ただ、共感すること


映画、きみはいい子 を観た。

また泣いてしまった。

齢を重ねるたびに涙腺が伸びきり、もう収縮しない。
ダダ漏れ。とめどなく落涙。

映画のなかで今時の気になる苦悩、アレコレが同時進行する。
これでもかというほど練り込まれていた。

自閉症の子と親
学級崩壊
認知症
育児放棄
子どもの貧困
児童虐待と虐待の連鎖

泣いてしまったのは、
我が子への虐待が止まらない、元被虐待の母親Aのこと。
公園友達で自らの被虐待を乗り越えただろう母親Bが、
目のまえで我が子への虐待に走る母親Aを抱きしめて受け止めるシーン。
(ポスター下)

母親Aは自らのながい呪縛に気づいた表情。
きっかけは母親Bの共感。
抱きしめながらの共感。

母親Bは、Aを助けるため抱きしめたのではない。
ただ、Aを抱きしめたかった。
だから淚が溢れる。
この「ただ」がいいのである。
目的も結果もない。
「ただ」抱きしめたかった。
そこまで距離をとっていた母親Aを抱きしめた。

結果的に母親Aが呪縛から解放されるかもしれない。
自らの虐待に気づき、虐待をやめることになるかもしれない。

でも母親Bにはそんな期待は見えない。
他者のためではなく、自分がそうしたかった、ようにしか見えない。
いってしまえば自分の為。
母親Bにとっては自分がそうしたかったから。

母親Aにしてみれば、とつぜん抱きしめられたかたち。
抱きしめられ自らも口にできなかった苦しみを苦しみとさえ認知できなかった感情を吐露する言葉を、他者から聞いた。

制止でも、説教でも、解説でも、訓示でも、批判でも、怒りでもない、
ただ共感する母親Bの言葉。
母親Bが自分のために漏らした言葉。
母親Aを巻き込んで漏らした言葉。

これがいいんだよな。

ただ共感できる自信がいいのだ。

こうした自信にふれた母親Aは自らの課題にきづき、自らを解放しようとするだろう。
そうした「自己責任」なら素敵ではないか。


自らを信じることのできない「自己責任」の押し付け、
命令や、説教や、解説や、訓示や、批判や、怒り、、、なんかじゃない。


ただ共感できる、そんな社会なら、きっとアレコレがうまく行くと思う。




泣けてしまうということは、ただの共感が稀だと感じていることかもしれない。


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