白き虹が日を貫けば
何か、得体の知れぬ。
それは単なる印象ではなくて、一つの確信であった。
俺は、自身の『それ』に関する才を疑ったことがない。何の才かと問われれば、それはもう全くありきたりで、漠然とした才である。
・土地や建造物を『診る』
地相を診る、と言い換えれば多少は分かりやすいだろうか。不便な才である。アルバイトには勿論、将来仕事に活かせるわけでもない。更には友人にすら理解されない。そしてこの才を持つ者は、自覚のない者も含めると結構な数がいて、希少性も何もない。
それでも俺は『それ』に関して、絶対的な自信を持っていた。
産まれて高々16年だが。この歳にしては多くの、そして様々な土地を診てきたと思う。
口減らしのため水子が殺されていた村に、ひっそりと建つ病院。生後5ヶ月の娘を虐待で殺した男が住んでいた、古びたアパートの一室。身元不明の遺体が布団に包(くる)まれた状態で発見された、巷で噂の幽霊屋敷。
全て、当ててきたのだ。
両親の仕事柄、引越しの多い人生だった。俺は新しい地に越してくる度にその地の隅々を見て回る。実際に診てきた。
そんな俺が、初めて。初めて、「得体が知れぬ」と思ったのだ。
平生、俺が土地を診るとき、鋭敏で繊細な一種の霊感的ざわめきが、背中から腰にかけての毛という毛を逆立てる。踏み入った土地が安全か、はたまた忌み地なのか。自らの感覚のみで判断する。
簡単なことだ。火に入れた鉄板に、素手で触れたら熱いと感じる。軒先にできた氷柱(つらら)に、頬擦りすれば冷たいと感じる。当然のことだ。故に、俺にとっては、『それ』など五感と同等以下の存在なのである。
しかし、例えばだが。
冷凍庫の中が、真夏のアスファルトの如くに灼けるような熱を持っていたならば。沸騰したはずの湯が、ドライアイスの如く凍るような冷気を放っていたならば。そして自分だけが、その違和感に気付いているとしたら。……
俺の眼前に在るこの喫茶店は、そういった類の違和感に包まれていたのである。
【賢きは危きに 近寄らず??】
好奇心が、俺の理性に、……勝(まさ)った瞬間。
❶ 喫茶・ふぁんたずま。
京緋色の日差しの上に小さな白字が並んでいる。外見は全く変哲ない喫茶店。強いて言うなれば、「少し古い」「若者は寄り付かない」「物書きがよく通う」「時流に置き去りにされた」「博識のマスターが営む」「美味(うま)いコーヒーを出す」………こんなフレーズで飾られそうな喫茶店だ。けれどもこれらは全て、外見からの仮定でしかない。他人(ひと)を、対話によって理解するように。土地や建物も、実際に入ってみるしか真に理解する方法はないのである。
・それが俺の、《信念》でも、ある。
初めて遭遇(であ)った得体の知れぬ雰囲気の喫茶店に、足を踏み入れるとなると。流石の俺でも緊張するし逡巡する。
新しいものに興味は唆られる。が、人並みに怯えもするのである。
怯懦し警戒することを不細工だと俺は思わない。寧ろ本能的に正しいことだと断じよう。俺は自分の感覚を疑わないし、歪曲や欺瞞が其処彼処(そこかしこ)に蔓延(はびこ)るこの世の中で、最後に信じられるのは俺自身のみだと考えている。俺は自身に虚偽を用いもしなければ、事実を歪めもしてこなかった。俺は正直に生きてきた。自分を信じていたからだ。
【我思う 故に我あり】
今この地に二本足で立つ「自分」こそ、疑いようのない真実だと思う。
喫茶「ふぁんたずま。」
我が家から学校への通学路。その真ん中に位置する大きな公園の傍に、一本だけある曲がりくねった煉瓦路(れんがみち)、これをずんずん進んで行って三つ目の角。「ふぁんたずま。」はここに、取り残された無人駅の如く鎮座している。
入り口の扉は至って平凡。どこか落ち着く木の扉はクリーム色の壁の中、洋燈(ランプ)の暖かな光に照らされ金色のドアノブを揺らめかせる。恐る恐る触れると少し冷たい。
半身を投げ出すような心持ちでドアノブを回し、威勢よく扉を押し開ける。と。
