るのが腹の底から嫌いであった。六腑の腐敗を錯覚するほどに。……なんと才のない絵だろう。技術もなく遊びもなく、子供ならではの独特な感性という言い訳すら見当たらない。酷い絵。

 晴哉は想う。なぜ祖母はこんな絵を褒めたのか、と。

 晴哉の祖母は、高名と言うほどでもないが、多少名の知れた絵本作家だった。人語を喋るソフト麺の話、恋する地球の話や、結末好きの暗殺者の話。奇天烈だが毒にも薬にもならぬ物語を、縷縷として描いては、つらつらと暮らす。そういう女性ひと

 彼女の物語は、とても児童向けには括れそうにない、支離滅裂で悪辣な話ばかりであったが、しかし、彼女の絵本にはそれを補って余りある「」があった。華があり、闇があり、生命いのちがあり、心がある。そんな画を、彼女はまるで、ただ深く呼吸いきするかの如く描出するのであった。画も彼女に描かれて幸せだったに違いない、と晴哉は信じている。晴哉は画が心を持つと信じていた。彼女の画には、そう思い込ませるだけの魅力ちからがあったのである。

 晴哉にとって祖母は、殆ど崇拝の対象だった。直接顔を合わせたことがなかったためである。年に一冊出版される絵本と、月に一通の手紙だけが、晴哉と祖母が意思疎通する手段だったのだ。姿の見えぬ憧憬に、一種の幻想めいた願望を抱くのは、何ら不思議のない帰結であろう。

 或る日。晴哉の母親は何を思ったのか、晴哉が祖母へとしたためた手紙に、晴哉自身の絵と彼の姉の絵を1枚ずつ添えて送った。晴哉は両親から惜しみない愛を注がれて育ったが、絵だけは1度も手放しで褒められたことがなかった。姉の存在。常に比較せざるを得ないほど、晴哉の姉は尋常ならざる才覚を秘めていたのである。母親は、祖母が姉の絵を讚称すると思っていたに違いない。しかし。この姉弟の2枚の絵に対する祖母の評価は、しかし。……

「晴哉の方が、良い」

 祖母のこの一言がなければ、僕はこの道に来なかったのかもしれない、と晴哉は考える。そして静かに怒るのだ。この一言さえなければ僕はこんな惨めな生活をしなくて良かったんだ、と。才能なんて信じなければよかった、ただそれなりに良い学校を卒業して、それなりに良い会社に就職し、それなりに時間を作れる副業でもしながら、それなりの家庭を作り、かたわら、趣味として絵を嗜む、僕にはそれで良かった、それで分相応だったのだ、と。

 美大を受験し続け、今年で4浪目。もう飽きた。陽の光の入らない、暗く雑然とした部屋の隅。晴哉は誰にともなく零した。



 晴哉は度々姉と自分の境遇を較べ、鬱屈した感情に落ち込む。それほどに姉と弟とでは大きな隔たりがあるのだ。方や、部屋で蹲る、しがない浪人生。方や、世界に名を轟かす気鋭の大絵師。雲と泥との格の差すらも、この隔たりの前では些末事である。

 晴哉の姉、侑依奈ゆいなは、圧倒的な才能を以ってスター街道を駆け上がり、作品に安くても10億、最高で63億の値段がつく世界有数の絵師へと上り詰めた。独創的だが普遍に通じ、単純であっても壮麗。彼女の画は、見に来る人間を自らの中に握り込んでは永劫放そうとしない、そんな握力を秘めていた。そしてその「握力」は、晴哉が尊敬してやまない祖母の画も持っていたものなのだ。

 嫉妬であった。身が焦げるような、眼が焼けるような、脳の髄まで掻き毟られるような、酷く身勝手で、かつ治ることない嫉妬であった。

 醜悪であることは、晴哉自身が最もよく理解していた。自身の実力不足を裏返して、天才の姉を羨む。果たして羨む資格があるのか。羨むことができるほど努力はしているのか、と晴哉は夜が来るたび自問した。答えは出ず。筆を持つこと、手を動かすこと、真白のキャンバスが毒々しい色に染まっていくことのみが、晴哉を生の次元に繋ぎ止めているのであった。

 美術界での侑依奈の地位を押し上げた一枚の絵画。タイトルを『はばたき』と言う。侑依奈が11歳のときに完成させた作品で、侑依奈自身も自己最高傑作だと自負するほどに美しい。晴哉は、その画が朝の情報番組で特集されるのを見るたび、複写コピーが出回っているのを目にする度に、眼球を取り出して洗浄したくなる衝動に駆られた。

 絵画の中には見渡す限りの大草原、中央に一本の大木。それを背に1人の美少年が、あどけない笑顔で佇んでいる。周りには色とりどり、無数の鳥たちが飛び回り、少年を祝福しているようだ。……その少年は、過ぎし日の晴哉と同じ顔をしている。

 現在いまの晴哉の顔に、画に描かれたような美少年の面影は見当たらない。無精髭に覆われたへの字口、弛んだ顎、虚に浮腫んだ瞼。かつて確かに存在した情熱と気概を、今更、彼の何処から探せば良いというのか。

