「キモぉ」「ウザっ」「キシょ」の一言で終わる人のこと@講演会

久々の講演会へいったのも現実逃避ということもあるけど、現実のアレコレに追われて思考が低下(アホ)になってきている気がしたから。
少しは本でも読んで、思索すれば良いと思うのだが、次々におきるハプニングに読書に集中できず、思索も霧散してしまう。
やがて疲れて諦めて思考停止になる。これが良くない。
講演会で講師という他者に一方的に喋ってもらったほうが集中できるかもしれない。
そのうえ考えるきっかけになれば良いと思ったわけだ。

さて講演は「君はなぜ、苦しいのか」というタイトルで、講師は石井光太というノンフィクション作家さん。
「君はなぜ、苦しいのか」というと、今のアタシにぴったしカンカンのようだけど、サブタイトルが〜こどもの傷つきを理解し、寄り添うには〜とあり、苦しんでいる子どものことを理解して、大人がどう寄り添うか、というテーマだった。講師の紹介文を読むと石井さんは現代の子どもが置かれている状況に関する著作が多そうだ。やはり子どもについてなんだな。
というか、主催者のテーマは「子どもの貧困について考える」とあり、まさに「子ども」が話題の中心にはなっている。

まぁ、アタシも年は取っているものの果たしてどれほど「大人」なのか?と自問自答はしてみるものの自信をもって答えられない。
ずっと子どもの頃からの課題を背負ったまま、その課題の解決をしたのではなく上手く隠匿しているだけの気もするわけだ。しかも隠匿してまま置き忘れている可能性も高い。それが大人と言えなくもないが、そうだとすると、やはり子どもでしょ、ということになる。

上手く隠匿するのが大人ではなく、自己を鑑みて解決するのが大人だろう。
だから、講演の趣旨は現代の子どもの問題ではあるけれど、なにかを置き忘れたアタシの問題でもある気もしている。まずは何を置き忘れたか、思い出さなければならないのだけどね。

さて、例によって前置きが長くなってしまったが、講演のなかで印象にのこった部分を忘れないうちにメモっていく。

タイトルの「なぜ苦しいのか」だが、同じ社会のなかでも、苦しんでいる子どもと、苦しんでいない子どもがいる。
その違いについて、講演では「体験格差」「教育格差」「言語格差」ということが語られた。
とくに力強く語られたのは「言語格差」。

言葉・・・ロゴス・・・言霊・・・哲学ですね。

このnoteのタイトルにした最近の若者言葉が講演でも話題となった。
最近よく耳する「ウザっ」「キシょ」etcには、アタシも違和感を感じていて、流石に年老いたアタシの周囲で使う人はいないんだけど、ネットでもテレビのなかの街中でも、そこかしこから聞こえてくる。
流行言葉なのかな、と違和感を感じながらスルーしていたのだけど、講演のなかで語られて納得してしまったんだよね。
アタシは知らなかったんだけど、「キシょ」と発話してしまう者のボキャブラリー極端に少ないらしい。

個人的には、「キシょ」は、「気色悪い」だけでなく類似する感覚を(なんなら類似しなくても)なんでもかんでも、その一言で片付けようとする「イメージの言葉」のような気がする。
言葉によってその時の自己の感覚を明確にするのではなく、逆に感覚を曖昧にし鈍感にするための記号のような気もする。

つまり「キシょ」と発する人は、なぜ「気色悪い」のか言葉を尽くして「説明」する能力がないというわけだ。
思わず「説明」と書いたが、語彙力がないということは、言葉を組み立てて「想像」すること「思考」「思索」する能力がない、となる。
「説明」「想像」「思考」「思索」を怠っているのではなくて、そもそもそれらをする「能力」がない。イコール自分を表現する能力、自分を自分たらしめる能力、「基本的自尊感情」も育たないことになる。

さらに「キシょ」には、言い放たれた相手と対話を不可能にする威力がある。
明確な意味もなくイメージとしての「強く言い切られる」言葉に対し、どんな返答の言葉も通用しない。
そもそも曖昧な意味しかもたいない「キシょ」に、言葉によって正確に分かり合おうという意思も方法もない。会話や対話を重ねて、お互いを深く知り合うという人間関係も育たないことになる。
「キシょ」だけで通じ合う仲間がいると言うかもしれないが、意味のない言葉だけによる人間関係が軽薄であり、脆弱であることは容易に想像される。
表面的な薄っぺらな言葉による関係は、やはり表面的であり薄っぺらでしかなりえない。
当該同士は気づいてないかもしれないが、そこにも「苦しさ」がある。

言葉による思索や自己表現による自己尊厳も育たずに、言葉による会話や議論による人間関係も育たない。これではやはり苦しいでしょ。

では、なぜ「キシょ」という人が、言語格差の下層になり、語彙貧困になってしまったのか?苦しい状態になってしまったか?
親のせいもあるらしい。
親がそもそも語彙貧困であれば、貧困の連鎖が生じる。
生育のなかで親子の会話で獲得するはずの言葉が会話がないために獲得できなかった。
そもそも親も子も、家のなかにいても全員がスマホとニラメッコして会話がない。しかもスマホでみるものも「ウザっ」「キシょ」「シネ」etcばかりであれば、それがスタンダードとなり、語彙力、言葉を信じる力が働くわけがない。
子どもを黙らせるためにスマホを与えて有無を言わせない。

このあたりを考えると、語彙貧困の若者も家庭環境や時代の被害者なのかもしれないが、自分で気づけば、どこからでも自分で言葉を得ることはできるだろう。
ただね、言葉を尽くして想像し思索し、自己オリジナルの信念や行動原理を発動させることが出来た、という成功体験もないから、自ら気づくのも容易ではないのかもしれないな。

こうした言語能力による自己表現は、子どもや若者だけの話ではなくて死ぬまでついてまわるって、ことを講師に言われてなるほどと思ったのさ。
例えばね、学生のときに言語能力(思考・想像etc)があったとしても、そのままの言語能力で社会人になり通用するかといえば、否、となるし、社会人新人の言語能力が管理職で通用するかといえば、やはり否でしょ。
老齢になってきても、やはり年に応じた言語能力を身に着いていなければ「老害」と呼ばれるのかもしれない。
昔は、物事を相対的に考えたり俯瞰したり、それを若者がわかるように説明できる言語能力を身に着けた「賢老」という人が多々いたと聞くが、いまではどうなんだろうね。
下手したら、老齢になっても「キショ」とか言っている人もいそうだ。

そして、言語能力というは常に意識して育てないと、退化していくということは実感として感じている。アタシ自身、最近すっかり「書かなくなって」、思考能力が低下している気がする。

やはり、聞いてよかった講演だった。
ここに書かれていることは、講演からインスピレーションをうけてアタシの言葉で綴ったものなので、講師の意図から外れているかもしれない。
「そんなことは言ってない」と講師から叱られるかもしれない。
でもさ、講師の言ったことそのまま要約するのもツマラナイ。
自分の言葉で書かなければ意味もない、ということは講師からも同意を得られるとは思う。


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