コラランコロン、コラコロン。
鈴が鳴り響き、中にいた人々の視線が一斉に俺に集まった。身の竦むような思いがする。このまま「失礼しました、間違えました」と言って出て行ってしまおうかとも考えたが、あまりに不自然ではないか。何をどう間違えたというのだ? 顔が熱い。
「いらっしゃいませ」
低くゆったりとした声が耳に滑り込んで来て、俺は我に返った。声の主を見やると、壮年らしき小綺麗な男である。目元に刻まれた幾多の深い皺に黒縁の眼鏡がよく似合っており、執事やらマスターやら、そんな言葉を彷彿とさせる。濃く長い口髭が更にその印象を強めている。身体の線は細いが、明瞭で悠揚たる存在感が、鬱然とした森に立つ一本の大樹を想起させた。
「どうぞ、奥へ……」
骨張った白い指先が示しているのは端の席である。渋柿色の丸テーブルに、飾り気のない洋風の腰掛け。深呼吸して席に着くと、先の壮年の男がメニュー表と水を一杯テーブルの上に置いた。俺は再度深呼吸し、水を一口舐めてからメニューを覗く。
《黒い果実の微睡みシチュー》《いぎりすパスタ、食い倒れ》《括れ蔦の小籠包》《弧を描くオマール海老とウミウシのマリネ》《ノウサギのコンフィ、蜜柑ソース添え》《頭を二度揚げしたカッコウの唐揚げ》《のさばる豆腐を煮詰めた赤鍋》《文学的青いちごのタルト》《字(あざな)を述べし平家蟹の味噌汁》……………
他にも豊富なメニューがあり、到底喫茶店とは思えない品数だ。そしてどれもおかしなものばかり。やはりここには、何かある。
しかし確信に近づく一方で、別の側面では遠のいてもいた。何人か客も入っているし、接客も丁寧に見受けられる。多少奇抜ではあるが実は善良な店なのかもしれない。見極めてやろう、と半ば挑戦的な思いで店内を観察した。
仄暗い照明が雀茶色の壁面を深く沈み込ませている。小さく丸い窓たちから的皪(てきれき)たる光が、まるで森の木漏れ日のように暖かく刺しこむ。屋内の空気は天井のファンにくるくると転がされる。それがそよ風のようで心地よい。オニオンスープの匂いがする。コーヒーの香りも少し。
その中で驚くほど大きな存在感を放つのは、中央に居座る純白のグランドピアノである。ピアノを囲むようにL字型に席が置かれていて、喫茶店としては明らかに不自然だ。客が見ずにはいられぬよう、視線を誘導した場所にそれは置かれていた。
一体、どんな人があのピアノを弾くのだろう。
注文したホットココアをちびちびと啜りながら考えた。
【君を弾くのは どんな美しい人なんだ?】
❷マツイ、
彼は嬉しそうにそう名乗った。
マツイと初めて言葉を交わしたのは、俺が「ふぁんたずま。」に通い始めて1週間ほど経った頃だったと思う。あの日は部活が少し長引いて、遅めの時間に店に寄ったのだ。マツイは、俺がいつも座る端の席の、すぐ隣に座っていた。
30代後半から50代前半。随分広いがそのくらいの歳に見える、中年男性。スーツとベルトで隠してはいるものの、抑えきれない脂肪が腹と頬に溜まっている。宝船に乗り七福神に紛れていても分からないかもしれない。特に食事を摂るときの幸せそうな顔と言ったら、見ているとこちらまで腹が空いてくるほどだ。
彼があの時もさもさと食べていたのは、確か《烏骨鶏(うこっけい)の卵を用いた贅沢とろふわオムレツ》だった気がする。美味しそうにオムレツを頬張る彼を目の端に捉えながら、俺はいつものホットココアを注文した。時に。
「あれ? 君、ここの食べ物は頼まないのかい?」
マツイがひょい、と口を挟んだ。
俺が驚いて声を出せずにいると、マツイは構わず続ける。
「ここの食事は特別美味しいんだ。見たところ、君、部活帰りだろ。お腹も空いただろうし、僕が奢ってあげるよ。好きなものを頼んでいいよ」
「え、……っと、その、初めて会った方に奢ってもらうのは、その………」
「はは、そう警戒しなくていい。君があまり疲れた顔をしていたもんだから奢りたくなっただけさ。見返りなんて求めやしないよ」