 晴哉には現在いまの自身を、ありのままの自身を、受け容れる余裕がなかった。画の中、つまり流れたはずの時間に乗り込めず、彼自身は置き去りにされているのであった。故に姉の画を直に見るのが辛い。過去むかしの晴哉が、現在いまの晴哉を見て失望しているような、嘲笑しているような。目を伏せるしか、逃れる方法がなかった。

 晴哉が赤一色で太陽を塗り潰していた時分、侑依奈は紫色の雲で黄色の太陽を覆い、虹色の雨をキャンバスに降らせた。虹のキャンバスの上、人々は雨を受け、踊った。勿論見る者の心も躍らせた。祖母は晴哉の絵を「良い」と言った。「あとは使うものを良く好めるようなら、一人前」とも言われた。だが違うのだ。

 たった2年。それだけの差だと思っていたのだ、晴哉は。違う。全く違う。才能。センス。天質。認めた時には既に、晴哉は引き返せぬ位置に終着していた。執着していた。

 信じたさ。……
        でも駄目だった。
 足掻いたさ。……
        でも駄目だった。
 泣いたさ。……
        でも駄目だった。
 逃げたさ。……
        でも駄目だった。

 何処にも居場所がない。何者にもなれない。だから戻ってきた。この暗がりに。
  でも、……それさえ駄目かもしれない。


 晴哉は4年目の浪人が決定した日から8ヶ月もの間、絵を一枚描くためだけにアパートに引き篭もった。部屋から一歩も出ない生活。陽の光は浴びなかった。備蓄した食料は最初の1週間で底を尽き、それ以降は桃缶と鯖缶を毎日交互に食べた。電気は止まった。スマホも使えなくなった。貯金していたバイト代だけでは料金が払えなくなってきたからだ。風呂には入らない。そのため浴室から上ってくる下水の汚臭が、部屋の中に漂っている。晴哉が憔悴するのも当然の径路である。頬はけ。髭は伸び。晴哉の身体には骨と皮、そして筆を持つ筋肉だけが残った。

 晴哉が8ヶ月間、全精力を込めて描いた1枚の油絵。キャンバスは黒一色、その上に白線で描かれる歪んだ人々。慄然。もしも地獄というものが真に存在するのであれば、これこそが地獄絵図、そう言わんばかりの迫力をこの絵画は秘めているように見える。晴哉はこれを、満腔の憎悪を以て、『雨』と題した。

 当の晴哉は絶望の淵に頭まで全く沈んでしまって、呼吸すら難しくなっている。『雨』が、『はばたき』は勿論、侑依奈が幼少期に描いた虹の雨の落書きにさえ劣ることを直感していたからである。更に言えば『雨』が、【天才を演じる贋者に描かれた芸術めいた何か】であることを自認していたのだ。

《たとえば芸術の「げ」の字も知らない素人だけが、僕の『雨』を見るなら、絶賛されるに決まってる》

《だけど素人を含む大衆に見て貰うには、真に審美眼を持つ人たちにこの画を素晴らしいと認めさせる必要がある》

《……これじゃ、無理だ》

《だってこれは芸術じゃないから》

《僕の心だから》

《僕なんだ。ただの僕の写し絵なんだ》

《「芸」も「術」もない、見せる気がない、吐瀉物の掃き溜め》

《だから、当然、「美」しくもない。……》

 芸術には、線引きがある。それは何とも曖昧な境目で、時代が変わる毎に引かれる場所も更新される。その上、いざとなれば境界線を隠して遥か遠くで引き直し、元からこの場所に書いてありましたと宣うことも可能である。

 しかし晴哉はそれを許さなかった。姉を追ってきたプライドがあったからである。芸術を、天才を追ってきたという自負があったからである。そして、その矜持は結果的に、最後の希望であった『雨』さえも、ぽきり、と手折ってしまったのだ。

 その事実を咀嚼した晴哉の顔に、生気は一切ない。晴哉の意識は喪われた。


 気絶したかの如く眠りに就いた晴哉が本当の意味で覚醒したのは、15日と8時間も後のことである。排泄以外は何もせず、何も口に入れなかった。死を待つ。下水の汚臭にも、部屋中を蠢き這い回る小虫にも、完成した画にすら興味を持たず。ただ流れる時の中、死神の迎えを今か今かと待った。待った。待ったのだ。……だが。

 光。

 晴哉は、カーテンと瞼を通り抜けてくる光の異質さに気がついた。どうもこの光は日光は元より、ぼやりと夜を照らす街灯でも、煌々と揺らめく炎でも、縁日に打ち上げる花火でも無いようである。

 晴哉の底に芽生えた小さな好奇心が、衝動へと駆り立てた。カーテンを開けて外を見る。彼はその行動を後に深く後悔することになるのだ。



  虹色の雨が街中に降り注ぐ。サイケデリックに鮮烈に。尋常でない数の人間が連なり踊り転げる。雨に濡れるのも厭わずに。紫に曇った空を凝視して、何かを口遊み。傀儡かいらい。そこに人間個有の意思などまるで。人の形を象ってはいるが、そこにいるのは「人」ではないのである。……

 この受容れ難い視覚情報群は、瞬く間に晴哉の脳を占領した。脳細胞が悉く破裂していくような錯覚を、彼は確かに感じたであろう。全く理解の範疇を超えていたのだ。何故なら。

