見た目の奥に誰しも物語を……
年末、とある編集会議にいた。
仕事絡みで頼まれて何度めかの出席になる。だんだん編集の場にいる人それぞれの「人となり」が解ってきていた。
そのなかにAさんという女性がいた。
さて編集会議の議題は、次号の特集記事を何にするかになった。
いつもは、割に積極的に発言するAさんがその日は静かだった。
Aさんの性格は明るく、明確な意見を言い、それまでにいろいろなことを学んできているのか、ボクの風変わりな発言にもすぐ的確な反応してくれる。その上(セクハラ覚悟で言えば)美人である。
いつしかボクはAさんには何を言っても大丈夫という思いをもっていたうえに、どうも美人さんをみると、イジメたくなるというガキのような心理があり絡んでいたのかもしれない。
なかなか特集の案がでないなか、Aさんが「自死遺族(支援)」の学習会を主宰していることを知っていたボクは、その「自死遺族」を特集してはどうか、と提案した。ボクとしても「自死遺族」の講演を聞いてまもなく、さらに学習したいという思いもあった。
これまで特集されたことがない「自死遺族」のことを、学習会を主宰するほど熱心なAさんが自ら言わなかったことが不思議だったが、変な遠慮があるのかもしれないなぁ、と思っていた。
ボクの提案をうけてAさんは目を輝かせて、それがいかに必要であるか、を話し、特集とすることが決まった。
さて題材は決まったが、どのような内容にするかがボクは解らない。そもそも学習会を主宰しているAさんは何を広報したいのか?
ボクのもつものは「講演会」で得た知識とそこからの思索しかなかった。そのうえで何をしたいかがよく解らなかったのである。
家族を自殺でなくした「自死遺族」は、かなりの数がいる。
自責の念やいつまでも消えないトラウマをもっている。
自殺は悪であるという周辺からの圧力がある。
遺族は話すこともできない・・・etc
では、学習会としては何を広報したいの?という疑問。
自死遺族として悩んでいる事?
周辺の「自殺は悪」という思い込みとプレッシャーをなくしてほしい?
ボクとしては何を聞いてもいいと思いこんでいるAさんに知りたいことと紙面のイメージをどうするのかを聞いた。
いくつかの質問を繰り返すうちにAさんの表情が変わった。
かなり突っ込んだことを聞いたあとのこと。
泣いているような悲しげな微笑になり、実はAさんが自死遺族当該であることを知った。
ボクは愕然とした。あ、まさか。そうだったのか。
ボクはアタマで遺族は相当数いることは知っていた。
でもまさか目の前に、、、しかも、、、、
明るく聡明ではっきり意見をいうAさんのこの表情。
何を言っても大丈夫だと勝手に思い込んでいたボクの言葉がAさんを傷つけたかもしれない。
もちろん、ちゃんと特集記事にするにはどれも必要な質問だったとは思っているが、結局それを「特集」するということは、当該の心の奥底を抉ることにもなるという認識の浅さを識った。
そして、Aさんに対する思い込み。
笑顔の奥の闇・・・・ボクのAさんを見る目は変わっていた。
さてnoteのこと。
傾聴をはじめてから、実際に「生きづらさ」を言葉で綴っている人をフォローをするようになった。
正直にいうなら(少し躊躇しながらもm(_ _)m)傾聴のためにそうした気持ちを知りたいということと、もちろんそれだけではなく、苦しい言葉を聴いている者がいるよ、というメッセージを込めてである。
「生きづらさ」や「苦しさ」を綴ったnoteが目についたときにフォローをした。その後、そうしたフォローでタイムラインにのるnoteは、けっして「生きづらい」「苦しい」だけでなく、明るめのnoteや前向きなnoteも多い。
そうした明るいnoteを眺めながら、もし先にそうしたnoteを目にしていたらフォローに至らなかっただろう可能性を考えている。
明るいnoteの奥にあるものを知らないまま、すれ違っていく。
たとえ悲しみの奥底をしっているうえでの明るく前向きなnoteだとしても、そうしたnoteがつづけば、奥に沈む苦悩を忘れがちになる。
それは本人にとっても、周囲にとってもいいことかもしれないが、どうも苦悩と言うやつはそれほど容易に解消するようなものでないことをAさんのことやnoteで思い知らされた。
つまり何が言いたいかというと、人は見た目では解らない物語をそれぞれの奥に抱えている、ということである。
こんな当たり前のことでも、人はつい忘れてしまい見た目で判断して、勝手な像を決めつける。
今年の課題は、誰しも奥に物語をもっていることを忘れないこと、にしようかな。
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