それからは暫く押し問答が続いたが、結局俺が折れて、マツイが勧めた料理の中でまともそうな《河豚とマカロニのチーズグラタン》を頼んだ。俺は口は立つ方だと自負しているが、初対面の年長男性相手に主張を貫こうとするほど無作法ではない。しかし一方では、生爪を無理やり剥がされたような感情が、肚の底に溜まっていく。
「注文は一つでよかったのかい?」
「あ、……はい、まぁ。夕食があるのでそんなに食べられませんし、あまり沢山頂いても悪いので」
「子供がそんなに遠慮するもんじゃないよ。このご時世、他人(ひと)をそう易々と信用できないっていう君の気持ちは分からんでもないけど、好意は素直に受け取った方が可愛げはあると思うけどなぁ。あ、ごめんごめん、申し遅れました、わたくし、マツイと言います。君は?」
「……シンイチです」
「良いぃ名前だねぇ。謎解きが得意なのかな?」
「……いや、……」
「え、コナン知らないの? ジェネレーションギャップってやつか、これが! ははっ」
自分のペースで会話を先導しようとする奴は苦手だ。こういう奴ほど、人が持つべき斟酌を、なんの恥じらいもなく抛擲(ほうてき)している。マツイの頭の中には一つしかないだろう。『他人に優しい自分』というぼやりとした絵を、具象化したいという欲。可能ならば無視してやりたいが。
【理由なき好意は 負担と疑念の押し付けである】
マツイのペースは、有無を言わさない。
「君はオセロ、好きかい?」
「……まぁ、……」
「僕もオセロ好きでね。昔はよくやったんだけどさ。オセロ盤を親が買ってくれないから、いつも友達のを借りてたなぁ」
「……はぁ、……」
「オセロの必勝法って、なんだか知ってるかい?」
暫し考えてから、俺は少々控えめな声で、
「……オセロの角(すみ)を先に取る、とかですか?」
と訊き返す。
「だと思うでしょ? これが違う。実際は、『対戦相手の動きに応じて適切なプレイをする』。これが必勝法」
・流石にそれは、ないだろう、と思った。
当たり前すぎる。前提でしかないのだ。あまりにも。
「当たり前、だと思うでしょ。けれど、忘れがちなんだよね。忘れてしまっているというか、考えないようにしてる、っていうかさ。
きっと、対戦相手があくまで『他人』だから、自分の盤面で手一杯な人には分からないんだろうね」
マツイはふぅっ、と溜息を吐いて、それからそっぽを向いてしまった。自分から話を振っておいて。
白か黒かを決める遊戯において、自分の盤面に固執するのは、至極真っ当ではないか。人は皆、他人を気にしてしまうからこそ信念を違(たが)え、事実を歪んだ視線で捉えるようになる。だからこそ、誰、もしくは何が相手でも、変わらぬ己(こ)が必要なのだ。
【垣根をつくるのは 自分でなく他人である】
運ばれてきた熱いグラタンを入念に冷ましてから平らげて、俺はお礼を一言だけ言いその場を去った。マツイは手を軽く挙げ、またおいで、と言った、気がする。
その日の夕飯は一向に喉を通らなかった。
❸学校は、酷くつまらない。
何をするにつけてもつまらない。人は学校という玩具箱(おもちゃばこ)の中にいる限り何も成せぬ。何かを成した気になっていても、どこかで気づくのだ。
・自分は何者でもない、のだと。
しかし、心の中にその気づきを抱えていたとしても、学校では上手く立ち回らなければならない。例えば友だちと一般的に呼称される、定義の曖昧なアレ。作らなければ爪弾き者に晴れて認定されるうえ、何より我慢ならんのは、『自分より馬鹿な者に嘲られる』ということだ。
学校は馬鹿と愚物の巣窟である。大人から子供まで、全員が、だ。それ故に、話を合わせるのは意外に容易でもあるが。
「よー、シンイチ、最近一緒に帰らないけど、どっか行ってんの?」
数学の授業が終わり、昼休み。ノートをとることもなくグラグラと椅子を漕いでいると、同じ部活の男子が話しかけてきた。
「あ、うん。最近母さんの体調が悪くて、俺が家の手伝いしてるんだわ。早く帰らないと後で大変だから」