  晴哉は微塵たりと覚えていない。その雨の降り始めた日のことを。









ニ、意図伝環いとでんわ


 素面では到底信じられぬ光景が目下もっかにある。この時の晴哉の狼狽は如何程であったろう。直立不動の姿勢で暫時、踊るニンゲンたちを見下ろす他なかった。

 晴哉は侑依奈の、【あの落書き】を想起した。それの他ないのである。虹色の雨、紫の雲、極彩色の街、虚に踊るニンゲン。全てが一致する。偶然にしては。

 晴哉が最後に外出したのは『雨』が完成したその日。完成直前に多少良い物を食べようと、好物だった飴細工を買いに出た。晴哉が虹の雨を目の当たりにする、実に15日前である。それからは外の様子を気にすることもなかった。則ち虹雨により街がこの状況に陥ったのは、晴哉がただ死を待つことに憂き身を窶していた、あの空虚な15日の間の出来事なのだ。

 15日などという期間は、長いようで忽ちに過ぎ行く。当然、虚無に滑落していた晴哉にとっては悠久の如き時間であった。しかし、街の全てを変貌させるには。させるには、あまりにも短すぎるではないか。

 「人」と呼称できるほど理性的ではない。「ヒト」と定義できるほど動物的でもない。機械的。生物というには、生命が持つ特有の瑞瑞しい地力がなかった。故に、機械的。それが最も適切にこの ”ニンゲン” たちを表現できている言葉といえた。しかし、この ”ニンゲン” たちも元来、「人」であったに違いない。

 晴哉が踊るニンゲンたちを、元「人」だと確信したのは、ある少女がそのニンゲンの中に紛れていたからだ。彼女は、晴哉と特別に関係が深いわけではない。というのも、晴哉の行きつけの飴細工の店のバイト少女(晴哉は、店長が彼女を「マイカ」と呼ぶのを耳にしたことがある)なのである。彼女には一度だけ、絵を褒められたことがあった。街路樹をスケッチをしていた絵が財布を出す時にポケットから滑り落ち、偶々彼女がそれを見たのである。しかしそれからどうと言うわけでもなく、彼女は店にいたりいなかったりした。客の立場でしか接したことがない相手。だからこそ、晴哉の背中を伝うのは、尋常ならぬ怖気おぞけであった。初めに見かけたのが気の置けない友ならば、悪戯だと盲目的になれた。一切関わりのない他人だけならば、元は人間だと気づくことはなかった。「数回見かけたことがある程度」の人間であるからこそ、状況の理解と恐怖が加速したのだ。



 ニンゲンたちは街を踊り歩き、それでは足らずと何やら唄を、手拍子とともに口遊んでいる。


ハァ〜〜〜 

向こう岸咲く花摘むカカァ

子等も抱かずに訝るのみぞ

胎の底まで響くが唄じゃ

背骨軋むは軽口じゃろて

嘲笑わらうったらさありゃせぬわなぁ

そりゃ嘲笑うったらありゃせんてぇ

泣き虫ぼんもさらさら知らぬ

脳の髄まで雨瀟瀟

骨の髄まで血の雨瀟瀟

虹が出た出た お月の様も

天道様もさ 罷りて帰れ


 晴哉は、この唄が自分の耳にずるずると滑り入り、頭の裏うちでぐるぐると奔り廻るのを確かに感じていた。後頭部が内側から殴打され続けているような。もしくは、寺の鐘のように突かれ続けているような。残響が駆ける感覚。僕は既に洗脳されているのかもしれない、と彼は思った。洗脳され、何処か想像もつかぬような閉所で、暗がりのなか見せられている悪夢なのかもしれない、これは。否、僕のこれまでの人生そのものが、この状況に陥るまでの布石だったとしたら。だとしたら、全て無益であったわけで。……

 抗うため、晴哉は筆をとった。折ったはずの筆だった。しかし、存在意義に敗北して死ぬのと、全く否定されて死ぬのとでは、雲泥万里の違いである。不安を殴りつけるようにキャンバスを虹色で埋めていく。この状況を描けるのは僕だけだ、という自負のもと。指先が震える。歓喜? 恐怖? それとも憤怒? 鼓動が流れる唄をも掻き消す。

 眼前の異常は僕が描き起こす。僕が歴史の証人になる。遺してやる。これが夢なわけがない。この生命の躍動が、夢なはずがない。僕は機械ではない。僕だけは機械ではない。だから、だから、だから、だから、だから、だから、だから、……………………………………

