自分の苦しみを自分で解っているとは限らない

人がどんだけ知ったようなことを言っても、オマエの苦しみはオマエにしか解らへんのや…

これは昨日の朝ドラ「おちょやん」のなかで言われた台詞です。
これに何かを感じたのですぐにメモったのですが、正確にトレースできているかどうかはわかりません。でもまあ、こんな感じの台詞でした。
この台詞を聞いた最初の感覚は同意でした。その通り、人の苦しみはその人にしか解らないのだよな、という同意。
次に考えたのは、どれだけ共感して傾聴してもその人の苦しみはその人にしか解らない、わかったような気になって何かいうことへの自戒。
まあ、このぐらいであれば、あえて忘備録に残すことはないのですが、少しまえにあった傾聴を思い出しもう少し考えてしまったので書いてみます。
(この話も例え話で創作です)

怪我をしたスポーツ選手が全治したといわれ、軽いリハビリ的なトレーニングをはじめたところ、怪我をした箇所が痛みはじめた。彼女はそのことを「誰にもいえない」と言った。

さめざめと泣きながら訴えるので、かなり悩んで苦しんでいるんだと感じました。
傾聴では話しての言葉をその通り肯定的にとらえるので、周囲に言える人がいないと考えました。
医者とかコーチとか何をしているのだろう?無理をしたら選手生命とか危ないんじゃないのか?、という危険性も感じました。
さらに今無理をしたらここまで苦しんだ治療も元の木阿弥ではないのだろうか?と心配にもなりました。
でも、前回の失敗があるのでこちらからは何もいわず、彼女の話を頷きながら聴いていました。
時折むせび泣くというかなり負の感情に支配されているようなので、脈略もはっきりしません。
そんななか整理しながら聴いていました。
どうやら一番近い人はコーチのようです。
コーチが昔ながらの根性論の人で、訴えも弱音として聞く耳をもたず無理をさせる人なのかと思いましたが、そうではなく、どうやら理解のある人のように聴こえます。
「誰にもいえない」こと、「コーチは理解ある人である」こと、など彼女の泣きながらの訴えを整理してリピートしました。
話を聴きながら、これはもしや、と思ったところで彼女もハッとしたようです。すでに涙はとまっていました。
落ち着いた口調でいいました。

もしかしたら私は「誰にも言えない」ではなくて、「誰にも言いたくない」だったのかも…

あ、それだ、とワタシも気付かされました。
こんな初歩的なリハビリの動きもできない自分を認めたくなかった、もっとできるはずという思い込みがあったことを自らの言葉で話してくれました。
それが自分でも知らなかった苦しみでした。

人は誰かに話しを聴いてもらうと、ひとまず気が落ち着くということがあるようです。
それが傾聴のひとつの目的ですが、ときに落ち着いたことで自分を振り返ることもできると感じています。
今回も自分のなかの断片を話し尽くすことで本当の自分の苦しみにたどり着いたような気がします。
自分の苦しみだから最初から自分で解っているとばかりは言えません。
ただ、やはり自分でしか分かることはできないのですが……。

そもそも「解らない」ことを「解る」ということは、とてもすごいことだとは思いませんか?
誰かに言われたことが解らない、ではないんです。
「解らない」ということは、解らないことの存在さえ分らないわけですから。見えない何かを見出すことの驚きです。
自分の知らない自分を知る。
だから彼女の「自分のなかにある解らないものに辿りついた」言葉を聴いたときワタシは驚いたんです。
思わず、「凄い!!!」と漏らしてしまいました、^^;
突然の素っ頓狂なワタシのつぶやきに彼女はクスリと小さく笑いました。


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