「アーハン、そゆことね」
「あとは、休める時は喫茶店に寄ってる」
「喫茶店? どこの?」
「公園のそば」
「あったっけ? そこらへん全然行かないから分かんないけど」
「うん。結構強烈なのが」
「今度連れてってよ」
「気が向いたらね」
その日の「ふぁんたずま。」にも、マツイがいた。ただ、マツイ一人だけではなかった。
「あぁ、来たね、シンイチくん! こっちこっち!!」
満面の笑みで手招きするマツイ。俺は溜息を呑み込んでいつもの席に座る。
マツイの向かい側に二人いる。
一人は男。髪はパープルのメッシュ。左耳に3つ、銀白色のピアスが見える。髑髏のタトゥーが入った腕は引き締まっていて、やや太い。
もう一人は女性。黒色のTシャツに濃紺のデニムパンツ、そのお陰かスレンダーな輪郭がはっきりと彫り出される。だが髪に気を遣っていないために、何とも言えぬ矛盾を生んでもいる。赤色のロイド眼鏡の奥から、静かな瞳がこちらを見つめていた。
「こちらは僕の後輩のデモアくんとハタナちゃん、こっちがシンイチくん」
「……は?」
気味の悪い名前に困惑していると、
「あ、ジブン、昔『第六天魔王』っていうロックバンド組んでまして」
男が補足してくれた。
「ジブン、ドラムやってたんすけど。その時の呼び名っス。本名は、立橋海喜って言いまス。よろしくお願いしゃス」
「その名前のどこから、デモア、になったんですか?」
「あ、全く名前とは関係ないっス。ジブン、悪魔が好きで、それっぽい名前にしようってことで」
生粋の馬鹿だ。彼は生粋の馬鹿なのだ。行動に何の根拠も予測もない。ひたすらに純粋な心が透けて見える。しかし、それ故に、……話しやすい、とも思った。
「すごくセンスあるネーミングですね」
「えっ、ほんとっスか! あざっス! 褒めて頂いたの初めてっス!」
喜色満面。彼の笑顔は見ていてこちらも気分が良くなる。理解できた気でいる愛想笑いでもなく、胸に一物あるような微笑でもない。彼が心の底から嬉しくて笑っていると一目で分かるから。
【爛然と輝くその瞳に 俺は些か気圧される】
俺は自分に正直に生きてきた。自分に虚偽を用いなかった。
けれどきっと、それは……。
マツイがトイレに立ったのを見計らって、俺は2人との距離を縮めようと考えた。どうしてか、彼等を知りたくなってしまったのだ。
「デモアさん、腕の筋肉すごいですよね。冬なのに腕出してて寒くないんですか?」
「うス。全然寒くないっス。ジブン、寒さに強いんで」
彼の前腕はまるで杉の木の樹皮のように精密で力強い。バンドのドラム担当ということは、その関係で鍛えたのだろうか。
「……あの」
ここで初めて、ハタナさんが口を開いた。
「私は、……バンド、やってませんから」
「はい?」
「私は、この人と違って、バンドは組んでませんでした。絵を、描いてました」
「……え、あ、はぁ、……そうなんですね」
「絵が、好きなので……」
「なるほど……」
「えっと、……」
何かを言いかけたハタナさんだったが、ぽかんと口を開けたまま、埴輪のように虚空を見つめて動かなくなってしまった。
「カノジョ、マイペースなんスよ。いつもどこか違う場所を見てる、って感じで。今でも、シンイチさんに自分のこと知ってもらいたかっただけみたいっス。俺とバンド組んでたわけではないよ、私には私のやってたことがあるんだよ、って」
そうだよね、ハタナ? と確認するデモアの瞳は海より優しい。ハタナさんも空虚な目のまま首を縦に振った。
羨ましい。
何が羨ましいか、自分では判然としない。この状況を見て、この2人を見て、羨ましいと。俺の脳は判断している。だが、心が認めていない。納得もできていない。どのような径路を辿ればこの感情に帰結するのだろう。
正直に生きてきた自分に、何度問い返しても。只管(ひたすら)に、無口だ。
「あの、ハタナさん。絵、見せてもらっても、良いですか」