 携帯が、鳴った。

 アパートの一室、静寂。スマホの着信音が、けたたましくそれを劈いた。晴哉はまたも恐怖した。その音にではない。本来なら、鳴るはずがないのだ。何故なら。

 スマホの代金が払えていない。契約は2ヶ月前に切れている。電話などが使えるはずがない。かかって来ることさえも。

 暗がりの中光を放つスマホの画面に、表示された名前。尚悍ましいと感じた。


 晴哉の両親は晴哉が15歳のとき、離婚している。調停のない協議離婚であった。晴哉の親権は父に、侑依奈は母に。侑依奈の姓は、黒永からはたへと変わり。そして、プロ画家となった「秦侑依奈」は、アーティスト名を「ハタナ」と名乗るようになった。晴哉の母は侑依奈の才を誰よりも高く買っていた。姉弟を離した理由の一端がそこにある。その母親から、1年前のある日、突然電話がかかってきた時のことを、晴哉は克明に記憶している。電話口での母親は焦燥と動揺で過呼吸になっており、「晴哉!」「出しなさい!」「そっちにいるのは分かってるんだから!」と脈絡もなく叫ぶほどに錯乱していたが、冷静になってから話を聞くと、その内容には晴哉も驚愕せざるを得なかった。則ち、……この電話は、1年前に消息を絶った姉からということになる。

 晴哉の手が小刻みに震える。栄養不足か、或いは、恐れか。彼はスマホを耳に近づける。

「……もしもし」

 7年ぶりの姉の声。数多の記憶がまざまざと蘇る。赤いロイド眼鏡の奥にある、何処を見ているかいまいち判然としない眼。絵の具で汚れたぶかぶかのTシャツを毎日着ていた。寝癖そのままの髪はくしゃくしゃ。その割に(スタイルと顔が良かったからか)よく告白されていた。会話も噛み合わない。返事は「はい」でも「うん」でもなく「ん…」だった。それでも、敵わなかったのだ。

「姉ちゃ……姉貴、今何処にいるんだ。勝手に活動休止して、母さんにも迷惑かけて」
「晴哉、聞いて欲しいの」
「……何を」
「歌を聴いて。色のお尻を。リズムの頭を。晴哉の好きな色を順番通り並べるの。あの時のお婆ちゃんの手紙を思い出して」
「……は?」
「赤、紫、黒、黄色、青、緑、茶色、白。分かった?」
「何言ってんだよ!怖いよ……外はおかしくなってる。雨で世界が塗り潰されてくみたいだ。姉貴は何を知ってんだよ!教えてよ!」
「もう教えた。答えは出てる。私のいるところはそこだから。……雨に濡れないで」
「ちょ!っ……」

 ブツ、という不穏な機械音とともに、侑依奈の声は途切れた。番号を調べてかけ直そうにも、晴哉のスマホの電源は切れている。充電もない。

 僕に何を伝えたかったのか。晴哉は侑依奈の話した内容の理解に苦しんでいた。例えばこれが僕の見ている悪夢だと仮定するなら、あの電話は僕を覚醒に導く糸口になっている。———それは晴哉にも察しがついた。しかしながら、その先である。何をどうすれば、侑依奈の言う「私のいるところ」に辿り着けるのか。

 桃缶をひとつ開ける。筋肉の削げ落ちた襤褸らんるの如き腕で缶切りを使うのは、晴哉が考えていた以上に困難だった。故に1缶しか開けられない。スプーンで丁寧に切り分け、一口ずつ口に運ぶ。その度に晴哉の脳の血の巡りは回復していくらしかった。



 ———『歌を聴いて』『リズムの頭を』『晴哉の好きな色』『手紙』———  

 晴哉は考え込む。侑依奈が示した『晴哉の好きな色』に、不可解な点があるのだ。それは。

《普通『好きな色』は一色じゃないか…?》

 侑依奈は『赤、紫、黒、黄色、青、緑、茶色、白』の8色を淡々と羅列した。その8色の中に晴哉が特段好きな色は、ない。羅列の仕方にも何ら規則性は見当たらない。だが晴哉にはこの8色に心当たりがあった。

《絵具……油絵具だ……》

 油絵具は、色ごとに系統が分かれている。それが赤系、紫系、黒系、黄系、青系、緑系、茶系、白系の8つ。侑依奈が挙げた色とぴったり一致する。

《絵具から好きな色を選べということか?》

《いや……》

《だとしたら『順番通りに並べる』の意味が通らない。1つのものを『並べる』なんて。無意味な数学的表現は使わないはずだ》

《そもそも『歌を聴いて』と何の関連性があるんだろう》

《『歌』が外でニンゲンたちが歌っているもののことを指すとして》

《『聴く』ことは聴覚、『色』は視覚に与えられる情報じゃないか、ベクトルが違う》

 晴哉は油絵具を手に取った。オーレオリン。黄系統の透明感ある色だ。晴哉はこの色をよく使う。……

「あっ……」

 晴哉は侑依奈に言われた通り、祖母の『手紙を思い出し』、気付いた。

《よく使うのを良く好む……》

 晴哉の祖母の口癖で、手紙にも書いてあったことだ。侑依奈が言う『あの手紙』とは、眼前にある状況を鑑みれば、侑依奈の虹の雨の落書きに最も深く関係している手紙と見て間違いない。晴哉と侑依奈の絵を母が勝手に送った時の返事。ならば、好きな色を並べるとは。

《赤系統から白系統まで、それぞれ僕がよく使う色を並べるということ》

 赤はカーマイン、紫はモーブ、黒ならセピア。黄は勿論オーレオリン、インジゴという青、エメラルド・グリーン、茶系統のロー・アンバー。そして白はシルバー・ホワイト。晴哉がよく使う8系統。……ここまで分かっても、『並べる』方法の正解はまだ暗中にあった。



