「良心の押し付け」を警戒する@傾聴
さて、傾聴仲間のなかで「良心の在り方」ってなんだろう?
ということがプチ話題になった。
ん、そういえば良心ってなんだ?とあらためて考えようとするとまずそこで躓く。
辞書によっていろいろ書いてあるが、都合のいい辞書を採用する、笑
〘名〙 物事の是非・善悪を正直に判断し、状況や利害に左右されずに善いと信じるところに従って行動しようとする気持。 人間が生来もっている心とする「孟子」による説、後天的な教育によって育つものとする説などがある。
そもそもが傾聴における良心、ってことなんだけど、傾聴でなくてもいろいろなことに共通する気がするのでnoteに書いてみることにした。
ボクらがやっている傾聴というのは、悩みをなんとかしたくて話したい人の話を聴く、というもので、それは「良心」によってやっているのかもしれない。
知人でも友人でもない他者の悩みなんてドロドロしたものをわざわざ聴くなんて、普通は嫌なものだと思うし、金を貰っているわけでもない。
が、「嫌」という状況や「損得」という利害に左右されずに、あえて聴こうとするのは、それは自ら「善」であると判断したからだろう。という意味で良心に従った行動だと言える。
ところが聴き方によっては、善でなくなってしまうことがある。
それがもし悪になってしまえば、すでに「善と判断して行動している」ではなく、結果的であろうと「悪な行動」となり、その良心はすでに死んでいる。
でもさ、自らが善と判断して行動している限りは良心じゃん。と開き直ることはできるかもしれないが、相手にとって悪となってしまえば、自らの判断が善でも単に独善となってしまう。この線引がけっこう難しく、傾聴では独善に陥りやすいのかもしれない。
そもそもの出発が良心であれば、ずっと良心でいられるか? ちょっと考えてみる。
傾聴によって他者を助けるのは良心だと思う。
ただ傾聴とは、他者の話を聴くことによって「その人が自ら解決の糸口を見出し自ら救われていく」ことである。
悩む人が自らの力で自ら助かっていく、、、傾聴にはそうした力があり、人にはそうした力があることを信じる。実際にそうなっていく。ここまでが良心である。
けっして、悩む人に代わって助けてあげる、ことではない。それは聴く者の独善である。
話す者、聴く者、双方にとって善である限り良心なのだ。対等でなければ良心ではない。
ときにこれを勘違いする。まあ仕方ないのだけど。
悩んで、たとえば極論「死にたい」とまで悩んでいれば、なんとかしてあげたくなるのが人情である。悩んでいるほうも藁をも掴む心情で訴える。
そもそも良心に従い、「なんとかしたい」と思って聴いている人であるわけで、「その悩む人が自らの手で助かる」を忘れてしまう(もしくは知らない)傾聴人は独善に陥る。
ただ、あくまでもどこまでいっても傾聴者の良心は、話を聴き、その人のもつ力を促すなのだ。
そこを超えて良心が暴走してしまえば、良心ではなくなる。
まあ、実際のはなし、他者になんとかなる悩みは自分でも解決できる悩みで、自分で解決できない悩みは他者にも解決できないものだ。(法律や経済のシステム的な悩みは別なんだけどね)
もし前者の自分で解決できる悩みを代わって解決すれば、そのものの自ら解決するという楽しみを奪っていることになる。その楽しみを奪って愉しんでいるのは罪深い。悪と判断したくなる。
ただ、自ら解決すべしと言って、ほっておくのでなく側にいるのである。そこまでの良心(善)であって、それ以上は良心でもなんでもなく悪といえるのではないか。
わかりにくければ、子どもが悩んでいるのを代わって解決してしまう親を想像してもらえばいい。
放置ではなく子どもの側にいるのが双方にとっての善で、代わりに解決することで「子どもの解決する楽しみ」「成長する楽しみ」を奪う親は悪なのだ。
でも、親として子どもが悩み苦しんでいるのを見てられない、という心情はよく分かる。
が、やはり善と悪の線引をしなければ良心は死んでしまうのではないか?
悩む大人の、子どもと同等にするな!! というお叱りは受け付けない。
悩む構造と解決する構造は同じであり、悩むことにおいては大人も子どもも変わらない。
良心とは押し付けるものではない、、、、
一歩引いてその者のもつ力を信じることが良心になる、、、
良心と独善の線引を見極めないと、良心を誤るよな、、、、、って考えた日曜の午後。
そうそう、noteでわざわざ発表するエッセイは基本的に「自戒」のために書いているものです。
他者に対して言っていることではありません。
でも、共感いただける方にはその限りではありません。テヘペロ。
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