不意にそんな科白(せりふ)が俺の口から溢れ出た。ハタナさんは虚空からこちらに視線を移し、じっと俺の瞳の奥を見つめた。そして、俺の背後(うしろ)を指差した。
振り返ると、そこに。
飾られていたのは、多種多様な鳥に囲まれた1人の美少年の油絵である。ペンギン、ハチドリ、フクロウ、クジャク、カワセミ、ウィルソンアメリカムシクイ。1匹1匹が笑顔の少年を囲み、祝福している。そう、感じた。
・その絵画の、住人にされた気分だった。
「綺麗スよね。ハタナはこれ11で描いたみたいっス。こんなの、プロでも描けませんよ」
知らぬ間に隣に立っていた彼は、俺にそう語りかける。
「ちょうど、700匹なんスって。こんな小さな額縁の中に、700匹、鳥の美しさを閉じ込めたんス。とても常人のできる業(わざ)じゃないっスよ」
「……ハタナさんは、……あなたも、どうして辞めちゃったんですか」
「え、なんで辞めたって分かるんスか?」
「さっきから、ずっと、バンドを組んで『た』だとか、絵を描いて『た』だとか、過去形だし。絵を見せて欲しいって俺が言ったとき、ハタナさんの目が少し、悲しそうだったので。根拠は弱いですけど、この絵を見て、なんとなく、……そうじゃ、ないかって」
「……シンイチさん、すごく他人(ひと)のこと見てるんスね。そうなんです。もう大昔に辞めちゃいました」
そう言って、彼は、ハハッ、と少しだけ笑った。いや、溜息をついたのかもしれない。もしかしたら、泣いていたのかもしれない。彼の顔を見なかったから、俺にはその時の彼がどんな顔をしていたか、知りえない。
「夢を追ってたんス。2人とも。才能だけを信じて、蹴って、蹴って、蹴って。この道だけがジブンらのもんだ、って信じてたんス」
「…………」
「でも、それじゃ駄目だったんス。次第にジブンらの周りには誰も居なくなってて」
「…………」
「だから、何もかも投げ捨てたんス。もういいや、って。誰かと向き合わなきゃ、人は生きられないんスよ」
「……こんなに、才能があるのに」
「才能があるからって、全てが肯定されるわけじゃないんス。偉い人が言ってました。『人間』とは、個人と個人の間柄のことだって。他人(まわり)に気を配らなかったジブンらのせいなんス」
俺は。
自分に正直に、生きてきた。
けれど。
きっと。
他人(ひと)に嘘を吐いて、生きてきた。
自分に正直に生きるのは、正直な生き方ではないのかもしれない。
トン、と後ろから肩に手を置かれた。ハタナさんだった。
「ハタナ、ほんとの名前は、ハタユイナ。縮めて、ハタナって、みんな呼ぶ」
相変わらずのマイペースに、俺は可笑(おか)しくなって笑った。
【街はそろそろ 茜色に染まるらしかった】
❹脆い、生き方をしている。
拙いと言ってもいい。そんな今の生き方から、離れられない自分がいる。
「お前から誘ってくれるなんてなー、久しぶりじゃない?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。いつもオレばっかじゃん。去年たい焼き食べたいから東京行こうぜって誘ったのもオレだしさぁ」
「あの時は流石にアホだと思ったけどね」
「うっせ、柳屋のたい焼き、食いたかったんだよ! テレビで紹介されてたし、冬休みだったんだからいいだろ、美味かったんだしさ」
「まぁ、美味しかったけどさ」
「だろ!? あの甘さちょうど良くてさ! 甘いと言えば、飴細工も凄かったよなー。黄桃の飴細工とか鶴の飴細工とか。また東京行きたいなぁ。……で、今日はどこに連れてってくれるわけ?」
「喫茶店。公園のそばの」
「あー、前言ってた?」
「そう。良い店なんだ。お前も一回見てみてよ」
「おー。でも今日は委員会あるからさ。先行っててよ。あとでLINEする」
「りょーかい」
すっかり、「ふぁんたずま。」の常連になってしまっていた俺は、当初の目的を忘れかけていた。俺は、初めて友達を誘ったその日、再び『目的』を思い出すことになる。