 唄は街に広がり続けている。晴哉には薄らと感じていた違和感があった。拍の一辺倒さ。歌詞の繋がりの無さ。休符の入る場所。耳障りの悪さ。楽曲として破綻している。作品として間違っている。何かを示唆しているように思えて仕方なかった。

 そして、気が付いた。

 晴哉の使う色を並べたとき、色の文字数が唄の拍数と一致すること。色の始めに当たるところには休符が入っていること。そして、語尾に当たる『リズムの頭』を取っていく。


 「む」かい

 「か」かぁ

 「い」ぶかる

 「き」しむ

 「っ」たらさ

 「さ」らさら

 「ち」のあめ

 「か」えれ


【ムカイ キッサ チカ】……


 ドアを蹴り開ける。晴哉の記憶では、確かに15日前まではなかったのだ。アパートの前の細いアスファルト道路。15日前はなかった。あの時までは、空き地だった。

 歪んだ喫茶店が建っている。京緋色の日差しの上に白文字が踊っていた。その名は。

喫茶 ふぁんたずま。









サン、衒いも繕いもない世界


 コラランコロン、コラコロン。

 鈴が鳴る。晴哉は一歩、足を踏み入れた。店の中央に純白のグランドピアノ。その前に独り、眉目秀麗な男が座っていた。真朱のスーツに身を包み、薄墨色の蝶ネクタイ、胸ポケットには彼岸花。男は立ち上がると、晴哉の方には一瞥もくれず口を開いた。

「待っとったわァ。ついて来いや」

 男は晴哉を店の厨房へと招き入れる。しかし、侑依奈どころかそこには誰も見当たらない。晴哉はしびれを切らして尋ねた。

「……あんた誰ですか」

「なんや聞いとらへんのかめんどくさ。ワシはメズキや。今からお前の姉さんのおるとこに連れてったる」

「姉貴は何処なんです。あんたが拐ったのか」

「ダぁホゥ(どあほう)が。彼奴きゃつは自分からここに来たんや」

「自分から?……」

「せや。彼奴はこの地下したや」

 そう言いながら、メズキは厨房のなかでも一際の存在感を放っていた、黒いオーブンを指差した。ヒト1人ならば余裕で収納できるサイズである。

「ここが冥途の入口や。……っちゅうか、地獄の入口やな。さ、遠慮せんとさっさと入らんかィ」

 晴哉は身の危険を感じ、震えた。

「いや、……言ってる意味がちょっと……」

「はァ? 何言うてんねん? 声ちっさ! はっきり喋らんかいダぁホゥ。お前がそんなんやからこないなことになってんねやぞ。意気地も根気も才能もはっきり言ってお前さんにはもったいないわ。ないと変わらんわダぁホゥ。んで、何言うてん。さっき何言うてんダぁホゥ。聞き取りづらい声なんぞ亡骸ほとけさんの口より価値ないわダぁホゥ。ま、どない言うててもワシのやることは変わらへんけどな!」

 メズキは早口で矢継ぎ早に捲し立てると、晴哉の尻を蹴り上げた。バランスを崩し蹌踉よろめいた晴哉は、頭からオーブンに突っ込んでしまった。

「ほな閉めるでェ!」

 オーブンは無慈悲に閉められる。叫喚。叫べども喚けども、晴哉の声は届かず。ガタン、という音とともに、晴哉の身体は熱を帯び始めた。烙傷に塩を塗り込まれるかの如き激痛が爪先から脳天までに滔滔と流れていく。晴哉は生を諦め、目を瞑った。



 鉄製の桎梏に搦め捕られていくような閉塞感に魘されて、晴哉が思わず目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは白。何処も彼処も、人工的かつ単調的、整然とした無味乾燥のみで構成された、白。これが所謂「風景」が「殺」された「殺風景」というものか、と晴哉は感じた。

 朽木で組み立てられた、今にも損壊しそうな椅子に晴哉は座らされている。決して拘束されているわけではない。しかしながら、彼は微動だにできなかった。しなかったのではない。できなかった、のだ。

「動かれへんやろ」

 晴哉の背後からメズキが歩いてきて、傍に立った。改めて見ると、端正な顔立ちである。高い鼻、青白い唇、長い睫毛に翡翠色の瞳。年齢は外見からでは予測がつかない。十侑五にも満たぬようにも見えるが、仮に四十路と言われても納得してしまう。メズキは晴哉を睥睨し、立板を流れる水の如くに話し始めた。

「ここが地獄の審判場や。イメージとちゃうか? せやろなァ、ま、人間の流布する地獄は所詮ルサンチマンの吹き溜まりやしな。せめて罪人には思いつく限りの責苦を味わわせたいっちゅう、弱者が持つ残虐性やダぁホゥ。

 人間っちゅうんはほんま残酷やで。殺人が罪なのもオノレが殺されるのが嫌やからやし。やから権力者のダぁホゥどもは平気で人殺しを是とするんや。守られとる自分は死ぬ心配ないからなァ。ダぁホゥなもんやでほんま。