ホットココアを注文してゆっくり飲む。ココアの甘さというのは骨まで溶かす気がする。木枯らしにより奪われた熱、それを取り戻すために何もかも溶かして再構成する。寒い日のココアは、きっとそんな力がある。
ピアノを、眺めていた。純白のピアノを。だから、端の席の俺が入り口の方を向いているのは、必然だった。
コラランコロン、コラコロン。
2人の女性が来店した。
1人は少しふっくらとしていて、裕福そうな女性だった。フェルト生地のつば広帽子を被り、肩から下げたブランド物のポーチは駱駝色のコートによく馴染む。
そして、もう1人は。
美しかった。
姿(すがた)頗る嫋やかに。長い黒髪(くろかみ)艶やかに。真白(ましろ)なブラウス、萩色(はぎいろ)スカート。胸のリボンは瓶覗(かめのぞき)。そんな彼女が凛然と。ピアノの椅子の座面の上に。白鳥のような丸い臀部を。ひっそり静かに触れさせた。
刹那。幾星霜の流れの中から、その『刹那』だけが彫り取られて、ルネサンスの美術品と遜色なく、確かにそこに有る。或いは、一切衆生の仏性を掻き集めて、その『刹那』に込めて描出され、飛鳥の時代に創られた仏像の如く、確かにそこに有る。そんな気がした。
10歳かそこらに見える彼女は、すうっ、と店に充満するあらゆる冷たい空気を胸の中に詰め込んで、鍵盤に手を乗せたのである。
それから。
【暴力的なまでに激しい演奏が 俺の耳を衝いた】
彼女の幼い身体からは想像もできないほどの激烈な音が、巧緻な旋律を織り成している。一つ一つの音が強いにも関わらず、一切のペースが崩れない。蜉蝣(かげろう)のようにか細い指先が、左右の手で不随意的かつ衝動的ながらも、それ故に可憐な動きで時間を追っている。否、有限な時間から抜け出そうとしているのかもしれぬ。
小学生の時分、祖父母に連れられてオーケストラによる「カノン」生演奏を聴いたことがある。悠然で壮大な演奏に圧倒されて、身動きできず、終始震えていた。そんな覚えがある、が。
彼女はただ1人で、その感覚を俺に喚び起させたのである。
「興味がおありですか?」
声のした隣の席を見ると、先程のつば広帽の女性だ。
「興味、と言いますか、……ただ、圧倒されていただけです。貴女は、……」
「ユメノと申します。あちらで演奏しているカナの、ピアノ指導をしています」
「そうですか……」
「貴方は、カナの『幻想即興曲』を聴いて、今何を感じていますか?」
「貴女との会話を打ち止めにしてでも、この演奏に聴き入りたいと思っています」
「なるほど……」
互いに4、5分ほど沈黙した。程なく演奏は佳境を迎え、滑らかに鍵盤が唸ると、ぷっつりとそれきり音は途絶えた。その店にいた全ての人が拍手した。が、アンコールは誰の口からも出ない。
一片(ひとひら)、落ち葉が落ちるように、五月蝿い静寂の中で、彼女……カナは椅子からゆっくり滑り降りた。とてとてとて、とこちらの席に寄ってきて、俺の方に一礼。ユメノさんが俺の隣にカナを座らせる。
それから俺はユメノさんに、演奏で感じたことを全て吐露した。それを頷きながら聞くユメノさんと、クマのぬいぐるみを抱いて遊ぶカナ。俺自身でも信じられぬ熱量で語り尽くした。
ユメノさんは言った。
「彼女は、ベガです」
「恒星のような才能の輝きを持つ、ということですか?」
「いいえ。そうではありません。彼女自体がベガなのです。
才能というのは宝箱に過ぎません。彼女の存在自体が、そもそも貴重で重要なのです。如何な下賤な人であろうと、美しさを求めぬ者はおりません。カナはその点において、人が求める美そのものと言っても過言ではないでしょう」
「俺には、貴女のその捉え方は傲慢にも思います」
「はぁ、何が傲慢でしたか? 私はカナのことを肯定しているだけですけれど」
「貴女の言い草はまるで映画批評のようですよ。人を評価しているようには、とてもじゃないが聞こえない。カナ……さんを、モノか何かと勘違いしているんじゃありませんか」