 ほんもんの地獄っちゅうのは、ある意味平等で慈悲深いんや。特に今の代の閻魔様なんて慈悲深すぎて、あのダぁホゥ十字架野郎も自らの偽善を後悔するほどやぞ。

 お前の姉さんは今んとこ罪人やで、そりゃ平等に裁かれるんが筋なんやけど、閻魔様が要らん慈悲深さ出してもうて、交渉のために
お前さんをここに呼び出したんや」

 愕然。晴哉は動転した。今いる場所が地獄という事実にではない。オーブンに入れられた時点で自分の死は覚悟していた。だからそれが理由ではない。侑依奈までとは。「姉ちゃんが地獄に行く理由なんてあったのだろうか」信じ難かった。全く晴哉には信じ難いことであった。侑依奈は晴哉の知る限り(と言っても父母が離婚してからは直接は顔を合わせていないが)、歴史に残る大絵師で、芸術界に偉大な功績は残しているが、間違っても人道から外れるような女性ひとではない。

「姉ち……姉貴は、一体どんな罪を犯したんです」

「それはアタイから説明するであーる!」

 溌溂とした声が真白の世界を震わせた。殺風景が崩壊していくとともに、血にも似たどす黒い赤色が侵食していく。「おでましやァ」とメズキは興奮気味に合掌し、こうべを垂れた。

 重力が反転する感覚に、晴哉は喉の奥から嘔気を催す。と同時に、含みのある金属音が戛然と鳴り響き。刹那、青銅色のマント、臙脂色のビキニ。漆黒の艶肌に、猫の如き爛々と光るまなこ。しかし背格好はあどけない少女が、晴哉の眼前に仁王立ちしていた。

「アタイは地獄を統べる冥界の王にして、彷徨える霊魂の裁きの徒!13代目閻魔羅闍こと閻魔大王その人であーーるっ!」

 威風堂々(?)口上を述べた閻魔がマントを翻すと、その足元に。ぽかと口を開けた侑依奈が現れた。

「姉ちゃん!」

 晴哉の声を耳にした途端、埴輪の如き虚空の目つきをしていた侑依奈に一瞬間生気が戻る。それから何事か口にしていたが、すぐに何かを悟ったように目を伏せてしまった。

「ダぁホゥ! 閻魔様のお話の途中や。集中して聞かんかい」

 メズキは晴哉の頭を鷲掴み、無理矢理閻魔の方に向けた。閻魔は少し唇を尖らせながら「アタイは『優しい』から、口上をガン無視されても赦すであるが」と小声で呟く。

「この侑依奈の罪状であるが、簡単に言うと世界転覆罪、であるな」

 閻魔は晴哉に向けて語り始めた。

「この世界は何に於いても螺旋状の繋がりで構築されているである。生命にしても、時間にしても、歴史にしても、運命にしても。アタイら地獄の者たちは、螺旋を歪めたり破壊したりするような言動をとった愚陋たる霊魂を罰する。そしてその霊魂どもから枯れるまでエネルギーを吸い出して、新たな螺旋を創る。畢竟、世界の均衡を保つのが仕事なのである。

 つまり、たった1つの魂でも。歴史や運命、諸々の螺旋に作用する力を秘めているということ。

 侑依奈は、その魂の力を引き出してしまったのである。『晴哉を除く世界の全てを貶めてやりたい』という願いで。魂が人の強い願いや思い込みに共振すると、現実に干渉してしまうことがあるのはアタイらにとって周知の事実であるが、アタイらにもこの規模は想定外だったの……である。このままにしておくと世界中の螺旋を破壊しかねない。だけども侑依奈には、現実を元通りにする権利も能力もないのである。

 何故なら、穢れた願いに共振した罪深い魂は、素直に物事を話したりおこなったりすることができなくなるのである」

 晴哉は、侑依奈がかなり回りくどい方法で自分をこの場所に誘ったことを思い出した。直接言わなかったのではなく、言えなかったのだ。

「キミは自らの命を蔑ろにし、死に行く定めだった。自らの命であろうと、他人の命であろうと、粗末に扱う者には地獄の罰が待っているのである。螺旋を壊すことには変わらないであるからな。

 それを偶々強い願いで救ったのが、侑依奈である。侑依奈は世界中を棄てる代わりにキミの無事を願った。だからキミは一応、生者として存在しているのである」

「……」

 閻魔の言葉は理解できても、晴哉の感情は一向に追いつかない。場面転換の激しい洋画を永遠に見せられているような気分。フィクション、スクリーンの向こう側の出来事のような。

「ところで、アタイがキミを呼んだ理由であるが」

 閻魔が指を鳴らして合図をすると、メズキが何処からか先程の巨大なオーブンと、これまた大きな炊飯器を運んで来た。

「本来ならば侑依奈は問答無用で無間地獄行きであるが、アタイは『優しい』であるから、晴哉が狂った世界に1人取り残されるのを配慮して、考えた。

 晴哉、キミはどちらか選べ。

『姉と共に魂ごと消滅し、世界を元に戻す』か、『この世界はそのままに、姉と共に別の世界で平和に暮らす』か……」

 晴哉は自分の耳を疑った。閻魔は上機嫌で続ける。

「良い良い、キミの言いたいことは予想がつくである。

『嗚呼、なんと慈悲深い! こんな私たちような愚かな罪人に、選択肢をお与え下さるとは! 幸甚の至りで御座います!』

 もちろんである。アタイは『慈悲深い』であるからな! ハッハッ!」

 閻魔の高らかな笑い声が審判場にこだましている。汗が一筋、背を伝うのを晴哉は感じた。

 閻魔から晴哉に提示された選択肢はつまるところ、利他か利己か、である。今、晴哉1人の双肩に、責任が重く伸し掛かっているのであった。

《でも、……》

 晴哉は考えた。

《僕は今、死んでも構わないと思っている。生きていたって、誰からも認められやしない。だけど、姉ちゃんは違う。姉ちゃんは、生きなきゃいけない人間だ。この世界で芸術のレベルを高めていかなきゃならない。それができる人間だ。僕は姉ちゃんに一度救われている。だから、僕らが助かる方法を選んで恩を返す……》

 ふと。

 ふと、晴哉の脳裏をよぎったのは、飴細工店のバイトの少女。素敵な絵ですね、と。晴哉の絵を褒めた少女。彼女が踊る人形のように、虹の雨の中を練り歩いているのを思い返した。———僕たちが利己を選べば、彼女たちは一生をあのまま過ごすことになるのか。

《……虫が良すぎる、よな》

 認められた、とは言い難いことは、晴哉も重々に理解している。けれど。僅かでも、塵ほどに僅かでも、可能性があると信じ、晴哉は生きて来たのだ。その気持ちだけが、自分を生の次元に繋留していたのである。

 この世界にも未練があった。自分自身の命にも未練があった。晴哉は決着のつかないジレンマの波に呑まれそうになり。溺れそうになり。見失いそうになり。だが。

 答えを、出した。



「閻魔様」

「お、答えが出たであるか。はてさて、どちらであろうか?」

「……僕たちの魂を、捧げます」

 閻魔は大きな目をギュッと細め、したり顔で笑った。興奮しているようで、頬も紅潮している。

「ほーぅ。そちらを選ぶであるか! なるほどなるほど、では……」

「ですが」

 マントをはためかせながら、メズキとともに大きな炊飯器を開けていた閻魔の動きが、びたりと止まった。

「ですが、と言ったであるか、キミ……?」

「ええ。僕たちが消滅する場合、この世界も消滅させて下さい」

 閻魔は口をあんぐり開けて暫時晴哉の方を見つめていたが、かぶりを振って「ダメである、ダメであるぞ」と叫んだ。

「何を抜かすであるか! それではキミらに何の得もない! 交渉にならぬではないか!」

「……この選択肢は初めから僕らに得かどうかで作られていませんよね。何をそんなに焦るんです」

 閻魔は「しまった」と手で口を塞ぎ、メズキの方を見た。メズキは目を逸らす。その様子を見て首を傾げている侑依奈。晴哉は構わず続けた。

「当ててあげましょうか。

 この選択肢は最初から、利己でも利他でもない。仕組まれた罠だったんですよね? 僕がどちらを答えても、『世界の均衡を保』てるように。

 閻魔様、言いましたもんね。それが仕事だって。

 はじめに選択肢を提示された時、疑問だったんです。世界の均衡を保つ仕事を生業にしている人たちが、わざわざ2人ぽっちの魂のために、この世界をそのままにしておくかな、って。そこで思い至ったのが、『地獄に堕ちる時の条件』……確か、螺旋を破壊する、ってことですよね。

 例えば僕らが世界の助かる道を選んだら、自殺も螺旋破壊の罪に問われるのですから当然の如く地獄。一方で僕ら自身が助かる道を選んだとしても、世界中の螺旋を破壊することになるのですから、あなた方には不利益なはずです。ですが、他を犠牲にしていることに変わりないのですから、地獄行きにすることはできます。ここは地獄の一部ですしね。

 ですが、もし僕たちの魂を使うことだけが目的ならば、わざわざ交渉をする必要がない。ここからは僕の想像ですが……、僕たちの魂を使うことに、特別な目的があるのではないですか」

 晴哉に詰問され、閻魔は助けを求める捨て猫の如く、涙に潤った目でメズキを見つめる。メズキは目を合わせようとしない。終には閻魔も深く溜息を吐いて、マントを白旗のようにパタパタ振った。

「参ったである。ほとんど正解であるよ。

 アタイらは、キミを地獄に落したかったのである。キミは地獄に堕ちるべき人間であるからな、本来ならば。しかし、侑依奈がキミを救ってしまった。この時点で螺旋がズレてしまったのである。

 ……見抜かれてしまったのも運命かもしれぬであるな。キミは恩赦で現世に戻してあげるである。ほら、動けるようにしたである」

「えっ」

 晴哉は戸惑った。

「姉ちゃ……姉貴は、姉貴はどうなるんですか?」

「もちろん侑依奈は連れて行く。コヤツは大罪人であるからな。議論の余地もない。キミの前に連れて来たのは、単にキミの判断ミスを誘おうとしただけであるからな」

《そんな……ッ》

 晴哉は侑依奈も世界も救いたかった。だから、一か八か、閻魔に対し大見得を切ったのである。どちらが欠けても、晴哉は許せなかった。

 閻魔がマントを翻した隙に、晴哉は走った。侑依奈の手を取る。そして、巨大なオーブンに手をかけた。背後うしろから閻魔の金切り声、メズキの怒声が聞こえる。

《あの炊飯器は、僕たちを無間地獄に堕とすための装置でほぼ間違いない。僕が魂を捧げると言ったときに開けていたから。現世からここに来る時はオーブンだった。賭けるしかない、これで帰れる!》