「初めて話した人にそこまで詰られるのは経験ないですね。まぁ、その通りかもしれません。カナは私の物だと思っていますし、手放す気は今もない。私が彼女の存在証明をしているから。カナの選択肢は他にないですもの」
冷淡に言ってのけるユメノを見ながら、俺は身体の最奥を忿怒で焦がしていた。
【弄花でもするかの如き 彼奴の態度に】
俺はカナの方を見た。宮沢賢治が著した「注文の多い料理店」の絵本をじっと読み耽るカナの。その視線に吊り下げられた哀怨の意を、一体俺以外の誰が汲み取れるというのだろう。
俺は燃え上がった闘志の中に、一つの答えを見つけたのである。
・とうとう、見つけたのである。
俺はカナと出逢うために、そしてこの醜女を退けるために、俺はこの喫茶店に呼ばれたのだ。
鋭敏で繊細な一種の霊感的ざわめきが、そう言っている。
このまま一生片想いで終わるより、カナを連れて逃げろと言っているのだ。これは恋ではない。だが片想いだ。彼女という人物への、切なる片想いだ。きっとそうだ。俺は君の存在理由になれないけれど。君が為ならば、たとえ豪炎の中にでも。たとえ極寒の吹雪の中も。たとえ晦冥の深淵にでも………。
俺は半ば強引にカナの手を取って、駆け出した。ユメノの裂帛の叫びが店中を震わせる。無視して店の入り口を蹴り開ける。鈴が壊れたような音を出す。そのまま走った。太陽から白い虹が出ていた。風は吹いていなかった。アイツには悪いけど、今日のところは待ちぼうけてくれ。この子をもっと良い方向へ導いてくれる場所があるはずだ。
【シンイチの行方は 誰も知らない】
「父さん、俺、……変なもの見ちゃった」
「ん、何を見たんだ?」
父親に問われても、息子の顔は上がらない。父親が仕事で使うプリンターの音が、無機質にガショガショと響くだけだ。父親の背後(うしろ)には膨大な量の本が、黒いブックエンドに立て掛けられて、本棚に並べられている。
「……どうした。そんなに言い辛いことなのかい」
「うん……」
「怖い夢でも見たかい?」
「そんな感じかもしれない」
「何を見たのか、言ってみなさい?」
「……俺、今日、友だちに誘われて喫茶店一緒に行こう、って言われてたんだ。委員会が早く終わったから驚かしてやろうと思ってそいつの背後をこっそりついて行ったんだよ。
でも、そいつが居た場所、喫茶店じゃなかったんだ」
「どういうこと?」
「アイツ、公園の中に入って行ったから、そっちに店なんかないのに、って思ってたら公園の近くの裏山にそのまま歩いて行って、森の真ん中で座ったんだよ。
誰も居ないとこに話しかけて、誰も居ないところで何もない物を食べた気になって、何かを見聞した気になってるんだ」
「ふむ……それから、その友だちは?」
「すごい勢いで駆け出して行った。俺も最初何を見てるのか分からなくって、ただ怖かった。信じたくなくて、追いかけずに帰ってきたんだ。父さんにも話すかどうか迷ったし、きっと信じてくれないんじゃないかって……。シンイチ、どうなっちゃったのかな」
「夢を見てるんだよ、多分」
「え……」
「人は生きながらにして夢を見る。そもそも夢と現実の境界なんて曖昧模糊さ。そう考えると、今までの経験も、感じてきた世界も、命も、死すらも、無意味に思えてきやしないかい?」
「……」
「ほら、きっと世界はずっと、夢を見ているんだよ。お前も、夢を見てる。死ぬまで醒めない夢さ。夢を追いながら夢に魅せられ、結局夢の中で全ては完結する」
『あなた』は考える。この息子の父親はこんな顔だったか、と。目元に刻まれた幾多の皺、黒縁の眼鏡、骨張った手、そして、クルンと曲った特徴的な口髭。
「そこで踏ん反り返って見ている『あなた』も、例外ではありません。
親も子も友人も景色も感覚も、全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て、結局のところ夢でないことを証明する判断材料にはなり得ない。
『あなた』、目醒めてみたいですか?真の世界を見てみたいですか?
そりゃ無理ですよ。死んでも新しい夢を見るだけです。夢の匣に囚われたまま、そこで考えるといいでしょう。どう過ごせば有意義な夢を見られるかってね」
【注釈】
①より
・巷…ちまた
・賢きは危うきに 近寄らず…正しくは「君子は危うきに近寄らず」ですが、この作品の主人公・シンイチが間違えているという形で、敢えてこの表現を選んでいます。読者の謎解きに必要でしたから。でもよくよく読み返してみると、難しい熟語をたくさん知ってるシンイチが間違えるはずないんですよね笑
・京緋色…きょうひいろ
・逡巡…しゅんじゅん
・怯懦…きょうだ
・欺瞞…ぎまん
・我思う 故に我あり…大陸合理主義の祖と言われる哲学者、ルネ・デカルトの名言から引用しています。
・彷彿…ほうふつ
・悠揚…ゆうよう
・鬱然…うつぜん
・メニュー表…この不自然なメニュー表も謎解きの鍵になります
・雀茶色…すずめちゃいろ
②より
・斟酌…しんしゃく
・暫し…しばし
③より
・嘲られる…あざけられる
・髑髏…どくろ
・立橋海喜…たてはしかいき。Twitter版では黒塗りで見えなくなっていたデモアの名前がここで初登場です。noteに載せるとき何故黒塗りを外したのか。これにもちゃんと意味がありますが、まだ尚早ですから内緒です。
・爛然…らんぜん
・埴輪…はにわ
・径路…けいろ。経路ではないです
・ハタユイナ…これもTwitter版では黒塗りでしたね。この人の場合登場させたのは、Twitterでも「もう出たから」。さてどの作品に出ているでしょうか。
④より
・駱駝…らくだ
・頗る…すこぶる
・嫋やか…たおやか
・艶やか…つややか
・臀部…でんぶ
・幾星霜…いくせいそう
・巧緻…こうち。技巧が優れていること
・下賤…げせん
・忿怒…ふんぬ
・弄花…ろうか。花をいじるように雑に扱う
・彼奴…きゃつ
・耽る…ふける
・醜女…しこめ
・晦冥…かいめい。真っ暗くらすけのことです
・裂帛…れっぱく
エピローグ
・曖昧模糊…あいまいもこ。アイマイミーではない
【裏話】
私のTwitterフォロワー様方には、仕事の悩み、進路の悩み、人間関係の悩みなど様々な悩みを持った方が大勢いらっしゃいます。
いつもお話して下さる方々や、話はしなくても私の面白みのないレビューを読んでくださる方が、少しでも元気が出るように、と思いながら書きました。もちろん、皮肉の意味も乗せながら。
まず、シンイチ目線の世界において、シンイチは自分の見ている世界を盲信する人間であることが明かされます。
そして「ふぁんたずま。」(イタリア語で幻、亡霊を意味する)に集まる人たちは、自分の視野のみに留まらず、他人(まわり)の世界に目を向けるようにアドバイスします。
ここで裏設定の1つとして、シンイチの世界では「ふぁんたずま。」で出逢うカタカナの名前の人々は全員「亡霊」、つまり「才能を盲信し、周りを見ず、自殺した人々」なんです。シンイチはこれを潜在的に分かっていたからこそ、常識的には考えられない「カナの誘拐」に踏み切るわけです(このカナの誘拐が何を示しているのか、は後に明らかにされるかも、、、しれません)。
ただ、そこで終わっても良かったのですが、もう一捻り加えたのが今回の小説です。
これが「読者様の世界」です。この小説の真の主人公でもあります。所謂メタフィクションですね。
ここでは、「シンイチの世界」でシンイチが学んだ「周りを見て、周りに合わせる」ことの全てが否定され、更に「盲信していた自分自身の感覚」すらも否定します。全否定です。
何故こんなことをしたか。
別に本当に「人生なんて夢でしょう? 生きてるだけ無駄じゃん」ってことを言いたいのではなくて、
「才能がある、ない、周りを見る、見ない、自分を持つ、持たない、これこそが価値観に縛られてるって言うんじゃない?」
ということが言いたいんです。
「人って拙い脆弱な生き方しかできないけれど、聖人を目指してるわけじゃないんだから、人生が楽しくなるように、せめて前向きに生きようよ」と。
「悩んでたって仕方ない」ではなく、「悩みのある脆弱な生き方でも、前向きに生きようよ、死のうなんて簡単に言わないでよ。死んでも苦しみから逃れられるかなんて誰が保証できるの?」ということを。
それを、「夢を見ている」という形で伝えたかったんです。これは別に、なんとなーくわかって下さる方がいらっしゃればよかったのですが、色々趣向を凝らしすぎて構成が難しくなってしまいました。それでは読んでもらえないので、謎解きを設置してあります。
裏設定と伏線として、「シンイチの世界」では沢山森や木、植物に関する表現が出てきますが、これは全部オチに繋がります。緑が表現にないのは、冬の山ですから緑があまり目につくとおかしいと思い排除しました。
あとは、マスターの名前がモルペウスです。作者と読者と登場人物の狭間にいる神様です。ギリシャ神話で夢の神を意味します。
長くなりましたが、ここまでが私の作品全体の解釈および、作者の裏設定でした。
読んで頂き、本当にありがとうございます。
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