 晴哉は侑依奈とともにオーブンの中に飛び込んだ。身体が灼けるように熱い。溶ける……そう思うとともに、晴哉は意識を失った。


 目が醒めてオーブンを出ると、見覚えのある真白の世界に、2人はいる。失敗した。晴哉は思った。オーブンに入るのは間違いだったのだ。

「ごめんね、姉ちゃん」

 晴哉は泣いた。侑依奈を救えなかった。あれだけ憎んでいた相手の命が、晴哉自身にとって最も大切なものと気がついたのだ。憧れだったのだ。シンボルだったのだ。誇りだったのだ。………それが、自分のせいで失われるのを、悔いていた。

 そんな晴哉を見て、侑依奈は言った。

「……ハタナこそごめん。ハタナのせいで。

 ハタナね、我が儘だった。才能を求められるのが嫌になっちゃったの。才能だけを信じて生きてきたのに、『才能だけ』と思われるのが嫌になっちゃったの。お母さんも、教授も、誰もハタナ自身を見ないの。ハタナの画にしか、才能にしか興味ないの。

 だから逃げ出して、でも寂しくて。願っちゃったの。……こんなことになるなんて思わなかった。ハタナのせいなの。

 でもね、ハタナね。晴哉には生きて欲しい。晴哉はね、素直だから。だからお婆ちゃんも認めてたんだよ。

 ハタナ、悔しかった。ハタナは認めて貰えなかったから。お婆ちゃんが1番尊敬する人だったのに。晴哉の方が先に認められて」

 侑依奈の話を聞いて、晴哉も所々せぐり上げながら話した。嫉妬していたこと、ずっと追いかけていたこと。侑依奈が天才だと、芸術界を負って立つ人間だと、確信していること。全て言葉にした。

「ありがとう」

 侑依奈は言った。

「ハタナは、此処に残るね。責任、とらなきゃだから」

 僕も此処に残る。晴哉が言おうとすると、侑依奈は晴哉の口を絵の具の汚れの残る手で塞いだ。

「晴哉は生きて。喫茶に行ったらわたしの最高を、あなたの最高で塗り潰しちゃって」

 晴哉はまたも金縛りにあったかのように動けなくなった。ハタナは晴哉を強引に引き摺って、オーブンに押し入れる。

「晴哉の澄んだ眼で世界を描いて。それはきっと認められるから。誰もが認めてくれるから。諦めちゃダメ」

 泣き喚く晴哉をよそに、侑依奈はオーブンを閉めた。

衒いも繕いもない、晴哉の世界を






エピローグ、白と黒


 晴哉が再度目醒めると、そこは元いた「ふぁんたずま。」の厨房だった。

 自分だけ帰ってきてしまった。

 それは重苦しい罪悪の心だった。その心は、晴哉の脳に雨を降らす。瀟瀟と。耳の奥の雨音が、侑依奈の「生きて」という言葉すら、掻き消していく。

《僕だけ死ねば良かった》

《どうして僕だけのうのうと》

《あの時カーテンさえ開けなければ》

《ただ朽ちて、死んでいけたら……》

 厨房にある包丁を、手に取った。死んだら会える。死んだら会える。そう言い聞かせた。そして。

 見てしまった。

 喫茶「ふぁんたずま。」は、厨房から店内が見渡せる。カウンター越しに見えたその画は。侑依奈の「はばたき」のコピー。

「喫茶に行ったらわたしの最高を、あなたの最高で塗り潰しちゃって」。

 晴哉は、侑依奈の言葉の中で、この言葉だけ口調が変わったのを思い出した。いつも、自分自身のことを「ハタナ」と呼ぶ侑依奈。何故あの時、「わたし」と言ったのだろう。「喫茶に行ったら」もしこれが晴哉の画で侑依奈自身の最高点を塗り替えると言う意味なら、「喫茶」という言葉は不要ではあるまいか。

 晴哉自身の最高傑作。『雨』。白と黒を反転させた、恨みと誇りを込めた作品。

 晴哉は、壁に掛けてあった『はばたき』のコピーを下ろし、持っていた鉛筆で白く塗られた部分を黒く塗り潰した。

 すると、浮かび上がってきたのは、文字。


晴哉は憧れ。でも、ライバル。絶対に負けないから


 晴哉の眼に、涙はなかった。自分が尊敬する人間に、ライバルとして認められている。こんなに光栄なことはない。何年も気がつかなかった。この画に、こんな仕掛けがあったなんて。

 だから、もう、晴哉は泣きはしない。彼は笑った。



 快晴。いつしか晴哉も世界も元通りになっていた。店から外に出た晴哉は天高く、鉛筆を突き上げる。

「待ってて。姉ちゃんのとこまで、僕の画、届けるからさ」

 眩い太陽に照らされた鉛筆の芯が、少しだけ煌めいた。

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